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第五章 別離は
十二月は目まぐるしく過ぎていく。
まずは、七日。
紀州藩士三浦休太郎が宿をとる油小路花屋町下ルの料亭、天満屋でその事件は起こった。
陸奥陽之助(宗光)率いる海援隊士や中井庄五郎率いる十津川郷士が、三浦を狙って斬り込んできたのである。油小路の変ののち、ふたたび三浦の守備についていた斎藤一率いる新選組隊士が、これを迎え討つ。
「三浦、覚悟ォ!」
威勢のよい中井庄五郎が、抜きざまに斬りつけるも、三浦は間一髪のところで身をかわす。すかさず新選組が中井の腕を斬り落とし、場はたちまち乱戦となった。
斬り合いのなか、行灯の火が消える。
暗闇に紛れ、誰が誰を斬っているのかもわからぬ状態を逆手にとり、
「三浦を討ち取った!」
と、新選組隊士が叫んだことで海援隊士および十津川郷士は撤退。三浦は事なきを得た。
この事件によって、近藤の従弟である宮川信吉が死亡。三浦休太郎の警護任務は終わりを告げた──。
それから二日後の九日。
王政復古の大号令が発令。
この号令は、完全に江戸幕府を廃絶し新政府を樹立する──というものだ。
さらに坂本龍馬暗殺の嫌疑がかけられていた上、油小路の変まで起こした新選組には、廃止の声が相次いだ。
組織こそ存続したものの、新選組は三日間ほど、新遊撃隊御雇と名乗るハメになる。
十六日には、会津藩より伏見奉行所を屯所として使うように命を受け、前日に山崎と吉村に偵察させていた伏見へ、新選組の大移動が始まった。
全員が伏見奉行所へ移った翌日、体調不良の沖田が近藤妾宅へ一泊。その報を聞き、御陵衛士の残党が襲撃をしかけるも、沖田は一足先に屯所へ行っていたため空振りとなる。
悔しい思いをした彼らだが、その後──隊士を引き連れた騎馬に乗る近藤を発見。
一矢報いるべく、近藤の右肩を負傷させて再び残党は逃げ去った──。
※
慶応四年、一月三日夕刻。
鳥羽街道赤池小枝橋にて──西軍が砲を撃った。
それを合図とし、鳥羽伏見両方面で同時に戦が始まった。
これが、世に言う鳥羽伏見の戦いである。
「明けまして──おめでたかった二日前」
「もうおめでたくないね」
場面は、現在へと戻る。
葵のうんざりした視線の先には、新年早々甲冑を纏う新選組隊士の群れがあった。
江戸薩摩藩邸からの挑発行為により、徳川慶喜は討薩宣言をしたのである。鳥羽伏見の戦が始まるのは、目前だ。
おかげで、大きな戦ができる、と活気だつ隊士たちだが、その中枢に据えるべき人間が、いない。
「ふたりとも、大丈夫かな」
近藤と沖田である。
近藤は肩の傷を癒すため、沖田はいよいよ労咳の治療に専念するため、大坂奉行屋敷にて療養を取りに下ったのだ。
「わたしたちも、準備しておこう。たぶんすぐに近藤さんたちがいるところに向かうことになるから」
「病気が移るからだめって、怒られたよ」
「抗体があるから心配すんなって言っときな。それにこの伏見奉行所、焼けるからさ。ここにいるよりずっと安全だ」
「そうなんだ──」
納得して、葵も荷物をまとめる。
すると、甲冑を纏った土方がガチャガチャと音を鳴らして近寄ってきた。
「おい」
「あ、土方さん。お似合いです」
「知ってる」
「…………」
涼しげな顔で即答する彼に、綾乃はイヤな顔をした。
それからふて腐れたように荷物を見せる。
「大坂奉行屋敷へ行け、って言いに来たんですか。もしかして」
「なに」
「ご心配なく。こっちはそのつもりで準備しています」
「なんだ、やけに察しがいいな」
「向こうで待ってますからね。ちゃんとみんなで、帰って来てくださいよ」
「…………ああ」
綾乃が笑むから、土方もつられて微笑んだ。
