第一章 過去へ

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 残暑厳しい九月某日。  盆地特有の湿気にくらりと眩暈がする。JR京都駅から市バスでおよそ十五分の『壬生寺道』停留所。降り立つ瞬間から、ファンはに踏み入れる。  ────。  聖地のひとつ、八木邸。  新選組が、前身組織である壬生浪士組(みぶろうしぐみ)時代から屯所にしていた場所である。彼らは時勢とともに拠点を幾度か移したが、ここ壬生村での生活がおよそ三年と一番長かった。  ここでもっとも身近に歴史を感じられる痕跡といえば、 「鴨居についた刀傷」  であろう。  初老のガイドが、廊下を出た左、隣室の鴨居を指さす。 「こちらは、新選組隊長をつとめた沖田総司(おきたそうじ)が、当時の巨魁局長である芹沢鴨(せりざわかも)を暗殺する際につけた傷、と言われております」 「暗殺……」  葵はぐっと首を伸ばした。  当時の造りゆえ、鴨居の位置は現代よりよほど低いものの、百五十センチを切る身長の自分にとってはたいして変わらない。  ほかの客は鴨居を流し見て、すぐに隣室へ移動していく。が、葵は意地でも近くで見ようと爪先をピンと伸ばした。  瞬間、上体がふわりと浮く。 「ホラどうだッ」  綾乃だった。  高身長な彼女が、葵の腰に細腕をまわして軽々と持ち上げている。おかげで葵はようやく鴨居の傷との対面が叶った。  とっくりと傷を見てから、葵は「ありがとう」と板張り廊下に足をつける。 「見えた?」 「うん、おもったより浅かった。もっとざっくり入った傷かとおもってたけど──でも、沖田総司って剣の名手だったんでしょ。けっこううっかりさんだね」  葵が拍子抜け気味につぶやく。  しかし綾乃はわらって「想像してみな」と鴨居に手をかけた。 「夜闇に乗じて、高身長の彼が、こんな狭い空間で刀をぶん回すんだぞ。おまけに相手は巨魁局長、殺らなきゃ殺られる大勝負──そらァ鴨居に刀も突っ掛かるわよ」 「芹沢鴨ってそんなに強かったの?」 「そんなこと、会ったこともないのに分かるわけないでしょ」  言いながら綾乃は隣室へ入る。 (あ。そこは、そうなんだ)  葵は首をひねった。 「沖田総司」  この名は、現代の若者でも一度は聞く名だろう──と、おもう。歴史に浅いと自負する葵でさえ、もともと知っていた。  新選組のなかでも指折りの剣士でありながら、不治の病に倒れ、二十代半ばでこの世を去った惜しまれる逸材である。  その生涯が花のように鮮やかで儚いことから、ドラマで彼を演じる俳優も美男子が多く、結果的に『薄命の美剣士』という、勝手なイメージまでついてしまった。  さて、芹沢鴨とは。  この新選組──もとい前身組織『壬生浪士組』を語るにおいて、なくてはならぬ人物だが、意外にも沖田総司ほど知られてはいない。 (前知識、綾乃に聞いててよかった)  と、葵は隣室を覗く。  もはやガイドもほかの観覧客も、すっかり別室へ行ってしまったようだ。影もない。部屋にはただひとり、綾乃が文机に顔を近づけて何かをしているのみ。  ちょっと、と葵が寄る。 「なにしてんの?」 「芹沢鴨が、この文机に足を引っかけてスッ転んだところを斬られたんだと」 「へえ……それで?」 「だからこの文机、どっかに芹沢鴨の残り香でも残ってないかなぁっておもって、嗅いでる」 「うわ気持ちわるッ」 「なにをいうのよ。微粒子ひとつまで逃さない、これぞ歴女のたしなみ」 「うるさい変態」  葵は、吐き捨てた。  この変態──もとい三橋綾乃は歴女である。  とくに、新選組を含む江戸末期全体の知識は深い。国史大辞典や幕末維新事典、当時の伝聞、書物、書状までひと通りは聞き、読みこんだとか。その執念の産物として挙げられるのが、彼女の脳内幕末年表。  その詳細さは尋常でなく、歴史知識はかじった程度の葵に対して、聞いてもいないのにずいぶん分かりやすく教えてくれた。 (脳内も変態。……)  と、葵は話を聞きながらおもったものだった。  しかし綾乃曰く、それも所詮は机上論。歴史を学ぶにおいてもっとも重要なのは──現場へ赴くこと。とのことで、大学入学後初の長期休暇を利用した此度の歴史旅行が計画立てられ、みごとに方々を連れまわされているのである。──  事件は、前触れもなく突然起きた。  八木邸見学を終えて、玄関で靴を履いた葵が立ちあがる。  すでにほかの客は撤収してしまって、やっぱりさいごに取り残されたわけだが、こんどは連れの友人のすがたも見えない。どうせそのあたりの石ころを拾って歴史の微粒子でも求めているのだろう──と、たいした心配もなかったが、八木邸敷地から一歩外へ出たところで異変に気が付いた。  