第四章 足掻く

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 その日の昼のこと。  綾乃は動きやすいように男装し、葵は髪に挿した簪をしきりに気にしている。いざとなればこの簪で、一矢報いる覚悟である。  しかしまもなく醤油商近江屋についたふたりは、そこにいた人物に驚愕した。 「さ、サノ!」 「どうしてここに──」  原田左之助であった。  目深く笠をかぶり、腕を組んで近江屋の軒下で佇んでいる。 「遅ェじゃねえか。待ちくたびれたぜ」 「待ってたの?」 「なんのために俺がこげなとこまで出張ってきたと思うとるか」 「なんのためって──」 「坂本龍馬」  原田はボソリとつぶやいた。  ハッと口をつぐむ綾乃をひたと見据えてから、口角をあげる。 「守るんだって?」 「…………」  どうやら、沖田が根回しをしていたようだ。  数刻前。  沖田は土方に報告──という名のチクリをした。  報告を受けた土方は当然怒った。  なにに怒ったかといえば、綾乃や葵が自分にひとつの相談もなく強行しようとしていることに、である。  憤りを隠すことなく、すぐさま中庭へ向かう。そこで槍の練習をしていた原田を見るや、ずかずかと近付いて「原田ァ」と肩を抱いた。 「オッ、なんすか」 「仕事だ」  ピリピリしている。  と、思いながらも原田はどこ吹く風だ。槍の矛先をいじって「ひとり?」と驚いた声を出す。 「まあ、そうだ。特殊任務だよ」 「──頭を使うんは苦手ですぜ」 「そんなことで、俺がお前を助っ人に頼むと思うか」 「違いねえ」  ケラケラと笑う。  土方もつられて頬を弛めた。が、すぐにひきつった顔をすると、周りの目を憚るように小声でささやく。 「──近江屋は知ってるな」 「ああ」 「そこで坂本龍馬の警護をたのみたい」 「…………」  唖然とする。当然だ、坂本龍馬といえばこれまで、取締り対象だったほどの男だ。しかし土方は、 「詳細は三橋が知っている」  と原田の肩を叩くだけで、あとは目をじっと見つめたままなにも言わない。 「それは──」 「では言い換えよう」  反論を悟った土方は首を振り、ふたたび原田の瞳を覗くように見た。 「坂本龍馬を警護する、女たちを守れ」 「…………」  そのアイコンタクトで何かを悟ったか、原田がちっと舌打ちをして三度うなずいた。 「分かった、分かりましたよ」 「お前は話が早くて助かる」 「そりゃあね、新八なんざにお願いしたらひでえよ。──理由を滔々と語らされて、しまいにゃ断られるなんてこともありうる。目に浮かぶぜ」 「それだけじゃァねえ。頼りにしてるんだよ、お前ェを」 「ったァく、そう言ってりゃいいと思って!」  と、原田が嘆いたように叫ぶと、土方はにやりと笑って「違ェのかい」と言った。  こうして、原田左之助はまもなく近江屋に向かうこととなったのである。 「──話は大体わかった。が、そもそもどうしてお前たちがここまでやるんだ」  今宵、この近江屋で何が起こるのか──付き合いの長い原田はさすがに理解も早い。  しかしどうにも納得までには至らなかったようである。  綾乃は、男装のために身につけた袴をいじりながらどうもこうも、と言った。 「坂本龍馬を守りたいってわたしたちが思ったからだよ」 「んなこた分かってんだよ。ならこっちに任せれば良かったじゃねえかって話──」 「入っていいってッ」  と、明るく近江屋から出てきた葵。  坂本龍馬に会いに来た、と近江屋の主人に伝えてきたらしい。 「行こう」 「大体、なんでお前は男モンの袴なんざ履いているんだ」 「動きやすいから。いいからほらっ」  背中を押されつつ、笠を目深く被った原田は女二人とともに部屋に通された。  目当ては階段を登りきって廊下を右に曲がった、奥の部屋のようだ。 「葵です」 「おう、よう来たよう来たックシュン」  すらりと襖を開けると、そこには坂本がひとりでいた。風邪を引いているらしく鼻をすすりながら火鉢を弄っている。 「誰だ、その後ろの」 「龍馬の護衛」 「…………」  むす、とした顔で押し黙っている大男を見上げて、坂本はなんとか顔を見ようと笠のなかを覗き見ようとする。  しながら、坂本は不満そうに呟いた。 「一昨日の客も、昨日の客にも似たようなことを言われた」 「客?」 「一昨日は高台寺党の伊東甲子太郎、昨日は寺田屋のお登勢さんじゃ」 「お登勢さん!?」 「伊東──?」  原田が微かにつぶやいた。  新選組にいたころから、原田は伊東がどうにも胡散臭くて嫌いだった。その伊東が巨魁浪士である坂本龍馬に会いに来たとなれば、どういう了見なのかが気になるところだ。  