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岡本健三郎が来て、しばらく経った。
時刻は夜の八時頃だったろうか。
「軍鶏鍋が食いたい」と言ったのは坂本だった。
すっかり馴染んだ原田が、おっと嬉しそうにうなずく。
「いいねえ軍鶏」
「原田は食う、と。石川は」
「もちろん、食う」
「おまんら二人も食うかぇ」
「いや、わたしは」
「私も……いらない」
正直、緊張で物なんか食える気がしない。
「ふむ、岡本は」
「私は用事があるので帰る。軍鶏は誰が買うてくる?」
「峰吉に頼もう。おーい峰吉ぃ」
と声を張り上げれば、近所の書店『菊屋』の五男、峰吉はすぐに階下まで走り寄ってきた。
「はーい」
「ちくと、軍鶏ぉ買うてきてくれんかねャ」
「はい!」
「ならば、私も峰吉と途中までともにしよう」
岡本が階段を降りて、その後に峰吉とともに近江屋を出て行く音が聞こえた。坂本は、その音を聞いてから満足げに夜着を寄せて身を震わせる。
「風邪か」
原田がぼんやりと眺めて、聞いた。
「持病の瘧じゃ。ようなる」
「なるほどな。あんたの隠れ家にしちゃ、随分と無防備すぎると思ったぜ。大方、ここなら暖が取りやすいってことだろ」
「まあな。死ぬときはそんときじゃ。しょうないわ」
「…………」
無意識に。
綾乃と葵が青い顔をして、間にいる原田の裾をキュッと握る。
「…………」
それに気付いた原田は、一瞬左右に目線を配ってから、ふたりの頭をぐいと己の胸に寄せた。
そして、にっこりと笑う。
「────」
だ い じ ょ う ぶ。
口パクで言った原田に、葵はぐ、っと唇を噛み、綾乃は情けない顔をして笑った。
その表情を見て原田は、
(そろそろか)
と察した。
「おい坂本、あんた、もう一枚くらい夜着着ておけよ。葵、離れに坂本連れていってやれ。そこでたらふく着せてこい」
「う、うん」
「えェ、立ち上がるのも億劫じゃ」
「いいからいいから」
「しょうないのう」
がはは、と笑う原田に急かされて。
よっこらせ、と立ち上がった坂本は、葵に支えられながら部屋を出て行く。
「…………」
その後ろ姿を見守って、原田は真剣な表情で中岡に目線を移す。
「おい、お前も離れに行けよ」
「なにゆえわしが離れに。用ないわ」
「いいからいいから」
「阿呆を抜かせ」
中岡は、坂本ほど原田を信頼しているわけではない。しばらく問答が続いたが、やがて折れたのは原田だった。
「チッ、己の身は己で守れよ」
「どういうことじゃ」
「腕は立つな?」
「だからどういうことだと聞いておる」
「べつに、ただの用心──」
そのときである。
階下で、音がした。
綾乃の背筋がぞわりと冷える。
「さ、さの」
「火を消せ、行灯」
「うん」
「囲炉裏もだ」
「はい」
てきぱきと綾乃が火を消す。
外の月明かりも入らず、部屋は闇に包まれた。
原田が息を静める。音は、一拍置いて一気に騒がしくなった。
──。
────。
一方、離れでは夜着をさらに二枚ほど着込んだ坂本が、その中にすっぽりと葵を抱えるように息を潜めていた。
「……母屋が騒がしい。ちくと見て──」
「ダメ、龍馬は動かないでっ」
「…………」
葵の悲痛な声色に、坂本は口をつぐむ。
「しかし」
「向こうには左之もいる。大丈夫」
「…………」
タイミングを見ないことには、外に出る際に見つかってしまう恐れがある。
上でなにが起ころうと、絶対に動くわけにはいかない。
「これは、どういうことじゃ──なにゆえ原田を連れてきた。なにがしたい?」
