第五章 別離は

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「出掛けよう」  と、松平容保は早朝に将軍から呼び出しを受けた。  幕府軍が撤退を余儀なくされた、という報告を聞いてすぐのことであった。  容保は、将軍様は気落ちしているのかもしれない、と己を奮い立たせ、なるべく明るい笑顔で将軍の元へと向かう。 「おお、容保どの」 「上様。今日は──空が、高う御座いますね」 「冷えた空気のおかげか。澄んでいるんだ」 「美しゅう御座います」 「うん──すこし、歩こう」 「は、」  慶喜の表情は、どこか暗い。  無理もないだろう、これだけ兵力には余裕があった幕府軍がこうも簡単に撤退をさせられたのだ。  容保は悔しくて、ひとり静かに拳を握りしめる。 「…………」  慶喜の足が、早い。  ふ、と容保は気が付いた。  ちょっとした散歩のわりには、随分と城から離れたような気がする。 「う、上様」 「うん」 「どちらまで行かれます」  容保の言葉に、慶喜は暗い声で小さく「うん」と再び答えるのみで、詳しいことはなにも教えてくれない。  この先は、港だ。  もしやと容保は顔を青くした。 「上様、貴方は」 「容保どの」 「──は、」 「愚かなことと、思うたことはありますまいか」 「──…………」 「私はね」  狼狽する容保に視線は向けず、慶喜はぽつりと言った。 「彼らの命が惜しくてならんよ……」  と。  彼はその後、訳も話さぬまま松平容保を連れて大坂から江戸へと下る。  徳川慶喜の敵前逃亡。  大将のおらぬ城に、守る価値もない。  新政府軍と対峙する幕府軍は、よもやそんなことになっていようとは夢にも思わぬことだった。  すでに無人の城と化した大坂城に、隊士が続々と撤退してくる。 「…………」  葵は大坂奉行屋敷から大坂城の天守閣にのぼり、淀川を眺めていた。  淀川の先で、京の町が燃えている。  ため息をついた。  近頃は、気が滅入ってばかりだ。  それに加えて今朝、綾乃に言われた言葉も滅入る原因のひとつとなっていた。  “戦のなかで落とす命を助けようというのは、生者のわがままだ”と。  今日、井上が死ぬ。  史実ではそうなっていた。  もちろん、史実どおりに行かないことだってあるかもしれないが、恐らくは。  葵は、当然助けたいと願った。  けれど綾乃は、断固として反対をした。  病や暗殺ならば、きっと何かしら手を打つことはできるかもしれない。が、しかし戦は違う。理由はどうであれ、自らの意思で戦に参加したのならば、そこにはもはや部外者が入る余地などない。  戦はいわば、己との戦いなのである、と。  綾乃は藤堂の一件からそう学んだと言った。 「あんたのそういうところ、だいっ嫌い──」  葵は、呟く。  なにも言えなかったのだ。  それが正しいと思ってしまったから。 「…………」  だから、これから聞かなければならないのであろう訃報を、葵はただひたすら待っている。  ──しばらくして、城門あたりが騒がしくなった。どうやら永倉やほかの隊士が戻ったらしい。 「…………」  すでに瞳に浮かんでくる涙をぬぐって、葵は駆け出した。  城門前で、綾乃は続々と運ばれてくる怪我人を、赤、黄、白と症状の重さに分けて病室を采配していた。  赤は重体、黄は重症、白は軽傷だ。 「この人は白だから手当ては後、杉田さんは黄!」 「お嬢、こちらで最後です」  隊士が担架を運んできた。最後か、とホッとして患者を見る。  息を呑んだ。 「山崎さんッ」  山崎烝であった。  これまで、彼が深手の傷を負ったところを見たことがない。それゆえに綾乃は動揺し、苦しそうに息をする山崎の手を握り締めた。 「…………山崎さんは赤、重体患者!」 「……うぅ、────」  呻きながらも、山崎はひきつる笑みをくれた。  その笑顔に綾乃は涙をこぼす。それを、天守から下りてきた葵が発見した。 「山崎さんッ」  悲痛な叫びだった。  しかし山崎はその呼びかけにも静かに笑む。  まもなく救護に回された。 「ちくしょうッ」  永倉は、すね当てを外しながら悪態をつく。 「──刀の時代は終わった。なにが官軍だ、なにが錦だ。ちくしょう!」 「新八さん無事で良かった。怪我は?」 「おお綾乃──怪我はない、ないが今度ばかりは敗戦色が濃すぎて、心はつれェよ」 「…………土方さんは? 左之も、源さんもハジメちゃんもいないの」 「…………」  ざわり、と隊士がざわつく。  みな、口にこそ出さないが、戻ってこない=死、という方程式が出来上がっている。  しかし、永倉はなにも答えずにじっと外を見つめた。  ──見つめて、四半刻。  永倉が声を上げた。 「来た!」  その声に反応し、隊士全員が外を見る。  そこには、大きな傷もなく無事に戻った原田と斎藤、そして土方の姿があった。  三人が城に入るや、隊士全員が押し寄せる。  