聞けば、伊東は執拗に「近江屋は危険だから土佐藩邸に移れ」と忠告をしてきたという。 「なにゆえ、伊東があんたにそがいなことを」 「知らんわい」  生憎その日は機嫌が悪く、坂本はツンとした態度のまま聞き流していたそうだが、さすがにお登勢がやってきたときは、驚いた。 「いやはや、わしも名が売れたもんぜよ」 「阿呆を抜かすなィ。それで命が狙われているんだぜ」 「うん──ただまあ、」  それでもここを動かなかったのは、おそらく彼のなかで「どこにいても死ぬときは死ぬ」という気持ちがあったゆえか。  坂本は子どものように身体をゆすって、それより、と原田を見上げた。 「おまん笠くらい外せばええ。名は」 「…………」  鼻声である坂本の問いかけに、原田は笠を外してふてぶてしく「原田」と呟いた。 「原田──おまん、えい男やのう」 「…………なんだって?」 「男前じゃと言うた」  と、鼻をずるずるとすする坂本に、原田は途端ににっこりと表情を崩して、がははと笑う。 「なんだよ。土佐っぽなんて聞いてたからろくでもねえかと思ってたが、そこそこいい奴じゃねえか。えっ」 「土佐っぽじゃ土佐っぽじゃ。しかしおまんのその訛りも……伊予か」 「おう、伊予男児だ」 「あんまり変わらんぞ。はははは!」 「違いねえ。はははは!」  単純な原田も原田だが、さすがは人たらしと呼ばれる坂本である。  ふたりはとたんに意気投合した。 「馬鹿の馴れ合いは早い──」  葵がぼそっと呟く。  すると外から、下男の山田藤吉がふすま越しに「石川殿が参られました」と言ってきた。  石川清之助と変名を使っている、中岡だ。ちなみに坂本はいま、才谷梅太郎と名乗っている。 「おお慎……いや、石川」 「す、すごい数の客だな」 「俺の友人じゃ。綾乃、葵、原田という。原田は俺の護衛らしい」 「らしいとは」  と訝しげにじろじろと原田を見る中岡に、原田は片膝立てて怒鳴り散らす。 「んだてめえ。文句あんのかゴラッ」  石川清之助もとい中岡慎太郎は、ゴテゴテの倒幕思想を持っている。こんな状況でなければ、引っ捕らえてやったのに──と原田は恨めしそうに綾乃と葵をにらんだ。  しかし坂本は咳き込みながら、 「みな、わしの友人だと言うとろう」  と笑った。  今日は殊更に寒い。  あまりにも鼻水を垂らすので哀れに思い、原田が己の羽織をかけてやる。  その行動ですこし警戒が解かれたか、中岡は無言でその場に座った。友人があまりにも苦々しい顔をするので、龍馬はケラケラと笑う。 「寺田屋で、お登勢さんと俺が話しているときも、おりょうがそがな顔をしゆう」 「細君と一緒にするな」 「おりょうさんってな、寺田屋にいた?」  と、不意に原田が顔を上げた。 「おう」 「おりょうさんってうちの──あぁいやいや、新選組局長の近藤も前に簪を贈ったってぇ話だ」  原田は慌てて言葉を濁して、言った。 「ははッ。鬼集団の頭領も女には弱いかえ」 「こっぴどく振られたらしいけどな」 「やっぱりおまん、新選組か」  くすくすと、酒を飲みながら笑う坂本に原田はしまった、という顔をしてちらりと女ふたりを見る。  特段、隠しているわけではなかった。  が、原田は居心地が悪い。  居住まいを正して喉から絞り出すように「まあ、うん」とうなずく。  案の定、中岡は目くじらを立てて刀の柄に手をかけた。 「龍馬、こやつッ」 「慎ノ字まて」 「清之助だ」 「うむ──ならば清之助。先も言うたやいか。こいつはわしの護衛よ。むしろ新選組から護衛が来るなんざ、頼もしかね」  坂本は嬉しそうに肩を揺らす。護衛が新選組でも、そう気にしていないと見える。  良かった、と葵は安堵の息をついた。  それからしばらく、座は三条制札事件にて捕縛された宮川助五郎の引き取りについてどうするか、という話で持ちきりだった。 「…………」  原田はその事件で宮川を捕縛した張本人だ。  しかし、うずうずと口を挟みたくなるのをこらえてだんまりを貫く。  中岡も初めは新選組隊士の前でこの話をするのは──と言っていたが、あまりにも坂本がベラベラと話すので、もはや諦めたようだった。  ガタン、と階下で音がする。  綾乃が肩を揺らした。  下男の山田がふすま越しに「岡本殿が」と言ってきた。  思わず綾乃と葵は身構えるが、心配をよそに坂本と中岡は「通せ通せ」と嬉しそうにはやし立てる。  その言葉で、綾乃がひきつった笑みを浮かべた。 「──岡本さんは、大丈夫」 「そ、そう」  綾乃は、頭の奥がしびれるような感覚で、深呼吸をする。  一分一秒が永かった。
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