「……なにがしたい、って」
葵はぎゅっと夜着を握る。
「龍馬を守りたい」
「守る?」
「────」
緊張と不安、そして恐怖。
いろいろな感情がごちゃ混ぜに押し寄せてくる。
そう。自分が彼を守るのだ。
そう思えば思うほど、からだが震えてくるのがわかった。
心細くて泣きそうだ。
葵の震えを止めるように、坂本は背中を丸めて葵をさらに深く抱き込んだ。
「どういうことじゃ」
「前に聞いたでしょう。私たちが天だとしたら──生きたいかって」
「うん……まさかほんに天か」
「ううん。そんな大層なもんじゃない」
まばたきをした拍子に、涙が落ちた。
それを契機に瞳からポロポロとこぼれてくる。
「私たちは、天の邪魔をしてるの」
「…………」
「……龍馬にとって、なにが龍馬のためなんだかわからなくて──だから、私たちがしたいことをしてるの」
ごめんなさい、と葵は夜着で涙をぬぐった。坂本はすこし黙っていたが、やがて葵のつむじをぼんやりと見ながらつぶやく。
「それは、生かすも殺すも──ちゅうことか」
「うん」
「そして、おまんらは俺を生かすと」
葵の肩は震えている。
「うん……」
「…………」
小さな背中だ。坂本はフフッと笑って葵の頭を撫でた。
「なにを言う。人の命を助けて、ごめんなさいはおかしいぜよ」
前から思っていた。
この女たちはどこか不思議だ、と。
いまだって。
抱え込む背中は小さいのに、その背には天に抗う宿命を背負っているのだ。
坂本は、震える葵を宥めるように、何度も何度も頭をなでた。
その頃、母屋では山田が三度部屋へやって来て「十津川郷士と名乗る方が」と名刺を渡してきた。
その名刺をじっと見つめるも、中岡は首を横に振る。
「……知らんな」
「知らねえのか」
「恐らくは、龍馬も知らん」
名刺を返すと、山田は階段へ向かった。
それを横目に、綾乃は坂本の刀一式を自分のそばに手繰り寄せる。何もないより、使えずともある方がましだ。
(…………)
闇のなか、綾乃は中岡の袖を引く。
「中岡さん、刀をそばに」
「石川じゃ」
「はやくっ」
「…………あ、ああ」
中岡の声色に動揺が混じる。
綾乃は彼の袖をぎゅっと掴み、たのみます、と言った。
「生きて」
「────」
闇に慣れた中岡の目は、綾乃の瞳を捉えた。彼女は泣きそうな顔をしている。
なにか声をかけてやらねば、と口を開いたときだった。
「────!」
階段の方が騒がしい。中岡はそちらに顔を向けた。
原田が「ほたえな(騒がしい)ッ」と土佐弁で叫ぶ。離れにいる坂本たちから気を逸らすためだろう。
まもなく、襖が細目に開かれた。
こちらを窺う気配がある。綾乃は坂本の刀を左手に持ち、右手で柄を握った。
万が一は、これを抜いて闘わねばなるまい。でなければ、死ぬ。
失礼、と襖の外から声がした。
(……きた)
歯がふるえる。音が鳴らぬように綾乃は下唇を強く噛んだ。
部屋を訪ねた者は声を殺してこそいたが、低く通る声で
「坂本先生はおられるかな」
と言った。
綾乃が細く息を吐く。
中岡が声を出そうとするのを手で制止し、原田はゆっくり片膝を立てた。
低く、
「坂本はこの俺よ。どなたか」
とつぶやく。
「────」
相手の動きがふと止まる。
よく通る声の男は、後ろにいたのだろう連れから提灯を受け取って部屋を照らした。
その灯りに照らされ、提灯を持った男の顔が一瞬浮かび上がった。
原田がアッ、と息をのむ。
刹那。
ふたりの人間が闇雲に斬りかかってきた。
「こなくそッ」
原田が叫ぶ。鞘も投げ捨てた。
息つく暇もなく、大柄な男の額をかち割って、背中を向いた男の右肩から袈裟斬りにする。