永倉は安堵した顔で近寄った。 「土方さん、原田、斎藤──良かった」 「遅くなった。すまない」  土方は頭を下げ、永倉に目線を移すと「一昨日の先発はさすがだったぜ」と肩をたたいた。 「源さんは」 「…………」 「…………そう、そうか」  その場の全員が悟った。  土方は少し赤い目を隊士全員に向けて、「小休止だ、各々休息をとれ」と指示を出した。  そばにいた永倉にぼそりと言う。 「近藤さんに会ってくる。沖田にも」 「あぁ────土方さん」 「ん?」 「……無事で良かった」 「…………うん」  永倉の顔が、今にも泣きそうに歪むから、土方はくすっと笑って頷いた。  ──。  ────。 「すまん」  大坂城の近くにある大坂奉行屋敷。  近藤の部屋へ入るや、土方は頭を下げた。 「だいぶ死なせちまった。源さんも、──死んだ」 「とし、お前はよくやった。今日はもうゆっくり休んでくれ」  近藤は、布団から上半身を起こしながら、弱々しく言った。 「あ──奴らの武器はすげえぞ、俺も次からはあれでいこうかな、うん」 「…………」  近藤の元気がない。  土方がつとめて明るく言うも、どこか近藤は寂しそうに頷くのみだ。  なんだか居心地が良くなくて、土方は早々に腰をあげた。 「総司のとこにも行かねえと。隣の部屋だったな」 「あぁ」 「行ってくる」 「────とし」  不意に。  近藤の声が、ひどく脆く聞こえた。  土方は慌てて視線を戻す。 「なんだ」 「……いや、」  なんでもない、と言った近藤の顔は妙に青白くて、土方はぶるりと身体が震えた。  いったい、どうしたというのだ。  土方は首をかしげ、隣部屋に急ぐ。  沖田の顔を見るやぐっと胸が詰まって、ぺたりと畳に座り込んだ。 「土方さん、お疲れ様でした。おかえりなさい」 「──負けてきた」  と弱々しくそう呟く。 「源さんも、死んだ」 「斎藤さんから聞きました。でも、きっと源さんはそのつもりだったのだと思いますよ」 「…………」  悄気ている。  沖田は、ふっと小さく微笑んでから視線を布団に落とした。 「聞いていませんか、近藤さんから」 「ん?」 「上様が、江戸へ」 「…………」 「会津様らを連れて、江戸へ行きました」  これが、どういう意味を持つのか。  土方は当然すぐに理解した。  みるみるうちに顔を蒼白にさせる土方を見て、沖田は笑う。 「私たちは、捨て駒ってわけですねえ」  鳥羽伏見での敵前逃亡。  と、平成の時代では否定的に捉えられるこの出来事──委細は、徳川慶喜が幕軍敗戦の報を受けてすぐ、部下はそのままに大坂城を引き払って、側近のみを連れて江戸へ逃げたというものだ。  当然、トップがいなくなれば、大坂も新政府に受け渡すしかない。  事実上の降伏宣言である。  土方は激昂した。 「逃げた。将軍ともあろう者が逃げたのか!」 「……土方さ」 「何人が死んだッ、そんな将軍にどれだけの者が命を」 「土方さんッ」  沖田は、か細くも強い口調で叫んだ。  言われてぐっと口をつぐむ土方に、沖田は力なく笑う。 「もう、やめましょう。みんなそう叫びたくて我慢してるんです」 「…………」  徳川慶喜。  部下から見れば、度胸の一つもない一人の男のために、自分たちはボロボロに傷を負い、井上は命を落とした──そうとしか思えなかった。  たとえほかになにか考えがあるにせよ、土方はいまある現実がたまらなく悔しくて、たまらなく悲しかったのである。 「……土方さん?」  扉が開いた。  顔を覗かせたのは、葵と綾乃だった。  葵は少しばかり白目が赤い。  泣いたようだ。 「──どうした、徳田」 「…………」  土方と沖田の目線が、葵に注がれる。 「…………」 「山崎さんが、思いのほか重傷で」  と、綾乃が代わりに答えた。  葵の瞳にふたたび涙が浮かぶ。 「あんなに怪我した山崎さん──」  初めて見たから、と葵は涙を堪えて呟いた。 「そんなにひどいのか」  あいつは仕事で失敗はしなかったからな、と土方が小さく呟いて立ち上がった。  淀千両松から帰ってきて真っ先に近藤のもとへ来たものだから、怪我人の様子などを把握していなかったこともあり、一度大坂城へ戻るようだ。  土方は、疲れた顔に笑みを浮かべて綾乃を見る。 「よく無事でいてくれた」 「土方さんこそ」 「──源さんは、死んだよ」 「…………」  ずん、と胸に鉛が落ちる。鼻の奥がツンとして涙も込みあがった。  けれど、この土方を前に涙を流すわけにはいかなかった。  きっとこちらよりもよっぽど悲しいのだろうから。──だから、綾乃は土方の手を取って、力強く握る。 「でも、まだ新選組は生きていますよね」 「────」  井上の最期の咆哮が脳裏をよぎる。  ああ、と土方は己の額を綾乃の額にゴツンと当てて、か細い声で言った。 「俺が死なせるもんかよ」
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