第四章 足掻く

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第四章 足掻く

 慶応三年十一月十日。  朝、不動堂村屯所に貼り紙が出された。  『副長助勤斎藤一氏、公用を以て旅行中の処、本日帰隊、従前通り勤務のこと』──。 「なにこれ」  綾乃は愕然とした。  斎藤一が、ここ半年ほど不在にしていた理由を、綾乃や葵ははっきりと聞いたわけではない。史実を考えて、御陵衛士に行ったのでは──という予測は立てていたが、しかしそれもあくまで推論の話だった。  彼が間者として高台寺党御陵衛士に参加したことを知るのは一部の助勤隊士のみであり、女たちにでさえもその事実は伏せられていたのだ。  突然の帰隊報告に、綾乃は喉の奥から押し出すような声を出した。 「ナンジャソリャ──」 「長らく見ぬ間に女になったな」 「ヒエッ!?」  耳元で拾った声に、綾乃は目を剥いた。  噂の斎藤一本人がいるではないか。 「は、ハジメちゃん!」 「これよりは山口二郎と呼んでもらおう」 「なんで」 「斎藤一は追われているから」 「なんで!」 「……いや……」  彼がすこし言いにくそうな顔をする。  綾乃は苦笑して首を振った。 「まあ、とにかくまた戻ってきてくれたんだ。ありがとうハジ──じゃなくてジロちゃん」 「その二郎だが、今宵からまた当分戻らない」 「エッ」 「今度は要人警護の任をまかされた」  山口二郎は、苦笑する。 「ふざけんな!」  綾乃は叫んでいた。  いくらなんでも人使いが荒いだろう。  ──と思ったが、話を聞けばそれは土方の気遣いなのだという。  昨夜未明、土方の部屋に客が来た。  なんでも高台寺党御陵衛士に潜入していた斎藤が戻った、と井上源三郎が報告してきたのである。  寝巻きのまま襖を開けると、井上はにこにこと笑って待機していた。後ろには、斎藤が控えている。 「斎藤──よく戻った」 「ご無沙汰を」 「達者で何よりだよ。まあ入れ」  斎藤を部屋に招き入れる土方に、井上は「局長はいかがします」と声をかける。今、近藤は休息所に詰めており、不在なのである。 「だれか遣いを向かわせよう。それより今日は永倉がまだいるはずだ。あいつは心待ちにしていたろうからな、連れてきてくれるかィ」 「はい」  井上は上機嫌に頷いてすぐに辞した。  さて、と土方が胡坐をかく。少し楽しそうな顔をしている。 「どうやって脱けてきた」 「御陵衛士の金をすこし」 「拝借したのか」 「返すつもりはないですがね」 「はっはっは。お前が金策に困るタマかよ、よくやったな」  どうやら斎藤は、あくまでも金に困った末に隊の金に手を出して逃げた──という体を装ったのだそうだ。 「それよりも仕込みの方が骨が折れた」  という斎藤に土方は「どういうことだ」と首を傾げた。  なんと、これまでも常に女癖を悪く見せ、女に金をつぎ込んでいたどうしようもない男という印象を植え付けさせたというのである。土方は感嘆のため息をついた。 「お前のソレは一種の才能だな。天性の間者能力だ」 「歓迎しませんな」  クックック、と笑う斎藤に、しかし土方は少し真剣な顔を向けた。 「それだとお前ェ、躍起になって探し回られているんじゃねえのか」 「でしょうな。しかしこちらも目を光らせる時が来たようだ」 「なんだって」 「伊東が、近藤先生を消すという」 「…………」  それを掴んだゆえに脱けてきた、と言った。  大方そんなことだろうとは思っていたものの、土方は渋い顔をしておし黙る。 「もしかすれば、そう遠くないうちに仕掛けてくることもありうる」 「──藤堂の野郎はどうだ」 「変わりません。心酔しきっている」 「そうかい」  これも、想定した答えだ。  土方が険しい顔をしたときである。  襖の外から「永倉ですッ」と珍しく弾んだ声がした。クスクスと笑う声も聞こえる。どうやら複数人で押し掛けてきたらしい。  土方がにやりと笑って「入れ」と言うや、 「おい斎藤ッ」  と、襖がスパンッと開いた。  永倉新八である。  後ろで笑っていたのは井上だった。  嬉しそうに斎藤の肩を抱き「なんだよ」とにこにこ笑う。 「やっと帰って来やがった」 「永倉さん」 「待ってたぜ、みんな」  という永倉の視線を追って、斎藤は驚いた。襖の外で待機していたのは井上だけではない。かつての部下、三番隊隊士も集合している。  彼らは、隊長が御陵衛士に間者として潜入していたことを知っていたようだ。  部下たちは瞳を輝かせて──中には瞳に涙すら浮かべて──ウズウズと部屋の外から様子を窺っている。  土方と永倉は、にやりと顔を見合わせて立ち上がり、部屋の隅へ移動した。  その心遣いに気付いた隊士は一斉に斎藤へ駆け寄り、手を取り膝をついて歓迎の言葉をしきりにかけ始めたのである。  