その笑顔の応酬に、葵は唖然とした顔で綾乃を見つめる。いつの間に、表情で会話をするまでになったのだ──とでも言いたげに。
「さぁ、ここからは男の世界だ」
と、土方の低く興奮した声色に、男たちは盛り上がる。
新選組隊士は約百三十名、伏見奉行所を本陣として、行動を開始した。
「永倉」
「なんだい」
「伍長の島田と伊東鉄五郎、連れていけ」
指示こそ曖昧だが、永倉はピンときた。
「おお、先発か」
「頼むぞ」
「がってん!」
本陣から、二番隊率いる永倉が駆け出す。
塀をひょいひょいと越え、二番隊士十八名が地上に降り立つ。彼らは一斉に飛び出して敵の隙を狙い、戦場へと駆け抜けた。
土方は身を乗り出しながらその後姿を眺めている。
「ここはいけるな」
「おい土方さん、撃たれるぞ!」
と、原田が慌てて塀から手を伸ばすと、土方は涼しげに笑う。
「あいつらに行かせて、俺が内にいちゃ仕様がねえだろ」
「…………」
「大将ってなぁ、共に戦場に立つもんだ」
「────」
すると、原田も同じように土方の横に立った。
「…………」
「大将だけ上がらせて隠れてるなんざ、こっちの顔もたたねえんだよ」
そんなことを言ってる間に、永倉部隊が敵の野津鎮雄隊を後退させたようだ。
「さすがはてめえだッ、永倉!」
と、興奮したように叫んで、土方は後ろに控える部隊全てを共に出動させた。
しかし、その日は新政府軍と旧幕府軍の軍備の差が顕著に表れる。
薩摩の持つ銃火器に、刀で戦う幕府軍が勝てるわけもなく。
「刀の時代は終わったか──」
剣に生きた隊士の誰かがぼやくほど、この戦いは酷かった。
新選組は大坂への撤退命令を受けて淀方面へ退却することになる。しかし、その戦場には最後まで土方の姿があったと伝わる。
隊士や他藩の逃げる時間を少しでも稼げれば、と奮迅したそうだ。
────。
二日後の一月五日。
野宿も、ここまでくれば慣れたものである。
「このあたりが、淀千両松──なんとか敵の大砲ひとつぶんどってどかんと一発撃ち込みてえもんだぜ」
と、土方が眉間のシワを深くする。
それを聞いた井上は、ニカッと笑って「ようし、見てろよ」と言った。
このときは、土方も頼もしいな、なんて笑っていたのだが。
その会話をこれほど後悔することがあるとは──。
土方は、己の腕のなかで冷たくなりゆく井上を抱き締めながらそう思い、頭の奥が痺れていくのを感じていた。
一刻前。
淀千両松付近で、新選組は再び新政府軍と合間見えることになった。
そこでも武器の差は明瞭で旧幕府軍は押しに押される。程なく撤退命令が発令されたとき、土方はあまりの悔しさに地面を叩いた。
「ただで撤退なぞしてやらねえ。ちくしょういまに見てろよ」
「新政府軍だッ、後ろから来るぜ!」
「お前たちは撤退だ。俺は一発仕掛けてから行く」
永倉の言葉に叫んだ土方は、指をさす。
原田がその先を見ると、草むらの陰に一基の大砲が棄ててある。
「ありゃあ、敵さんが放棄した大砲──弾は」
「ありそうだ。確認した」
「なら、私が一発撃ち込んでやる。歳さんは先にもどれ」
と、息巻いた土方を押し退けて大砲に向かったのは、井上源三郎だった。
試衛館時代からのもっとも古株であり、とても頼もしかった兄弟子。京に上るまではあの土方でさえなにかと彼に甘えたこともあった。土方は「なにを」と突っかかる。
「いいから、君たちは先にもどれッ」
井上は土方の反論を無視して、原田や永倉、その後ろに続く隊士たちに叫んだ。永倉はうなずき、隊士をまとめて駆け出していく。──残るは、原田と斎藤、井上、土方のみだ。
さっそく、敵の死角で弾を込めるための準備をはじめた井上に、土方は再び突っかかった。
「おい源さん」
「まだいたのか──お前がいねえで、新選組はこの先どうなるッ。優先順位を考えろ!」
