Ⅲ.さいあいの庭

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Ⅲ.さいあいの庭

 幼い頃、長時間私の姿が見えないことに気付いた母と使用人達が必死になって城中を探し、あの埠頭でずぶ濡れのまま倒れているのを見つけたのだと後に聞かされた。あそこへは二度と行くなと父に叱責され、近付くことは出来なくなった。  そのまま距離置き、歳を重ねた今ではあそこでの出来事は幼かった自分の空想だったのかもしれない、などと思い込んで自己完結させていた。  しかし、やはりあの場所に人魚は居て、祖母もあそこで人魚と会っていた────  久方ぶりに足を踏み入れた祖母の部屋はがらんどうとしている。家具も何もなく、あの絵画も遠い親戚に譲られていった。壁の扉はもはや隠されもせず僅かに開いており、手招くように暗闇を覗かせている。私は燭台を手に、吸い寄せられるようにその中へ入り、おもむろに階段を降りた。  長い階段を降り行くなか、手帖の数々の絵を思い出し眦が熱を持つ。  祖母がその人生で本当にしたかったことは、きっと様々な(しがらみ)に阻まれ、出来なかった。私と同じく、産まれる前より決まっていた『正しさ』が祖母を『貴族の娘』に縛りつけた。  それでも祖母は一度だけ、その柵の外へ出でた。  刹那でも、自らの気持ちに従い自らの生きたいように生きた。  それが自らを幽するこの世界への祖母なりの復讐だったのか、それともただ純粋に愛する衝動に従ったのか……今となっては分からない。  それでも、その瞬間だけはきっと祖母は自由で、幸福で、例え長き人生から見れば瞬きの間でも、そのようなひとときがあった祖母が、私は羨ましい。  見知らぬ遠い地へ嫁ぎ、自分を殺して生きていくくらいなら──一度だけで良い、それが最期となっても良い。  自分の好きなように生きたい。  自分の人生を、誰にも指図されず、自分で決めてみたい。  そう考えるうちに、いつの間にか階段を駆け降りていた。息を切らし、懐かしき洞窟へ出る。  ──もう、居ないかもしれないけれど、でも。  急く気持ちに押され埠頭の先へ走ろうと勢いよく踏み出した爪先が、何かを弾いた。それが音を立てて海へ落ち、驚いて足を止める。否、止めざるを得なかった。  埠頭を埋め尽くすほどの、真珠と、貝殻と、石と、珊瑚が──眼前に広がっていたのだ。  は、と、息を呑む。  膝をつき、震える手でそれを掬い上げた。まさか、という思いが胸を占める。  ずっと……私が来なくなってからもずっと、彼は此処を訪れていたのか。償いのように、これらを置き続けていたのか。  そしてこれを置く度に、私のことを思っていてくれていたのか、何年もの間──  涙が溢れ、手のひらの真珠をしとど濡らした。  人魚とは、なんと愚かで、愛しい生き物か。  償いなど必要ない。海の中へ落ちて彼の歌声を聴いたとき、私は初めて生きた心地がした。まるで産まれ落ちた瞬間のように、初めて息を吸えた気がしたのだ。  あの時間が、私が人生で唯一自由を感じた瞬間であった。  全てを投げ打ってでも、海中を漂いながら彼の歌声を聴いていたい。  私の魂を彼に預け、大海を泳いでゆきたい。  そうだ、それが、私の望んでいたこと、だ。 「連れていって、私を、あなたの傍へ」  波の音にさらわれるほどのささめきだった。  けれど当然の如く、ぱしゃりと水面が揺れる。  私は、ひどく安堵し、そのまま、ふらふらと水辺へ近付く。  海中を覗きこむために地についた手を、水面から現れた男性の手が性急に、些か乱暴に掴んだ。  海中を見つめ、涙に濡れながらも微笑みがこぼれる。  やがて身体が傾き──私はあのときのように、全てを委ねた。
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