しまいに男が倒れるや、頭を狙って滅茶苦茶に斬りつけた。
一方綾乃も、原田が乱戦をするなか、取っ組み合いの末にひとりを窓から落とす。
自分のポテンシャルに驚く暇はない。後からまたひとり襲いかかってきた。その刀を、坂本の鞘で防ぐ。──しかし力の差は歴然である。相手の勢いに圧されて綾乃の足が畳に食い込んだ。
ひとりを斬り伏せた中岡が、
(いかん)
と顔をあげる。
「坂本はここじゃァッ」
中岡は叫んだ。
綾乃は、いけない、と思った。背後から原田の悪態も聞こえる。
そうして綾乃を助けようと、中岡が背にしていた壁から離れた。瞬間。
「ぐあッ」
後ろから後頭部に一太刀を浴びた。
間髪いれず二太刀目に腰をやられ、三太刀目、四太刀目、と斬られる。
壁にかかった掛軸に中岡の血が飛んだ。
それを見た綾乃は「邪魔だッ」と、男の金玉を蹴り飛ばした。
「ぅぐォッ、──」
「坂本は討ち取った!」
闇のどこかから声がする。
原田が声色を変えて叫んだようだ。
その声を皮切りに「もうよい、もうよい」と声がした。
刺客は一斉に引き上げた。
「…………」
は、は、という綾乃の短い呼吸だけが、部屋に残る。
全てが一瞬の出来事だった。
「綾乃、怪我は──」
息も乱さずに、原田が綾乃の身体をくまなく見る。あれほどの乱闘だったのにも関わらず、綾乃は傷を負ってはいなかった。
「よし、石川はどうだ。無事か」
と原田が部屋のなかを見回す。
が、しかし中岡がどこにもいない。
「左之!」
綾乃が小声で叫んだ。
窓へ向かって血が引きずられたような跡がある。自力で、隣家の屋根に逃げたようだ。
慌てて原田が屋根を覗くと、倒れている中岡の姿があった。
「石川!」
ガタガタと原田が屋根にあがった。
中岡は力を振り絞るように、
「……新助ッ、医者を呼べ!」
と近江屋主人に声をかけて、まもなく沈黙する。死んだか、とあわてて顔を覗きこむと、どうやら気を失っているようだった。
「くそ、下手に動かせねえな」
と言いつつ袖を破って止血を施す。
それを部屋から見ていた綾乃は、胸が恐怖に押し潰されそうだ。
「さ、ど、どうしよう──死んじゃう!」
「大丈夫だ。心配するな」
「だ、だけどわたしのせいで中岡さんが」
屋根から部屋に戻ってきた原田は、動揺する綾乃の腕をがしりと掴んだ。
「人の生き死にに誰の責任もねえ」
「────」
「誰が斬ったか斬られたか、それだけだ」
その言葉に閉口した綾乃をひたと見据えてから、部屋のなかに視線を投じる。そこには一体の骸が転がっていた。
原田が滅多討ちにしたものだ。
彼は、自分の斬り倒した死体を検分し、
「脳天をやってたか」
と冷静につぶやいている。
その背中を見つめていた綾乃は、やがて手から力が抜けて、これまでずっと握りしめていた坂本の刀を床に落とした。
「…………龍馬の刀……」
綾乃はそれを拾い、呟く。
鞘から刀にかけて深々と斬り込みが入っている。
その形や深さが、あまりにも史実で残る斬り込み跡と酷似しており、綾乃はゾッとした。
あと少しでも圧されていたら危なかった。
あのときの、中岡の機転があってこその命と言ってもいい。綾乃の瞳に涙がたまる。
すると、原田が突然顔をあげてアッと叫んだ。
「そうだ。坂本はどうした、葵は」
言いながら刀を鞘に収める。
「無事だろうな……!」
屋根を覗き、中岡の容態を確認してから、原田は綾乃を連れて離れに向けて駆け出した。
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