II. 亡きノンナの手帖

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II. 亡きノンナの手帖

「お嬢様、この度はご婚約おめでとうございます」  廊下を歩けば使用人達から口々に祝いの言葉を告げられる。その度私は単調に「ありがとう」と答え足早に立ち去った。  ──四十も歳上の男のもとへ後妻として嫁がされるのに、一体何がおめでたいのかしら。  それでも、後妻とはいえきちんと家格の釣り合う男性へ嫁げるよう手配したのは、父の僅かばかりの温情だろう。  ここ数年、父は城を留守がちにしている。  長く体調を崩している母を気遣い、父は領地の山手に小城を建て、療養のため母をそちらへ移した。父もその城に滞在することが多く、使用人が数名と私だけの城内は閑散としている。  母を苛んでいるのは、様々な噂である。  まず、数奇なことに、私が十八の娘になっても母の面差しは少女のままだった。  私と並べば最早母娘ではなく姉妹のようにしか見えず、年老いぬ母は魔女なのではと社交界で噂の的となり、母は気を病んでしまった。  案じて見舞いに行こうとしても父には身体に障るから来るなと言われ、母には全くと言ってよいほど会えていない。おそらく父は会わせたくないのだ。  私がなのではないかという噂も、私のデビュタントを機に大きく広まっていったから。  頑是なかった私が気付かずにいただけで、その噂は私が幼い頃より燻っており、使用人や親戚、交流のあった貴族間ではまことしやかに囁かれていた事柄だった。  いた仕方ない、一族のなかでたった一人──私だけが赤毛で、顔立ちも両親に全く似ていないのだから。  とは言え父は婿養子だったうえに母をたいそう愛していたので、母の身の潔白を信じた……否、信じようと努力した。  しかし、母のことは変わらず愛せても、自分はおろか愛する女にも似ていない娘を可愛がることは終に出来なかったようだ。  今までの父による厳格なしつけは、愛情ではなく憎しみだったのだと知る。一族の誰にも似つかぬ私が煩わしく。己の血を分けぬ他人が娘として傍に在るのが悍ましく。だから遠方に住む公爵へ嫁がせ、さっさと厄介払いし、母をこの城へ呼び戻し二人きりで暮らすつもりだろう。  一人娘の「家を継がせて欲しい」という言葉に耳を傾けもしないほど、私が憎いのか。母のように婿養子を迎えるという提案をしようともしなかった。  ──それでも、こんな噂が付き纏う私が無事嫁げたのは、父のおかげだと感謝するべきなのかしら。 『あちらで何人か子を産め。その内の男子一人をこの家の養子にするという話は、公爵も了承している。子を手放したくないというなら別に要らぬ、遠縁から養子を貰えば良いだけのことだからな』  ──でも、ああ、どうしようもなく……息が詰まる。  私の精神が幼いからなのか、公爵の子を産む自分を上手く想像出来ずにいる。子を産んで育て、黙して静かに控えめに、夫を献身的に支えて尽くして。それが貴族の娘としての正しい人生なのに──それに抗おうとする気持ちが、私の心の中に、息を潜めて住んでいる。  子を産まなければ無価値なの。  男に弁駁を説いたら賢しいの。  望まぬ結婚が本当に私の人生なの。  誰かと結ばれて子を育てることを決して軽んじている訳ではない、ただそれを望む人間と望まない人間がいるだけ。何も不思議なことじゃない。なのにどうして誰もそれに言及しないのか。疑問に思わないのか。  ──でも、私が本当に望んでいること、したいことって、一体何だったかしら。  貴族の娘でありながら、こんなことを考えずにはいられない私が可笑しいのだろうか。
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