第四章 足掻く

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 平成二十三年の夏。  京都の七条油小路通りを歩いたことがある。  私が労咳に倒れ、やむなく帰郷したときのことだ。そこに行こう、と言い出したのは綾乃だった。  平成のそこは慶応期の面影などまるでなく、大してめぼしいものもない普通の車道があるのみ。通行人は、ここでかつて何が起こったかなど誰ひとり気にも止めずに道を征く。 「…………」  綾乃は、この場所に来てからずっと口を開こうとはしなかった。  ただじっと四ツ辻──平成の世では交差点というが──を見て、動かない。  おそらく。  私たちは恐れていた。 (…………)  これまでのどんな事件よりもなによりも、この場所で、これから過去で起こるであろう惨劇を。  ※  慶応三年十一月十八日。 「本当は十五日あたりにやろうと思っていたんだよ」  土方は斎藤一にそう言った。  三浦休太郎の護衛から外された斉藤一もとい山口二郎は、近藤の要請によりわずか一週間足らずで呼び戻されたのである。 「しかし坂本龍馬の件でごたついたもんで、少し遅くなった。その件は聞いているか」 「事のあらましは軽く──内容の限りではあまり口軽く言うなと言いましたが」 「違いねえ」  土方は小さく笑った。  坂本龍馬暗殺事件改め近江屋事件は、またたく間に薩長土士へと知れ渡った。  おまけに、重体であった中岡の断片的な証言や事件現場の物的証拠などから、なぜか刺客は新選組であると唱える者まで出てきたのである。  その中で「現場に落ちていた刀の鞘が、新選組の原田左之助のものである」と奉行所に進言する者がいた。──それが、御陵衛士の伊東甲子太郎だった。  他にも、近江屋に残された下駄は新選組がよく使用する料亭のものだ、とか、「コナクソ」という言葉は伊予弁だから原田か大石という隊士だろう、とか。  あることないことを土佐藩連中に吹聴し始めたのだという。  それを聞いた原田は怒り心頭である。  「もはや討ち取るのみ」として、今宵、伊東甲子太郎を近藤の休息所で行われる宴に招き寄せるのだった。  伊東はいつになく上機嫌だった。 「本日はお招きいただき、ありがとうございます」 「こちらこそ。貴殿とはもっとゆっくり、たくさん話をしたかったものを、そうそう気安く出来なくなってしまったものだから」 「私も、近藤先生にはいろいろと御意見をお伺いしたかった」  そんな前置きから宴は始まった。  宴の最中、お互いが息をついたとき、伊東は問うてきた。 「……つい先日の、坂本龍馬暗殺の件についてですが──」 「はい」 「新選組ですか」  穏やかな声色だが、伊東の瞳は近藤の様子をうかがうように鋭く光る。  しかし近藤は、キョトンとした顔で伊東を見た。 「…………」 「いや、原田くんの鞘を見たのです。我が眼を疑いました」 「原田の」  伊東はうなずいてた。彼にはめずらしく下卑た笑みを浮かべている。  確かに原田は現場にいた。  その上、坂本龍馬の死体だとして処理された男を滅多打ちにしたという報告も聞いている。状況的に考えれば、坂本龍馬を殺したと言えなくもないが──。  何より、原田の名誉に関わることである。近藤は少しムッとした顔で伊東を見つめた。 「まあいいでしょう。今宵はとても実りある宴でした。是非また──お互いの先見を語り合いましょう」  近藤の脳裏に血潮を噴き出す伊東の姿がよぎる。  はい、と目を細めた。  笑顔のつもりだったが、いつものえくぼは、出なかった。  それは突然やってきた。  七条油小路から、百メートルほど南に下った先にある本光寺近くの木津屋橋通を歩く伊東の目の端に、キラリと光るものがあった。 「────」  なんだ、と確認した刹那。  横道から突き出てきた槍の穂先が、伊東の首を捉えたのである。  瞳を見開いてそちらを向けば、大石鍬次郎が嬉しそうにぺろりと唇を舐めている。 「ぐ、」 「油断大敵ですぜ、伊東センセイ」  大石はグリ、と槍を回した。伊東の呼吸が浅くなる。  しかしさすがは北辰一刀流免許皆伝と言うべきか、彼はすぐには絶命しなかった。  本光寺門前の台石の上によろよろと近寄り、足を震わせて座り込む。  焦らすように後を追ってきた大石を憎々しげに睨み付け、 「…………この、 か、奸賊ばら……!」  伊東は叫び、絶命した。  御陵衛士屯所、月真院に町役人からその報告が入ったのは、更に夜も更けた頃。 