第四章 足掻く

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 岡本健三郎が来て、しばらく経った。  時刻は夜の八時頃だったろうか。  「軍鶏鍋が食いたい」と言ったのは坂本だった。  すっかり馴染んだ原田が、おっと嬉しそうにうなずく。 「いいねえ軍鶏」 「原田は食う、と。石川は」 「もちろん、食う」 「おまんら二人も食うかぇ」 「いや、わたしは」 「私も……いらない」  正直、緊張で物なんか食える気がしない。 「ふむ、岡本は」 「私は用事があるので帰る。軍鶏は誰が買うてくる?」 「峰吉に頼もう。おーい峰吉ぃ」  と声を張り上げれば、近所の書店『菊屋』の五男、峰吉はすぐに階下まで走り寄ってきた。 「はーい」 「ちくと、軍鶏ぉ買うてきてくれんかねャ」 「はい!」 「ならば、私も峰吉と途中までともにしよう」  岡本が階段を降りて、その後に峰吉とともに近江屋を出て行く音が聞こえた。坂本は、その音を聞いてから満足げに夜着を寄せて身を震わせる。 「風邪か」  原田がぼんやりと眺めて、聞いた。 「持病の瘧じゃ。ようなる」 「なるほどな。あんたの隠れ家にしちゃ、随分と無防備すぎると思ったぜ。大方、ここなら暖が取りやすいってことだろ」 「まあな。死ぬときはそんときじゃ。しょうないわ」 「…………」  無意識に。  綾乃と葵が青い顔をして、間にいる原田の裾をキュッと握る。 「…………」  それに気付いた原田は、一瞬左右に目線を配ってから、ふたりの頭をぐいと己の胸に寄せた。  そして、にっこりと笑う。 「────」  だ い じ ょ う ぶ。  口パクで言った原田に、葵はぐ、っと唇を噛み、綾乃は情けない顔をして笑った。  その表情を見て原田は、 (そろそろか)  と察した。 「おい坂本、あんた、もう一枚くらい夜着着ておけよ。葵、離れに坂本連れていってやれ。そこでたらふく着せてこい」 「う、うん」 「えェ、立ち上がるのも億劫じゃ」 「いいからいいから」 「しょうないのう」  がはは、と笑う原田に急かされて。  よっこらせ、と立ち上がった坂本は、葵に支えられながら部屋を出て行く。 「…………」  その後ろ姿を見守って、原田は真剣な表情で中岡に目線を移す。 「おい、お前も離れに行けよ」 「なにゆえわしが離れに。用ないわ」 「いいからいいから」 「阿呆を抜かせ」  中岡は、坂本ほど原田を信頼しているわけではない。しばらく問答が続いたが、やがて折れたのは原田だった。 「チッ、己の身は己で守れよ」 「どういうことじゃ」 「腕は立つな?」 「だからどういうことだと聞いておる」 「べつに、ただの用心──」  そのときである。  階下で、音がした。  綾乃の背筋がぞわりと冷える。 「さ、さの」 「火を消せ、行灯」 「うん」 「囲炉裏もだ」 「はい」  てきぱきと綾乃が火を消す。  外の月明かりも入らず、部屋は闇に包まれた。  原田が息を静める。音は、一拍置いて一気に騒がしくなった。  ──。  ────。  一方、離れでは夜着をさらに二枚ほど着込んだ坂本が、その中にすっぽりと葵を抱えるように息を潜めていた。 「……母屋が騒がしい。ちくと見て──」 「ダメ、龍馬は動かないでっ」 「…………」  葵の悲痛な声色に、坂本は口をつぐむ。 「しかし」 「向こうには左之もいる。大丈夫」 「…………」  タイミングを見ないことには、外に出る際に見つかってしまう恐れがある。  上でなにが起ころうと、絶対に動くわけにはいかない。 「これは、どういうことじゃ──なにゆえ原田を連れてきた。なにがしたい?」 