第五章 別離は

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 ※  一月十日。  幕府軍に江戸へ撤退命令が出された。  永倉率いる一、二番隊やら、隊長のいない六番隊などは、先に順動丸に乗って江戸へ。土方やけが人等は十二日、富士山丸に乗って江戸へと帰る。  その航海中の、十三日のことである。 「…………」  船内に設けてある病室には、山崎が静かに眠っている。  その手を、葵は一秒たりとも離すことなく、しっかり握って山崎の寝顔を見つめている。  いつだって余裕の笑みを浮かべていた山崎の顔は、もうない。  時折疼く傷口に山崎は小さく呻いた。  そのたびに葵は手をさすってやる。  もう、それしか出来ることはなかった。 「…………ん、」  不意に。  彼の目が開いて焦点が葵に合う。 「山崎さんっ」 「────」  少し驚いたようにこちらを眺める山崎は、なにを考えているのか。  葵は不安そうに首をかしげる。  不意に山崎が笑った。 「あんた、────」 「はい」 「…………」 「なに、何か欲しいもの、ありますか」  しかし、山崎はわずかに首を横に振る。  そして嬉しそうに小さく、小さく呟いた。 「なんや」 「え?」 「まだ──夢か」  と、山崎はふたたび目を閉じる。  口元にはすこし笑みすら浮かべて。  寝たか。  いや、違う。  葵が慌てて手を握る。 「まって、いやだ」  叫んだ。彼の肩が一瞬揺れる。 「山崎さんッいや、やだっ」  それを最後に、彼の身体から力が抜けていく。そして、 「いやだァ──…………」  葵の呼びかけに、山崎が応えることはついぞなかった。  慶応四年、一月十三日。  山崎烝、戦死。  葵は、綾乃に発見されるそのときまで、冷たくなりゆく山崎の手を掴んだまま、じっと虚空を見つめていた。  翌日の朝。  山崎の遺体は、白い布にくるまれた。  新選組の隊士はみな黙ってそれを見守る。 「…………」  綾乃は瞳から零れる涙を隠すように、右の手のひらで顔を覆った。  葵はただただ静かに涙を流して、海へと投げられる山崎を見送る。  海軍は、弔いの大砲を放った。  沈みゆく山崎の遺体に駆け寄るかのごとく、尾形は甲板から覗き涙を流した。  水葬の指揮を執った榎本武揚(えのもとたけあき)は、近藤と土方に目を向けた。  近藤は、深く頭を下げる。 「わざわざ、水葬にまでしていただけるとは。山崎も報われたでしょう」 「つぎの戦では、やはり奴らが使っていた武器を仕入れる必要がありますね。──装備で負ければ、兵力で勝っても同じことだ」 「土方くんは、もう次の戦いを考えているんですね」 「……ぼやぼやしていたら、これ以上に山崎みたいな奴が出てきちまうんでね」  あいつらは、と土方は甲板に駆け寄って山崎の落ちた場所を眺める隊士たちを見る。 「ここまで新選組を信じてきてくれた。そんな奴らを、捨て駒みたいに扱いたくはない」  まるで、慶喜への皮肉のようだ。  土方はにこやかに榎本へ握手を求めた。  洋式の挨拶である。 「また何処かで」 「ええ」  近藤もそれに倣って握手をした。  が、土方と握手したあとのそれは、とてつもなく、弱々しい握手だった。  十五日未明。  幕府艦隊は、江戸へ到着した。  幕府軍扱いでの新選組一向は、丸の内大名小路の鳥居丹後守役宅を本陣として宛がわれた。  ──が、やはりここも仕切りは土方だった。  忙しそうに声をかけまわる土方を眺めながら、綾乃がぼそりと呟く。 「近藤さんの肩、神経切れたのかな」 「船で少し話したときはだいぶ気丈に振る舞っていたけど、ひとりのときは顔が青かったもん。