エピローグ

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エピローグ

 明治二年五月十二日。  箱館病院にて、伊庭は榎本から土方の訃報を聞いた。伊庭だけではない、重傷のため入院していた兵士もみな聞いていた。 「…………」 「いま、新政府軍の黒田清隆公より降伏勧告を受けている。君たちは──どうするかね」  榎本は言った。  どうする──という意味は、彼の左手にあるモルヒネの瓶がすべてを物語っていた。  屈するか、死ぬか。  伊庭は迷わずに手をあげた。 「私はそれを」  その潔さに、榎本は一瞬だけ暗い顔をしたけれど、すぐに微笑んで手渡した。 「私もすぐに追うから、──先で待っていてくれ」  伊庭も笑ってうなずく。 「ありがとう、ございます」    明治二年、五月十二日。  伊庭八郎、服毒死。  その遺体は、土方の隣にひっそりと埋葬されたとも言われているが、詳細な位置はいまだもって分かっていない。  五月十五日。  協議の上、新選組最後の隊長相馬主計らは、ついに降伏を決意。  榎本は黒田清隆に、貴重な洋書が燃えてはあまりにもったいない──と、海律全書を贈った。  その日に薩摩藩士と会見をする。  未だ降伏を拒否する榎本だったが、この会見によって、負傷者達約二百名は湯の川へ送られたそうだ。  さらに黒田は、海律全書の礼として、翌日お酒五樽を五稜郭の箱舘政府に送ったとか。  書状には、兵糧や弾薬が少ないならば贈る、とあったがそれを断り、いつでも攻撃していい、という返事をした。  みな、酒に毒が入ってないかと冷や冷やしたが、自他共に認める狂人──額兵隊長の星恂太郎が毒味を買ってでたこともあり、やがて酒を分け合ってお疲れ、という宴を開いたそうな。  ──。  ────。  弁天台場が降伏したと知らせを受けて十六日、榎本も降伏を決意する。 「榎本総裁、おやめくだされ!」 「私が腹を切らんでどうして皆を助けられようかッ」 「お願いします。榎本総裁──あなたは我々の最後の希望です。あなたがいなくなったら……他の者たちもみな腹を切るッ」  榎本、大鳥といった幹部陣は切腹を試みたものの、部下の説得により刃を下ろした。 「………………、……」  十八日、旧幕府軍全軍降伏。  五稜郭は、開城した。  ※  ──京にて、とある光景を見た。 「新選組隊士、岸島芳太郎と申すものですが」  そう声をかけた家から、女性が出てきた。  少し疲れているようすである。 「──原田隊長の御内儀で」 「はい」 「原田隊長は、上野戦争にて、立派な最期を遂げられました。聞く話によれば、だれよりも奮迅し──」  その報告に、婦人は膝を折って悲しむ。  また、東京ではこんな男と会った。  長身で見目の整った直衣の男が、桜が見事な深川の野っぱらに酒を撒いていたのだ。 「なんしよるか」  と笑ってたずねると、男は朗らかに微笑んで「祝宴だ」とふたたび酒を撒く。 「戦が終わったら祝宴でもしようや、と──約束していた友がいた」 「ほに──」 「村垣ってんだがそいつァ、すこし前に死んだもんで。ここで焼いたんだ。俺がね。だから、飲ませてやっているのサ」  男は最後に残った酒をあおり、笑う。  また、会津ではこんな話も聞いた。 「山口っていい男がいたろう」 「ああ──立派な男だったなあ。官軍の捕虜になって、まもなく脱走したと聞いたが」 「うん。いまは別の名を名乗ってな、東京で警察をやっとるらしい」 「本当か」 「おまけに噂じゃ、木から吊るした缶をひと突きで捉えるってんだから──さすがだよな」 「ふふ、名を変え居場所を変えども、目立つ御仁だ」  男たちの話は、尽きずに続く。  そのまま足は、長年憧れていた蝦夷地──いまは北海道という名前になった──へ。 「ほえェ。