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「お嬢様」
立ち尽くし、窓辺から見渡せる水平線を見つめていたら、いつの間にか傍らに一人の使用人が立っていた。手には黒々しい牛革の手帖が握られている。それを私の目交いへ差し出した。
「大奥様の机を引き取りに来た業者の者から、家人に渡すようにとお預かりしました」
長い間放置されていた祖母の部屋の家具たちも、私の嫁入りを機に処分されることとなった。デザインはもう流行遅れだったが、材質が良質なものだったため解体されて業者に引き取られることになっていた。そのなかのプレジデントデスク、その一部の引き出しが二重底になっており、そこからこの手帖が出てきたという。
日記かしら、と手帖を紐解く。悪気もなしに頁をめくり、私は僅かに目を見開いた。
春に咲く野花、夏に巣作りに渡る鳥、秋に実る葡萄畑、冬の暖炉に灯る火。南のバルコニーから見える山々と草原、庭師に整えられた中庭の花園。
──お祖母様、絵をお描きになったのね。
鉛筆で素描された数々の絵が、そこには敷き詰められていた。祖母が絵を描いているところなど見たことがなく、全く知らなかった。確かに気に入った無名の画家を支援したりと、鑑賞者として芸術を嗜んでいた記憶はあるけれど。
絵は素人目にみても、とても美しい。ちょっとした落書きを思わせる走り書きでさえ、まるで本の挿絵のよう。
僅かに色褪せた紙をぼんやりとめくり続け、私はある頁で息を呑む。
それまで小動物や草花、風景画ばかりであったのに、突如男性の裸体が描写されていたのだ。彫刻のように至極整った顔立ち、均整のとれた上半身──けれど奇怪なことに、下半身には足ではなく、魚の尾が描かれていた。
──……人魚、ですって?
私は夢中で頁をめくった。
人魚、人魚、人魚!
手帖の後半ほぼ全てがその人魚で埋め尽くされ、そのまま手帖は最後の頁を迎える。
人魚と、目が合う。
今にも手帖のなかから手を伸ばしてきそうな、鮮やかな人魚がそこにいて、数瞬、呼吸が止まる。
それまでのモノクロームとは違い、色鉛筆で綿密に塗り込まれた、最後の絵。まるで油絵のようなはっきりと色濃い多様な色遣いが、祖母にはどれほどこの人魚が美しく見えていたのかを、どれほどこの人魚のことを忘れたくなかったのかを感じさせた。
空想ではない、これは現実なのだと訴えてくる。
陽光を浴びて煌めく白き砂浜のような肢体、真珠層の如き虹色の鱗、ヴェールを思わせる尾びれ。
そして……嵐雲の如き灰色の瞳に、淡く赤らむ珊瑚に例うる、赤毛────
手から手帖が滑り落ちていく。
音を立て、手帖が床に開いた。
手帖のなかから人魚がまるで生きているかの如くこちらを見つめている。
最後の人魚の絵を見た刹那、星を繋ぐ線が星座を浮かび上がらせるようにその全貌を現し、全てが氷解する。
祖母の秘密と、母の若さの理由。
そして私が、何者なのか。
「……行かなくちゃ、あの場所へ」
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