第四章 足掻く

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 その少し前のこと。  離れ──土蔵にいた坂本と葵は、刺客が去っていく音を聞いていた。 「葵」 「なに」 「ここから裏の寺に出られる梯子がある。そこから逃げるぜよ」 「……うん」  物音を立てずに梯子を伝い、裏手にあった寺の境内に飛び降りる。 「龍馬、動ける?」 「おう」 「よし」  支えながら、ゆっくり歩き出す。  しかし夜目の効かない坂本は、体調不良も相まってひどく歩きづらそうだ。  このままどこへ行けばよいのか──と葵が途方に暮れたとき「無事でしたか」と、闇のなかから声がした。  この影は、見覚えがある。 「お、沖田くん?」 「副長に頼まれました。様子を見てこいって」  と沖田は坂本の逆側の肩を支えた。  葵の負担が軽くなる。 「……ありがとう」  途端、どっと安心したのか葵は膝から崩れ落ちた。葵さん、と慌てる沖田の声を頭上に聞きながら、じわりと涙もにじんでくる。  坂本は沖田の腕を己の肩から外した。 「俺のことはええ。葵に添ってやれ」 「はい」  沖田が葵に寄り添い、改めて坂本を見上げる。 「沖田総司です。──坂本さんですね」 「おう」 「どこか怪我をされましたか」 「いんや、熱が出とるだけじゃ」  とにっこり笑う坂本に、沖田はよかったと笑み返した。  が、すぐに口を閉じる。  足音が聞こえたからだ。しかしまもなくその顔は弛んだ。 「あ……大丈夫。味方です」 「おいっ」  と原田と綾乃が駆けてくる。 「無事か!」 「おお、おまんらも……石川はどがいした」 「太刀をだいぶ浴びた。下手に動かせねえからそのままにしてきたが、まだ息はある。新助が土佐藩邸に知らせにいっている」 「…………ほうか」  暗闇で分かりにくいが、坂本はわずかに青い顔をしている。葵はようやく立ち上がり、ふたたび坂本の背中に手を添えた。 「たれが刺客だったんです」  沖田が、原田を見た。 「お前、なにゆえここに」 「原田さんと同じです」 「ああ。──刺客。刺客な、」  原田は複雑な表情を浮かべる。  一瞬、提灯の灯りに照らされたあの顔。  あの顔には見覚えがあった。 「……見廻組だ」 「えっ」 「佐々木さんだったよ」  新選組に並ぶ治安維持組織、幕臣の京都見廻組──組頭の佐々木只三郎。 「…………」  綾乃の膝がかくん、と折れる。  いまさら気が緩んだようだ。  平成の世に聞く坂本龍馬暗殺の謎──。  その真犯人は、すでに通説となっている、見廻組の犯行説そのものだったのである。  ※  あの後、近江屋には主人が呼んだ土佐藩の人間が駆けつけた。  そこに残っていたのは、隣家の屋根で苦しむ中岡と階段の手前で斬られていた山田藤吉、また、顔が分からぬほど滅茶苦茶に斬りつけられた男の死骸だった。  土佐藩の人間は、それが誰かは分からなかったようだが、中岡の意識朦朧とした中での「……龍馬、龍馬は……」という呟きから、その死体を坂本龍馬だと判断したらしい。  坂本を連れた一行は伏見まで真夜中の行動を徹底し、逃げた。  逃げている最中、綾乃は坂本にすべてを説明した。  未来から来たこと。  坂本龍馬は、この近江屋での事件で暗殺されているはずだったこと。  けれどどうしても生きてほしくて、手を出してしまったこと。  いま、坂本龍馬は世の中から死んだことになってしまっていること──。  坂本は初めこそ驚いた顔をしたが、ただ静かに聞いていた。  船着場にて、長崎方面へゆく船を待つ。  諸々の合点がいった、と頷く坂本に原田は首をかしげた。 「これからどうする。このまま死んだって噂を貫くのか」 「当分はな。その方が安全じゃキ、かえって好都合かもねャ。