北海道はでっかいどう」  つまらぬボケを呟いて、ひとり笑う。  函館に入り、五稜郭をめぐる。  それから札幌、小樽へ。  あの黒田清隆が北海道開拓使長官になり、札幌を拠点に工場や鉄道を敷設したという。  なるほど──幾年前までは想像もつかぬほど発展しているようだ。 「初め、蝦夷地に目をつけたがはわしじゃというに」  小樽に到着してひとりぼやいた。  目の前から、小柄ですこし垂れた目をした男が口笛を吹きながら歩いてきた。 「おや──」  以前、どこかで見たかもしれない。いや気のせいかな。──と、首をかしげていると、だんだん距離が迫る。  すれ違い様、男はちらりとこちらを見た。  負けじとこちらも見つめ返す。 「…………」  ハッ、と男は息を呑んで立ち止まった。 「…………」  しかし、こちらが人差し指を口に当てて苦笑すると、男も一瞬口を開けて目を見ひらく。  無言で笑い、うなずいた。 「すまんの」 「お互い様よ」  笑いあう。 「そうじゃ、あんた」 「…………」 「新選組に匿われていた女をふたり知らぬか」  小声で問うたが、男には聞こえていたようだ。しかし男は眉を下げて「女?」とつぶやく。 「知らん」  男はひらりと後ろ手を振った。 「夢でも見たのじゃないかェ」  ふたたび口笛を吹きながら去っていく。 「……夢」  夢だったのだろうか。  ──いいや、違う。夢なものか。  そう思い直してふたたび歩む。 「なんたって俺が証よ」  くくっと笑った。  さて、ようやく北の果てに来た。  日本は狭いと思っていたが、それでも巡ってみれば広かった。 「これが、世界となりゃあ──どれほどのもんかのう」  ここから、どこへいこうかな。  坂本もとい坂谷は、北の寒風に身を縮めながらそう思った。  ※  さて、久しく見ていなかった彼らはといえば──。  伊藤俊輔は博文と改名し、十一月に大隈重信とともに鉄道建設を計画。  明治四年の八月には断髪廃刀が許され、陸奥宗光が神奈川県知事に就任。  同年十一月には、岩倉使節団の団員になった木戸や伊藤が、渡米する。  時代は、目まぐるしく変わっていた。  京都、夢見坂。 「…………」  上に広がる空をみた。  雲は、止まっているように見える。  それでもたしかに時は動いていた。 「この時間のなか──みんな生きていたんだね」  葵がつぶやいた。  あの時代、決して恵まれていたわけではないけれど。  みんなが、一生懸命生きていた。  一日一日を精一杯生きていた。  生まれてきた意味も、死にゆく意味も、そんなことは関係ない。  生まれたからには、生きて、生きて──。  己の生きた証をこの世に残していった。 「一生懸命生きるのも、悪くなかったな」  という綾乃に、葵は 「ねえ」  といたずらっ子のような目をする。 「もしも、またこういう旅行に行けるなら、どこに行きたい?」  綾乃を見た。  しばらく、黙る。  が、やがて破顔った。 「……そうだなぁ、でも」  彼女の顔は、実に晴れやかだ。 「もう過去はいいから、土方さんのところに行きたいな」 「本当好きだね。でもまあたしかにいい男だったよ、うん。それは認める」 「ははっ。それを言うならわたしも、土方さん以外にもいい男はいっぱいいるんだってこと、認めるよ」 「ふふふふ、そうだね。いい男もいい女も、たくさんいたね」 「なんだったんだろう。この長ァい旅行は」  綾乃の言葉に、葵はふと考えた。 「夢を、見ていたような旅行だったから──“夢見旅行”かなぁ」 「いいねそれ。あっ」  ふいと視線をズラせば、この坂の名前の碑が目に入る。 「ここもまた、夢見坂!」  ハモった瞬間、お互いに吹き出してまた、笑った。  今日も空は青い。 (完)
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