「な、」
「いいから、原田くん。歳をたのむ」
「あ、あぁ……けど源さんよ」
と、原田が言いかけたときである。
新政府軍が、バタバタと数人駆けてきて、先をゆく永倉率いた隊士たちの影を見つけたのか興奮したように雄叫びをあげた。
「そうはさせんぞッ」
井上は、迷わず火種に点火し、彼らに向けて大砲を撃ち込む。
五人の敵はたちまち衝撃で吹き飛ばされ、全員が地面に叩き付けられた。
斎藤が、近くに落ちた敵を確認し、頷く。
「しかしいまの音でまた来る」
「いまのうちだ。──私がここで撃ち込んでいくから、先に行けッ」
「ダメだ、あんたは死なせん」
土方が拳を握る。
井上は瞳を細めてにっこり笑った。
「──後からちゃんと行くから。いいか、みんな逃げた先でお前の下知を待ってるんだ。役目を忘れるな」
「…………」
「行け、歳」
「副長」
「────クソ、死ぬなよ」
と、原田と斎藤に引っ張られるようにして、土方はその場から駆け出す。
すぐそばまで来ていたのだろう敵に、井上が再び大砲を撃った音が轟いた。
「ちくしょう」
「大丈夫だ、源さんなら帰ってくる!」
刹那。
大砲ではない、発砲音が三発聞こえた。
土方は足をぴたりと止めて、振り返る。
シン、と静まる空気に、斎藤と原田もまさか、と顔を見合わせた。
心臓が、ドッドッと早鐘を打つ。
土方の脳内に警鐘が鳴った。
「源さん──」
土方の足は自然と駆け出していた。
止めることなく、原田と斎藤もその後を追いかける。
まだそんなに遠くない。
それなのに五里も十里も長く感じた。
「あッ」
そこには、ミニエー銃を構える新政府軍のふたり。
その銃口の先にいたのは、大砲を捨て、刀を抜いた井上が、いままさに草陰から飛び出すところだった。
「……やめろ」
土方が、駆けながら腰の刀を抜き、短く叫ぶ。──と、同時に響いたのは、井上の咆哮だった。
「新選組がくたばるかぁーッ!」
彼は、全身に集中砲火を浴びた。
どうと倒れる。
「源さんッ」
という声に気が付き、敵が土方に銃を向けた。
「こなくそッ」
後ろから駆けくる原田が土方の襟首を掴み、乱暴に後ろへ戻しながら槍を突き出す。
もう一人は、鮮やかに斎藤が首を落とした。
「…………」
ゴトン、と首が落ちる音とともに、土方はハッと我に返り、慌てて井上に駆け寄る。
「源さん、しっかりしろ」
「────」
井上は、すでに事切れている。
けれど土方は、その事実を認めようとはしなかった。何度も何度も話しかけては揺すってみる。
その姿があまりに痛々しくて、原田は井上を抱える土方ごと抱き込むと、震える声で叫んだ。
「やめてくれ──もう、死んどろうがッ」
はた、と揺するのをやめた。
土方は低く唸って、項垂れる。
その様子を見守りながら、斎藤は敵の気配を探った。ここに居続けるのは得策ではない。
原田の背中に触れて、斎藤は小さく首を横に振る。そのジェスチャーを理解したのか、原田は双眸から溢れる涙を乱暴にぬぐって、土方から身体を離した。
「……行こう。あんたは、生きなならん」
「────」
「たのむ副長。我々は、あんたの下知を待っている」
斎藤も、土方に手を差し伸べている。
「──…………」
名残惜しくて、悔しくて。
土方はようやく井上の死体から離れた。
「さ、はやく」
死体を連れていくことすら、原田と斎藤は許さなかった。万が一のときに、死体は荷物となる。
いまは、生きている命が第一優先だった。
慶応四年、一月五日。
井上源三郎、戦死。
その死体は、淀千両松付近に転がる幕軍や薩摩兵の死体とともに、寂しく転がったと伝わる。
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