「……なにがしたい、って」  葵はぎゅっと夜着を握る。 「龍馬を守りたい」 「守る?」 「────」  緊張と不安、そして恐怖。  いろいろな感情がごちゃ混ぜに押し寄せてくる。  そう。自分が彼を守るのだ。  そう思えば思うほど、からだが震えてくるのがわかった。  心細くて泣きそうだ。  葵の震えを止めるように、坂本は背中を丸めて葵をさらに深く抱き込んだ。 「どういうことじゃ」 「前に聞いたでしょう。私たちが天だとしたら──生きたいかって」 「うん……まさかほんに天か」 「ううん。そんな大層なもんじゃない」  まばたきをした拍子に、涙が落ちた。  それを契機に瞳からポロポロとこぼれてくる。 「私たちは、天の邪魔をしてるの」 「…………」 「……龍馬にとって、なにが龍馬のためなんだかわからなくて──だから、私たちがしたいことをしてるの」  ごめんなさい、と葵は夜着で涙をぬぐった。坂本はすこし黙っていたが、やがて葵のつむじをぼんやりと見ながらつぶやく。 「それは、生かすも殺すも──ちゅうことか」 「うん」 「そして、おまんらは俺を生かすと」  葵の肩は震えている。 「うん……」 「…………」  小さな背中だ。坂本はフフッと笑って葵の頭を撫でた。 「なにを言う。人の命を助けて、ごめんなさいはおかしいぜよ」  前から思っていた。  この女たちはどこか不思議だ、と。  いまだって。  抱え込む背中は小さいのに、その背には天に抗う宿命を背負っているのだ。  坂本は、震える葵を宥めるように、何度も何度も頭をなでた。    その頃、母屋では山田が三度部屋へやって来て「十津川郷士と名乗る方が」と名刺を渡してきた。  その名刺をじっと見つめるも、中岡は首を横に振る。 「……知らんな」 「知らねえのか」 「恐らくは、龍馬も知らん」  名刺を返すと、山田は階段へ向かった。  それを横目に、綾乃は坂本の刀一式を自分のそばに手繰り寄せる。何もないより、使えずともある方がましだ。 (…………)  闇のなか、綾乃は中岡の袖を引く。 「中岡さん、刀をそばに」 「石川じゃ」 「はやくっ」 「…………あ、ああ」  中岡の声色に動揺が混じる。  綾乃は彼の袖をぎゅっと掴み、たのみます、と言った。 「生きて」 「────」  闇に慣れた中岡の目は、綾乃の瞳を捉えた。彼女は泣きそうな顔をしている。  なにか声をかけてやらねば、と口を開いたときだった。 「────!」  階段の方が騒がしい。中岡はそちらに顔を向けた。  原田が「ほたえな(騒がしい)ッ」と土佐弁で叫ぶ。離れにいる坂本たちから気を逸らすためだろう。  まもなく、襖が細目に開かれた。  こちらを窺う気配がある。綾乃は坂本の刀を左手に持ち、右手で柄を握った。  万が一は、これを抜いて闘わねばなるまい。でなければ、死ぬ。  失礼、と襖の外から声がした。 (……きた)  歯がふるえる。音が鳴らぬように綾乃は下唇を強く噛んだ。  部屋を訪ねた者は声を殺してこそいたが、低く通る声で 「坂本先生はおられるかな」  と言った。  綾乃が細く息を吐く。  中岡が声を出そうとするのを手で制止し、原田はゆっくり片膝を立てた。  低く、 「坂本はこの俺よ。どなたか」  とつぶやく。 「────」  相手の動きがふと止まる。  よく通る声の男は、後ろにいたのだろう連れから提灯を受け取って部屋を照らした。  その灯りに照らされ、提灯を持った男の顔が一瞬浮かび上がった。  原田がアッ、と息をのむ。  刹那。  ふたりの人間が闇雲に斬りかかってきた。 「こなくそッ」  原田が叫ぶ。鞘も投げ捨てた。  息つく暇もなく、大柄な男の額をかち割って、背中を向いた男の右肩から袈裟斬りにする。  