あとは折を見て、別の名ァでも使うて生きてみらぁ」 「……これで、本当に良かった……?」  涙声で呟く綾乃に、坂本は穏やかに微笑んで頭を撫でる。 「さぁ。しかし、生きてりゃなんでもできる。一度長崎に行って、おりょうの顔でも見て──それからはまたそこから考えりゃあええ。これからは世界だって、見に行っちゃるキニ」 「…………」  本当にこれで、よかったのだろうか。  綾乃の心は何度も同じ疑問を繰り返す。  この世を生きる、というのは、とてもとても大変なことだ。  まして、これまで培ってきた坂本龍馬という人生が、世間から消えたなかで生きていかなければならない。  それがどれほど大変なことか。  綾乃は、その罪悪感に胸が押し潰されそうだった。 「坂本」  原田は笑った。 「俺たちたぶん、時勢が落ちつきゃあ江戸に戻るんだよ。だからお前もやることやったら江戸で待っててくれや」 「…………」 「そして飲もうぜ。あんたに紹介してえ男もたくさんいるんだ」  と明るく言った原田に、坂本はくっくっと肩を揺らす。 「そら楽しみじゃ」  夜明けごろ、船が来た。  坂本は後ろ手を振りながら乗り込んだ。  こうして、坂本龍馬暗殺事件は女ふたりの介入と原田の援護により未遂に終わった。  一方の中岡は、それから二日間は回復の兆しを見せていたものの、体調が急変。  仲間たちに 「早う討幕に立ち上がれ。急がんと逆に幕府にやられてしまう」  と言って、まもなく息を引き取った。  慶応三年、十一月十七日。  中岡慎太郎横死。  世間では、この事件の当事者は新選組であるとして、反会津の気運が高まっていくこととなる。  ──。  ────。 「見廻組の佐々木?」  土方は原田を下から睨み付けた。  それはまことか、と目で問うている。 「それはおかしい」 「と言われてもこの目で見たんだもんよ」  という原田も、腑に落ちていない様子である。綾乃は首をかしげた。 「なにが不思議なの。至極まともな結果だと思ってるんだけど」 「──俺たち幕臣は、坂本を見逃せと聞いていた」 「えっ、だ、誰から!」 「お上に決まってんだろ。……俺たちよりもよほどお偉い見廻組に、その話がなかったとも思えねえ」  土方は皮肉ったようにつぶやいた。  新選組という素浪人がつどった烏合の衆とは違い、見廻組はもともと武士で形成された集団である。身分格差などもあって、新選組は見廻組とはあまり仲が良くない。 「どうして一浪人をお上が気にかけるのよ」 「それほどのことをやったということだ。──まして徳川存続の意を持ちながら薩長ともうまく渡り合うなんてェ輩は、幕府からしたら貴重なんだろうさ」  原田はたしかにいい奴だった、とうなずいている。となると、実行犯が見廻組だとしても後ろに指示した人間がいるはずだ。  どうやら、と沖田が割って入る。 「中岡──いや石川という志士は、十一カ所ほどの太刀を浴びていたそうですね。駆けつけていた人に聞きました」 「で、坂本は」 「長崎に行ったんじゃないかな。そこに愛妻を残してきたようで」  あまり体調がよくないのか、沖田は一言、二言を喋ってふたたび沈黙する。  その言葉になにを思ったか、葵がふと顔をあげた。 「見廻組は、まだ龍馬が生きてるって知ってるよね。仲間が近江屋で斬られて、その死体が坂本龍馬として扱われているんだもん──探すかな」  しかし綾乃は首を横に振った。 「大丈夫だよ。生きていたとしたって、もう死んでいると結論付けられたんだから。龍馬がなんやかやと口を出さなくすれば良かったんだし、結果的に目標は達成したんじゃない?」 「あ、そっか」  それも──と、沖田は小声でつぶやく。 「怨恨の可能性を捨てれば、ですけれど」  怨恨。