斎藤はその勢いに気圧される。  元来、馴れ合いには慣れていない。  必死に首を伸ばして「いや、ちょっと」と、隅でにやにやと笑っている土方を見た。 「ちょっと待っ──土方さん、土方さん!」 「なんだよ」 「斎藤一を匿うとなると、御陵衛士が黙っちゃいない」  しかし土方はニヒルに笑う。 「こちらから黙らせりゃァいいだけの話だ。──とはいえ、そうすぐに殺るわけにもいくまいな」 「…………」 「そうだな。近藤さんとも相談だろうが、ちょうど一件要人警護が入っている。帰って早々悪いが、お前は名を変えてしばらくそちらに潜伏しておくのもいい」 「三浦さんのところか」  永倉は、眠そうに垂れた瞳を見開いて言った。 「三浦さんって三浦休太郎のこと?」  時は戻る。  綾乃が言った。  三浦休太郎──紀州藩士であり、有力な佐幕派志士でもある。彼は、海援隊の陸奥宗光より目をつけられているという。  彼が海援隊と接触をもったのは、以前起こったいろは丸沈没事件。  そう、坂本龍馬が賠償金をぼったくったあの事件だ。  紀州藩代表として海援隊代表の坂本と交渉したのが、この三浦休太郎だったのだ。  多額の賠償金を支払う結果となった彼が、海援隊に対して恨みを抱いていてもおかしくない──という陸奥の懐疑心もあったのだろう。三浦は、海援隊から命を狙われているのではと恐怖し、己の身辺警護を新選組に依頼したのだという。 「なるほどね──ハジメちゃんも大変だ」 「二郎」 「そうそう、ジロちゃん」  綾乃は笑った。  山口はじっとその顔を見つめる。彼の視線は通常時でもするどいので、綾乃は背筋がヒヤリとした。 「な、なあに」 「妬けるな」  と、山口は口角をあげて綾乃の髪に触れる。なるほど、この半年の女好きという仕込みは伊達ではない。 「な──なにに妬けてるの」 「俺の知らぬところで女になったことだ」 「もともと女だけど……」 「試してみようか」 「…………」  キャラチェンジか──?  と、綾乃が身じろぎひとつせずに山口と見つめ合う。するとまもなく彼の口角がにやりと上がった。  その視線は、綾乃の背後に向けられている。 「ずいぶん仕込んできたな」  土方歳三である。  いつも通りのニヒルな笑みだが、すこし頬がひきつっているように見える。 「もともと、若輩の時分はこんなもんです」 「油断も隙もあったもんじゃねえな」 「距離を置いて正解だったでしょう」 「…………」  山口二郎はちらりと綾乃を見て笑う。  その視線を苦々しく見つめて、土方は「長州よりもよっぽど危険人物だぜ」とつぶやいた。  ※  慶応三年十一月十五日、早朝。  冷えた空気が下がっているからだろうか、なんともスッキリとした朝だった。  しかしふたりの気持ちは晴れない。  今日──坂本龍馬が死ぬというのである。   「相討ち覚悟で、坂本龍馬を助ける──?」  沖田が目を見開いた。  縁側に寝転がる綾乃は、動物のような唸り声で返事をする。ついでに叫んだ。 「だって犯人候補をあげようとしても──対象が坂本龍馬と中岡慎太郎じゃ、すべてが敵になるんだもん!」  あれから、綾乃と葵は何度も話し合い、いくつものシミュレーションを重ねた。しかし、分からない。  なんせ徳川家を残すか潰すか、その意見を坂本、中岡の二人がそれぞれ持っているのだ。敵が減るどころか、二人が一緒にいれば、全ての志士たちを敵に回すことになりかねない。  ましてやいつの時代にも、表裏の顔を使い分ける人間は多くいるものだ。大事を成すとなればなおさらのこと。  もはや、誰を信じればよいのかすら、分からなくなってきた。 「だけど、そんな危険なこと許すわけにはいきませんよ。私もついていきます」 「沖田くんは激しい運動ダメだよ」  葵は洗濯物を干しながら厳しい顔をした。  そんなあ、と沖田が眉を下げる。 「しょうがない。敵が見えないのが一番怖いが」 「体当たりでやってみよう」 「うん」 「────」  ふたりの決意は固い。  沖田は、自分がこれ以上なにを言っても変わらぬ、と思ったかおもむろに立ち上がる。  わかりました、と言う彼の声は低かった。 「私はもう止めませんよ、止めませんが……貴女たちを死なせるつもりもありません」  近江屋に外泊、と意味深につぶやいて、沖田はこちらを見向きもせずに立ち去った。 「……怒った?」 「大丈夫だよ、たぶん──」  心配そうな葵に、綾乃は腹筋を使ってむくりと起きた。 「まあでも、これで死んだら怒るだろうな。沖田くんも──土方さんも」 「そうだよ。もう死ぬのは許さんって言われてるじゃない」 「だってしょうがないでしょ、」  死なせたくないんだから……と、つぶやく綾乃に、葵はもうなにも言えない。己もそう思っているのである。
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