しまいに男が倒れるや、頭を狙って滅茶苦茶に斬りつけた。  一方綾乃も、原田が乱戦をするなか、取っ組み合いの末にひとりを窓から落とす。  自分のポテンシャルに驚く暇はない。後からまたひとり襲いかかってきた。その刀を、坂本の鞘で防ぐ。──しかし力の差は歴然である。相手の勢いに圧されて綾乃の足が畳に食い込んだ。  ひとりを斬り伏せた中岡が、 (いかん)  と顔をあげる。 「坂本はここじゃァッ」  中岡は叫んだ。  綾乃は、いけない、と思った。背後から原田の悪態も聞こえる。  そうして綾乃を助けようと、中岡が背にしていた壁から離れた。瞬間。 「ぐあッ」  後ろから後頭部に一太刀を浴びた。  間髪いれず二太刀目に腰をやられ、三太刀目、四太刀目、と斬られる。  壁にかかった掛軸に中岡の血が飛んだ。  それを見た綾乃は「邪魔だッ」と、男の金玉を蹴り飛ばした。 「ぅぐォッ、──」 「坂本は討ち取った!」  闇のどこかから声がする。  原田が声色を変えて叫んだようだ。  その声を皮切りに「もうよい、もうよい」と声がした。  刺客は一斉に引き上げた。 「…………」  は、は、という綾乃の短い呼吸だけが、部屋に残る。  全てが一瞬の出来事だった。 「綾乃、怪我は──」  息も乱さずに、原田が綾乃の身体をくまなく見る。あれほどの乱闘だったのにも関わらず、綾乃は傷を負ってはいなかった。 「よし、石川はどうだ。無事か」  と原田が部屋のなかを見回す。  が、しかし中岡がどこにもいない。 「左之!」  綾乃が小声で叫んだ。  窓へ向かって血が引きずられたような跡がある。自力で、隣家の屋根に逃げたようだ。  慌てて原田が屋根を覗くと、倒れている中岡の姿があった。 「石川!」  ガタガタと原田が屋根にあがった。  中岡は力を振り絞るように、 「……新助ッ、医者を呼べ!」  と近江屋主人に声をかけて、まもなく沈黙する。死んだか、とあわてて顔を覗きこむと、どうやら気を失っているようだった。 「くそ、下手に動かせねえな」  と言いつつ袖を破って止血を施す。  それを部屋から見ていた綾乃は、胸が恐怖に押し潰されそうだ。 「さ、ど、どうしよう──死んじゃう!」 「大丈夫だ。心配するな」 「だ、だけどわたしのせいで中岡さんが」  屋根から部屋に戻ってきた原田は、動揺する綾乃の腕をがしりと掴んだ。 「人の生き死にに誰の責任もねえ」 「────」 「誰が斬ったか斬られたか、それだけだ」  その言葉に閉口した綾乃をひたと見据えてから、部屋のなかに視線を投じる。そこには一体の骸が転がっていた。  原田が滅多討ちにしたものだ。  彼は、自分の斬り倒した死体を検分し、 「脳天をやってたか」  と冷静につぶやいている。  その背中を見つめていた綾乃は、やがて手から力が抜けて、これまでずっと握りしめていた坂本の刀を床に落とした。 「…………龍馬の刀……」  綾乃はそれを拾い、呟く。  鞘から刀にかけて深々と斬り込みが入っている。  その形や深さが、あまりにも史実で残る斬り込み跡と酷似しており、綾乃はゾッとした。  あと少しでも圧されていたら危なかった。  あのときの、中岡の機転があってこその命と言ってもいい。綾乃の瞳に涙がたまる。  すると、原田が突然顔をあげてアッと叫んだ。 「そうだ。坂本はどうした、葵は」  言いながら刀を鞘に収める。 「無事だろうな……!」  屋根を覗き、中岡の容態を確認してから、原田は綾乃を連れて離れに向けて駆け出した。
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