たぶん、身体だけじゃなくて──」 「心因性、…………ありうる」  葵の言葉に、綾乃は目を閉じた。  そう、近藤の肩の傷は未だに癒えず、とうとう神田和泉橋の医学所へ送られたのである。船上にて時折暗い顔をしながら腕をあげ、痛む肩を責めるように叩く彼を見るのは、とても辛かった。 「だから、彼を引き離すのは本当に苦しかったよ……葵、沖田くんに会ったら謝っておいてね」 「うん。だけど彼は分かってると思うよ。近藤さんは医学所に、自分は落ち着ける環境に、それぞれ行かなきゃいけなかったことくらい」  沖田は千駄ヶ谷の植木屋平五郎宅の離れで療養をすることになった。  相当、近藤が心配だったようで、離ればなれになることに抵抗していたが、土方の必死の説得で渋々承諾したようだった。 「おかしいよね」 「え?」 「たった、…………たった数年前は、みんなで一緒にわははって、笑っていたのにね」 「────」  切なく呟いた綾乃に、葵は力なく頷くことしかできなかった。  ────。  二月二十日前後。 「甲州鎮撫」  原田が、ポカンとした顔で言った。  近藤は珍しく嬉しそうに、頷く。 「金や大砲、小銃もたくさんいただいた。こんなに喜ばしいことはないぞ」 「どうだかな」  喜ぶ近藤とは対照的に、土方は怒りを顔に浮かべている。  土方とすれば、厄介者は余所に行かせておけ、と言われたような気持ちだっただろう。というのも、徳川慶喜が江戸城を出て、上野寛永寺へ移ったという。いわば謹慎である。  そこに目をつけたのが、幕臣勝海舟。  その間に江戸城を無血開城させよう、と企てたのだった。  新選組が江戸にいては、無血での開城を促すことは不可能だと踏んだのだろう。大金や武器のほか、近藤や土方へは破格の地位を授け、新選組を江戸から遠ざけたのだ。  近藤の前でこそ黙ってはいたが、沖田のもとへ見舞いに来るやいなや、土方は大きく悪態をついた。 「なにが甲州鎮撫だッ。ただ俺たちが邪魔になっただけのくせに」 「まあまあ、土方さん落ち着いて」  近頃、こんな役回りが多いなぁ、と沖田は苦笑する。  すっかり痩せてしまった沖田の姿に、土方は一瞬だけ口をつぐんで、視線を落とした。 「総司、てめえは」  一緒には来ないんだな、と土方は小さく呟く。  あまりの弱々しい声に沖田はあわてた。 「行けるなら、行きたいですけど──もし私が土方さんで、土方さんが私の立場だったら絶対にダメって言いますから。しょうがないですネ」 「じゃあ治ったら、来いよ」 「…………」 「お前がいつ戻ってもいいように、一番隊の組長は空けてある」  沖田は、口許がひきつる。  柄にもなく胸が熱くなったのだ。 「あは……永倉さん困ってました。お前が早く戻ってこないと、一、二番隊を兼任するのは大変だって」 「じゃあ、永倉のためにも早く治さねえとな」 「ええ、頑張らなきゃ」 「…………」 「…………」  何故か、土方は言葉が見つからなかった。  今までは、馬鹿な話ばかりしていても、気付けば数刻も時が過ぎていることさえあったのに。  切なくて、不安で、喉すらも怖がって言葉を呑み込んでしまう。  だから土方は、振りきるように強い口調で、沖田を呼んだ。 「総司」 「はい」 「生きろよ」 「…………」 「また、会うんだ。絶対に」  一番隊はお前の物だ。  土方は、そして沖田の頭をがしっと抱き寄せる。 「負けんなよ」 「…………っ」  滲む視界は、土方の胸元に押し付けて。  負けるものか、と沖田は心に言い聞かせ、何度も何度も頷いた。 「……葵は、ここに残るんだね」 「うん。