物騒な言葉である。  しかし見廻組が坂本龍馬に個人的な怨恨を持つことがあるものだろうか。原田は天井を仰ぎ見た。 「そもそも、見廻組はなにゆえ殺したんだろうなァ──捕縛なら分かるけども」 「佐々木が動くなら、会津様が?」 「それはねえと、思うけど」  お手上げだった。原田は口をへの字に曲げて、ばたりと後ろに倒れる。思考を停止したようだ。  それを見て、土方は丸めていた背中を伸ばしてパンパン、と手を叩く。 「さぁ、推理ごっこはしまいだ。あとは、新選組には関わりねえことだろう。仕事に戻るぞ」 「土方さんったら真面目ですねェ」  と沖田はつまらなそうに呟いて立ち上がる。そのときかすかにふらついたのを、土方は見逃さなかった。 「おい総司──おまえは、はやく寝ておけ。身体に無理をかけすぎだ」 「いや、私よりも原田さんとかの方が」 「原田はかてえことが自慢だろう。お前は万全じゃないんだから、はやく寝ろ」  と土方は沖田を寝室へ引きずっていった。  その後ろ姿を眺めて、原田は口を尖らせる。 「俺だって、人間だし──疲れるわい!」 「そうだよね。ありがとう、助けてくれて」 「いや──いいけどよ」  何故か、綾乃の言葉に照れ臭そうにそっぽを向く原田。そのときである。  うわぁ、と叫ぶ声が屯所に響き渡った。  原田は柄に手をかけ、襖をすらりと開けて様子をうかがう。どうやら、悲鳴は先ほど土方と沖田が歩いていった方からのようである。 「な、なに、なにどうしたの」 「見てくる。お前たちはここにいろ」  なんだか、最近原田が頼もしい。  と、葵は感心しながら綾乃をちらりと見ると、何故か額を紅く染めていた。 「……綾乃ってさ、前から思ってたけど」 「なに」 「照れると頬っぺたじゃなくて、おでこが紅くなるよね。なんで?」 「えっ、なにそれ」 「いやそれはいいんだけど──左之のこと結構好きでしょう。いまもおでこ紅いよ」 「照れておでこ紅くなるとか病気かよ、気のせい気のせい」  べしっ、と額を叩きながら、綾乃はケラケラと笑う。  照れたっていいのよ、人間だもの。  と、心のなかで呟きながら、葵は微笑ましく綾乃を見つめた。  原田は、そう時間もかからずに戻ってきた。 「沖田が、また血ィ吐いたんだと」 「えっ!」 「副長が今、面倒見てる」 「最近、普通に隊務もやってたからね」 「絶対安静が必須なのに……」  バタバタと沖田の寝室へ行ってみると、張り紙に「副長と医者以外出入禁止」と書いてある。 「は?」 「なんで」  ふたりは、なんの躊躇もなく襖を開ける。 「えっ、な」 「沖田くん、大丈夫?」 「張り紙見ました!?」 「あぁ、これ?」  綾乃の手には、無惨にもくしゃくしゃになった張り紙の残骸が。 「……あぁぁ」 「一度なったし、大丈夫」  と笑顔でそばに座る葵を、とても嫌そうな顔で見てから、沖田はゆっくりと身体を起こす。 「信じますよ──?」 「信じてよ」  和やかに微笑み合う。  それを遠目に眺めて、土方は小さく笑った。  前に、沖田が倒れたとき。  隊務が終わるや藤堂が一目散に駆けつけたっけ──と、思い出している。 「ずいぶん、静かな屯所になったもんだ」 「…………」  土方は綾乃の手を引いて、部屋を出た。  なにか、聞かれたくないことでもあるのだろうか。  そう思って身構えた綾乃に、土方は寂しそうに一言、 「明日、伊東を殺るよ」  とだけ言うと、あとはなにも言わずに綾乃を見つめた。 (…………)  その視線に含まれた意味を、綾乃は読み取る。  伊東、の中には、御陵衛士の志士たちも入っている。──つまり、藤堂平助も殺る気だということだ。
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