「伊東さんがやられたッ」  誰かの一言で、全員が立ち上がる。 「……い、伊東先生が」 「ちくしょう──新選組かッ」 「今、ご遺体は油小路七条に晒されているらしい。先生のそのような姿、公衆に晒すわけにはいかん。行くぞ」 「しかし、罠でしょう──」 「そうと分かっていても、正々堂々行くのが我ら御陵衛士ッ。斯様なことをする卑怯な新選組とは違う」 「…………」  篠原泰之進の言葉に、藤堂は唇を噛み締めて頷いた。 「駕籠を用意しろ」  当時、油小路にはおよそ四十名ほどの新選組がいたという。  角にある大阪屋という名の蕎麦屋二階には、永倉と原田を中心に数名が伊東の死骸を監視していた。伊東を引き取りに来る御陵衛士を一網打尽に討ち取れ、というのが今回の任務なのである。 「…………」 「……永倉よう」 「わかってる」  原田のか細い声かけに永倉は低く呟いた。 「平助だろ」  ──。  ────。  藤堂平助も斬るんですか──。  宴に出る間際、永倉は近藤にそう聞いた。  聞かずにいられなかった。  いつもならば「斬ろう」と言うであろう近藤も、今度ばかりは首を横に振る。 「平助はまだ若いし、それに──文武に秀でているし必ずや大成する男だ。亡くすには惜しいな」  言い訳を多分に含んだ答えだった。 (ようは生かしたいんだ)  と、永倉は胸が躍る。  近藤自らがそう言ってくれるのは、こちらにとっても非常にありがたい。永倉は「原田にも伝えます」と言って頭を下げた。  殺したくない。  殺すわけにはいかない。  だって彼は、やはり仲間なのだから。 「局長は生かせと言った」  永倉の視線は、伊東の死骸から動かない。  その落ち着いた声色に原田も瞳を輝かせる。 「そう、……そうか。そうか、よし」 「だがそれを平助が望むかどうかはまた別の話だぜ」  もしもそのときは、と永倉はようやく原田に視線を向けた。その先を言葉にせぬままじっと原田の瞳を見つめている。  そのときは、斬る──のか。  原田はぐっと唇を噛み、うつむいた。 「……でも、俺、斬れる自信がねえ」 「俺もだ、馬鹿」  永倉は視線をふたたび伊東の死骸に向けた。脳裏に、行きがけの際の情景がよみがえる。  綾乃と葵が、門出する自分を呼び止めたのだ。  彼女たちはひどく不安そうな顔でしきりに  「藤堂平助を生かすことを徹底周知しろ」と言ってきた。  無論そのつもりだったため、この場で待機する隊士にはすでに周知させている。  しかしそう伝えても、彼女たちの顔は冴えぬまま「平助を助けてくれ」と何度も言ってくる。その様子から、永倉もなんとなく意味が分かったので、 「心配するな。大丈夫だから」  と胸を張って言い切った。  なにせ近藤でさえ生かせようと言ったのだ。平助は死なない。永倉はそう信じている。──そう、信じたい。 「……なぁ、左之助よう」 「あんだ」 「──斬りたくねえなあ」  永倉の声は、暗い。  かつて藤堂に従っていた八番隊の隊士は、唇を噛みしめてこそこそと話している。 「……来るかな」 「魁先生だぜ。来ねえわけがねえ」 「俺、やだよ」 「…………」  新選組は、揺れていた。 「来た」  永倉のこの声に、何人の者が手に汗を握っただろう。 「行くぞ」  原田のこの声に、何人の者が逃げ出したくなっただろう。 「…………待っていろ、平助」  何人の者が──来るな、と願ったのだろうか。  御陵衛士が、きた。  涙ながらに伊東を駕籠に乗せた時、周りには数十名の新選組が既に囲っていた。 「……来たな、卑怯者どもめ」  篠原の唸るような声を合図に、七名の御陵衛士は抜刀する。  服部武雄がぎろりと目を剥いた。  新選組にいた頃。  あの沖田総司と剣の腕は引けを取らない、と言われた剣豪であった。  相対するは、原田左之助である。 「…………」 「でぇっ!」  気合いとともに原田は槍を突き出した。  服部が弾く。  その反動で、原田は肩に傷を負った。  しかし間合いを取り反撃を開始。  その戦いに参戦しようと、ほかの新選組隊士も集まってきた。  多勢に無勢。さすがの服部も動きが鈍くなったところに、原田は、重心を低くして槍を突き出す。 「────」  その一撃で、服部武雄は死んだ。  近くで闘っていた毛内有之助も、刀が折れたが最後、新選組隊士の餌食となり、絶命する。
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