沖田くんのそばにいる」 「それがいい」 「私たちは死ねばまた会えるわけだし」 「ははっ、そうだ」  綾乃は、けらけらと笑って空を仰いだ。  なんだか、前よりもずっと、この時代で生きているように感じる。  歴史をなぞっているだけではない、何かを。 「綾乃、」 「うん?」 「私もう、迷わないからね」 「…………」 「私がやりたいように、やってみるからね」  山崎の死以来、葵は強くなった。  綾乃は目を細めて笑んだ。 「うん──頼むぞ!」  この世界にきて、五年目の冬。  とうとう綾乃と葵までもが別行動を取ることとなったのである。  ※  三月三日、桃の節句。 「な──え、なっぱ?」 「菜っぱ隊、だ。覚えやすいだろ」 「うん……────いやネーミングさぁ」  と、言いながら。  綾乃は、土方とともに神奈川方面へ馬で駆けていた。  菜っぱ隊と呼ばれる、神奈川で発起した幕軍に援軍を頼むためである。  援軍を頼むことが急遽決まったのは、昨日のことであった。  江戸から甲府へ──。  行軍の最中、途中で日野を通った甲陽鎮撫隊の一行は、佐藤家に寄り道をした。その際、土方は拝領の品である袰をおのぶへ渡し、すぐに再び甲府へと向かう。 「気を付けて行きなさいよ。あんただけじゃなくて、みんなね」 「気を付けていても、死ぬときは死ぬ。そのときは──立派に祀ってください」 「縁起でもないこと言うんじゃないよッ」  などと、怒られながら日野を出立した。  しかし翌日、関東甲信越地方は雪が降り、甲陽鎮撫隊の甲府城到着が少しばかり遅れたことが仇となる。  その内に、乾退助率いる三千の敵軍が甲府城へ入ったと知らせが入ったのだ。 「遅かったか……」  という土方の呟きに恐れおののいたか、寄せ集めの兵士たちは半数ほど逃げ出してしまったのである。  原田は、不平を通り越して苦笑した。 「ったく、残っているのはごてごての新選組あがりばっかりじゃねえか。情けねえなァ」 「俺が援軍を頼んでくる。なにかあったら永倉──頼むぜ」 「ああ、土方さんも気を付けて」  というわけだ。  途中に休憩をいれることなく、土方は馬を全速力で走らせる。  綾乃は、それについていくだけでも精一杯だったが、ポジティブに「これもドライブデートならぬホースデートか」と考える。  二時間ほどもすれば、すっかり馬とも馴れ合うことができ、楽しい乗馬タイムと化したのであった。 「菜っぱ隊って、なにかつてでもあるんですか」 「いや、ない。ないがとにかく、一人でも多く連れて帰らねえと──さすがに兵力が足りねえからよ」 「それは分かりますけど」  そういう問題ではなく。  と、心配した綾乃の読み通り、結局はいろいろな理由で断られてしまった。  一番腹が立った理由は「卜占でよくない気がでたから」というものだった。 「てめえの金玉は蟻サイズか!?」  と綾乃は怒鳴り散らしたが、笑いをこらえる土方に止められて、虚しく再び味方の元へと走ることとなる。  帰り道、土方はすこしスピードを緩めて、笑いながら綾乃に話しかけてきた。 「おまえって、よくそうポンポン罵倒が出てくるもんだな。俺も見習うか」 「やめてくださいよ、豊玉発句集に下ネタ追加する気ですか」 「ハッハッハ!」  ──途中、日野を通った。  再び佐藤家に寄り、土方は洋服から羽織袴へと着替える。 「こうやって何度も顔を見せてくれるのなら、安心できるってもんだけど」 「冗談じゃねえや。戦が終わって、まだ命がありゃあまたなにか土産にでも持ってきますよ」  と笑顔で、土方と綾乃は日野を去った。  これが、おのぶが弟を見た最後の姿となる。
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