風がぬるい。  踏みしめる足もとが妙に土臭い。  なにより道路が。…… 「あ、あれ?」  葵はきょろりと周囲を見わたした。  知らない場所だ。いや、東京生まれの自分が京都壬生周辺に土地勘がないのは当然のこととして、しかしそれでも──知らない場所だ。  八木邸を振り返る。仰天。ちがう。なんか、何かが違う。 「あ。綾乃」  声が漏れた。  一度、友人を呼んでみれば一気に心細くなって、葵はふたたび前を向きながらさけぶ。 「綾乃!」 「なに?」 「わあっ」  いた。  目の前に、ふつうにいた。しかもどこで買ったかもらったか、左手にはどら焼きに似た焼き菓子がそのまま握られている。齧ったあともある。 「びっくりした──どこ行ってたの。それなに?」 「もらった。食べる?」 「だれに」 「知らない人」 「…………」 「ていうかさあ」  綾乃はぐるりと周囲を見た。 「なんか変よね」 「綾乃はいつも変だよ」 「そういうこと言ってんじゃねーのよ」  そのまま友人はふらりと歩き出す。  やはりそうか、と葵はあわててその背中を追った。この違和感を覚えていたのが自分だけではなかったことに安堵する。心に余裕ができたことで、ようやく周囲のようすが目に入ってきた。  そうして気づく。  ほんとうに、変なことが起きている──ということに。  ひとつ、アスファルトがない。  壬生寺道停留所からここまでの道々すべてが土の道に変わっている。それも、長年そこに敷かれていたかのように、無数の足跡を刻む古株の顔で。  ふたつ、家々から覗く人が(ふる)い(失礼)。  女性はみな時代劇で見るような髷を結い、着物を着付け、こちらをにらんでくる。聞けば綾乃にどら焼きを渡したのも、旧い様相の女性だったらしい。  なにより第三──。 「これそこの、止まれ」  と。  今まさに目の前より迫りくる和装の恰幅よき大男。の、腰に刺さった大小の棒。男が歩むたびガチャガチャと音を立てるそれは──何?  葵は硬直する。  一方の綾乃もその声でふり返った。  硬直する葵と迫る大男に気が付き、葵の肩をちょんとつつく。 「撮影にしては本気度高いね」 「は──?」 「あれマジで剃ってるよ」  『あれ』とは月代(さかやき)のことである。  言ってる場合か、と条件反射に綾乃の肩を小突いた。が、おかげで葵の頭が冷えた。男はあと四、五歩もあるけばこちらに手が届くだろう。  綾乃、とつぶやく声がふるえた。 「私、これ知ってる」 「マ? なんて時代劇?」 「──タイムスリップ!」  言った瞬間、葵は綾乃の腕をつかんで走り出す。  走る方角は男とは反対の壬生寺方面。八木邸見学のあとに立ち寄る予定だったため、赴くのははじめてだ。となりを走る綾乃が「へえッ」とすっとんきょうな声をあげる。 「葵、なんか町並みがちがうッ」 「いまさらそこ!?」 「ホワッツ泥道」 「とにかく、壬生寺まで行ってみようっ」  八木邸からわずか数メートル。  たどりついた壬生寺の境内に広がるは、上裸の男たちが野太い棒を上から下へと振りおろすという、珍妙怪奇な光景だった。  綾乃の目が見ひらかれる。 「────」 「えっ」  愕然と立ち尽くすふたりの背後に、大男が迫る。  ふたりとも、うしろから首に腕を回されてがっちりとホールドされた。これでは逃げるに逃げられまい。大男が興味深げに声をあげた。 「その目立つ様相で偵察ということもあるまいか。名は」 「と、徳田、葵……」  葵は声をふるわせる。  しかし綾乃はある一点を見つめたまま、 「三橋綾乃」  とうわごとのようにつぶやいて、ふたたび閉口する。  男はその身を離して、わらった。 「わしの名は知っておろうが。そこな浪士組──芹沢鴨である」  名を聞いた瞬間、これまでぴたりと動かなかった綾乃がはじけるように男を見上げた。その名は葵も知っている。いや、むしろ一番直近に聞いた偉人の名でもある。 「せりざわかも──…………」  綾乃がふたたびつぶやいた。  そのときである。 「おやァ」  という第一声とともに壬生寺から出てきた、総髪の男。  その背に気迫を乗せ、腰を沈めるように歩きながら涼し気な目元はにこやかに。対してニヒルに歪むくちびるが「これはこれは」とおどけたような声色を出す。  まるでちぐはぐなこの男。  視線はぎろりと一同へめぐり、やがて芹沢と名乗った男に据わる。 「──芹沢先生じゃァないですか」  葵の肌が、一瞬にしてピリついた空気を察した。
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