I. 絵画の奥にて

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 人魚は不老で総じて美しいという言い伝えの通り、彼もその例外ではない。  青に映える金髪と清雅な翠眼の奥の瞳孔は猫みたいに細く魅入ってしまう。透けるように白い魚の尾、尾びれはまさしくフィッシュテールの如くひらひらと波に靡き、神秘的ですらある。  祖母は私を「世界一可愛い子」と言い、癖っ毛な赤毛と灰色の瞳もよく褒めてくれたのでとても気に入っているのだが、それでもやはり彼の美しさには惚れ惚れして、少し羨んでしまった。  その日以降、私は美しい人魚に会うため毎日のように城の洞窟へ足を運んだ。  私が洞窟へ向かって声を掛ければ、不思議なことに彼はいつもひょっこりと水面へ顔を出した。  私の言葉を何となく理解はしているようで、話しかけると彼は応えるみたいにはくはくと口を動かす。けれど声を発することはなく──または人間には聞こえない音域なのか──人魚の歌声を聴いて船が沈没するという伝承はどこからきたのだろうと、首を傾げた。  彼と会っていたのは好奇心を抑えられなかったというのもあるけれど、近頃の私は父の厳しいしつけに毎日泣いてばかりおり、彼との時間が心の気晴らしと慰めになっていたのだ。  妻となり子を産んでなお少女のような面差しの愛らしい母も優しく私をあやしてくれ、あまり厳しくしすぎないよう父を宥めてくれてはいたが。  祖母に可愛がれていた記憶もまだ鮮明に残っていたので、それらを支えに、父の厳しさも将来良い縁談があるように、どこへ行っても恥をかかぬようにという愛情なのだと自らへ言い聞かせていた。  しかし彼に出会ってから、世には私の知らぬことがまだまだあって、未知に満ちていて、途轍もなく広いのだと実感した。私と歳も変わらぬように見える彼は、この城の中だけで生きてきた私とは違い、あの大海を知っているのだ。  もっと外のことを知らねばならない、という気持ちに駆られる。  見聞を広めるために隣国へ留学などしてみるのはどうだろう。そしていずれ父の仕事を手伝うのだ。私は兄弟がいないし、このまま弟が生まれなければ私が家を継ぐか婿養子を迎えることになる。そのとき、きっと役に立つのではないか。  私は名案だと、早速父に意気高らかに話した。  けれど──頬を打たれて終いであった。  そして父は私にこう言い捨てた。 『お前には必要ない。そんな絵空事にうつつを抜かす暇があるのなら刺繍の一つでも出来るようになれ』と。  埠頭の先に膝を抱えて座り、黙したまま水平線を見つめる。  暫くして、ぱちゃりと傍らの水が跳ねた。声を掛けた訳でもないのに、何故か彼が顔を覗かせている。  私は彼を一瞥して、すぐにまた水平線へ視線を戻し、変わらず口を閉ざしていた。意図せず無視する形になり心苦しくもあったが、声を掛ける気力すらもなかった。  すると大きく水面が波打ち、埠頭の上に彼が乗り上がった。そしてその手が腫れ上がった頬へそっと伸びてくる。心配そうな面持ちでいる彼の、冷たい手のひらが触れた瞬間、我慢していた涙がぼろぼろと溢れていった。  どうして父はあんな風に怒ったのだろう。  私は何か間違ったことを言ったのか。  泣きながらそう呟く私を、彼は眉を下げてじっと見つめていた。そして慰撫するように握られた手の甲に、彼の唇が落とされる。呆気に取られてそれを見つめていたら、突如身体が大きく傾いた。  どぼん。  海に、落ちた。いや、引き込まれたのだ。  彼は淡く光る尾を優雅に揺らし、私の手を握りながら穏やかに微笑む。  ──歌──歌が聴こえる。  子守唄のように優しく、賛美歌のように包容とした、ボーイソプラノの、肌が粟立つほど美しい歌声。  ──歌っている、彼が。  私は力を抜いて彼と海に身を委ねた。  突然海に落ち、もうとっくに息切れているはずなのに、不思議と息苦しさはない。水の中が、こんなにも居心地が良いなんて────  彼が顔を寄せてきて、互いの頬と頬が触れ合う。打たれた箇所を頬擦りをされているようで、胸がいたく締め付けられた。  家族である父は私を打擲するのに、異なる種である彼はこうして私を慰めてくれるのか。そう思うと、涙がとめどなく海水へとけていった。  ここには貴族の規範も、高い身分へ生まれついた責任も、何の(しがらみ)もないのだな。  私の価値を私以外の誰かが決めることもない。  ただ私と彼だけがいて、それを否定するひとはどこにもいない。  ──もし、もし私が貴族の娘じゃなかったら、彼と……  ごぼ、と肺に水が満ちる。  驚いたような彼の表情を最後に……意識が途切れた。
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