第五章 別離は

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 これは、あとから聞いた話である。 「近藤さん、再挙をしたい」  と永倉は言ったそうだ。  土方が援軍要請のため、神奈川に行っている間、甲陽鎮撫隊は敵兵に場所を特定された。  まずは生き延びろ、という永倉の指示により、部隊は一時散り散りに別れる。幸い、しっかりと集合場所を決めていたこともあってか、わずかばかりの隊士たちは翌日、杉並の玉野家で再び集うことができたのだったが。  その状況にしびれを切らし、土方不在のなか、永倉が近藤へ再挙についての話を持ちかけたのだ。 「──この間江戸に帰ったときに同門の芳賀さんに会って、その人が我々との再挙を是非と言ってくれているんだ。どうだろう、靖共隊ってんだが」 「…………」  永倉と近藤には、近藤批判の建白書の事件以来、ある種の確執めいたものがある。  近ごろの近藤には、大将の気負いというものが感じられないこともあり、そのせいか、どことなく顔色も青白く生気がないように見えた。なにかとネガティブな発言もうかがえたために、永倉もこの件は一度土方に相談してからにしようとも思ったが、やはり局長は近藤である。  筋は通さねば、と今日に至ったのだが──。 「その者らが、私の家臣として付き従うのなら」  という近藤の回答に、永倉は閉口した。  この瞬間。  永倉のなかに結ばれていた近藤との絆が脆く崩れ去った。 「…………」  あとから思えば、この言葉は彼のどんな気持ちから出てきたものだったのだろうか。 「家臣だとォ」  ともに聞いていた原田は、その一言で今までの鬱憤を晴らすかのごとく叫んだ。 「今まで同志でこそあれ、家臣ってなぁどういうことだッ。おかしいぜ──怪我してから急に弱っちくなりやがって、そのくせ大将気取りとは笑わせる!」 「…………」 「なんだよ。なにか言えよッ!」  が、近藤は俯いたまま喋らない。  永倉の眼にうつる彼は、もはや哀れだった。  だからか、興奮する原田の肩を掴んで落ち着かせ、永倉は瞳を歪ませる。 「あんたがそう思っているのなら、もうそれでいい。でも──頼むから俺たちに、あんたに付いてきたことを後悔させるようなことだけは、やめてくれ──…………」  近藤は、ぴくりとも表情を動かさずに、永倉と原田をぼんやりと眺めていた。  この場に土方がいれば、あるいは。  そう思いながら、島田魁はハラハラとした面持ちでこの掛け合いを見ていたそうだ。    帰還した土方がその経緯を聞いたのは、馬をおりてすぐのこと。  話を聞いた彼の顔は、険しく歪む。後ろで控えていた綾乃も顔面を蒼白にして土方の答えを待っていた。 「…………」 「……土方さん、あんたは──来てくれねえか?」  改めて、永倉は土方に問う。  けれども彼の答えは、一秒の間もなく即答された。 「俺は新選組と共にいく」 「し、新選組って」 「けどよ土方さん。いま新選組は──兵がおらんじゃないかよ」  と、原田は情けない顔で言った。 「俺には、新選組を生かす義務がある。そうでもしねえと今まで規律で死んでいった奴らに合わす顔がねえよ」 「…………」  土方は、意外にも優しく笑った。 「なに、お前等がそちらへ行くってんなら止めやしねえ。そりゃあ……お前等なくしては不安でしかねえが──いねえならいねえで、なんとかやるさ」  永倉と原田は、顔を見合わせて唇を噛み締めた。 「……斎藤は」 「俺は土方さんと共に行く」 「即答、か」  と苦笑する原田を横目に、土方は、ちらりと綾乃を見る。その視線を受けて、綾乃は諦めたような顔で小さく笑った。 「この話は終わりだ。新八っつぁん、左之助────達者で、生きろよ」 「…………」  寂しそうに永倉が頷く。  原田は、悔しそうに空を仰いだ。  永倉と原田が靖共隊へ行くと決まって、綾乃は寂しくなったか葵に電話を掛けた。  コール音が四回して『もしもし』と弾んだ声が返ってくる。 「どう、沖田くんの体調は」  綾乃は明るく問うた。 『好調も好調、絶好調だよ。ちゃんとマスクしてるし』 「マスク!」 『うん。ね、総ちゃん』  電話の奥で「なんだか息苦しいです」という声が聞こえる。 『ばっちり快適だって』 「いやおい、聞こえたぞ。ていうか総ちゃんて」 『総ちゃんたら、マスクつけるときに最初用途が分からなくておでこにあてたよ』 「あはははっ、マスクって確か大正から作られたんだよね。そりゃあ、分からんわな」  とわらう綾乃の声に、葵はなにかを察したようだ。優しい声色で『そっちはどう?』と聞いてきた。 「うん──左之と新八、靖共隊に行っちゃうんだって」 『……そっか。ねえ総ちゃん』  と、沖田にも報告しているらしい。  「そんなのイヤですッ」という声が聞こえて、綾乃は思わず苦笑した。 「沖田くんのこと、頼むね」 『それはもちろんだけど。綾乃は、大丈夫なの』 「大丈夫、大丈夫」  けれど電話の奥で葵が沈黙するから、綾乃はふっと笑って。 「大丈夫ったら。──わたしには土方さんがいる。土方さんには、ハジメちゃんもいるから」  大丈夫。  そう言ったあとで、まるで自分に言い聞かせているみたいだと気付き、少しだけ涙がこぼれた。  だから、早々に電話を切った。  ──もう、日が暮れ始めている。  ※  四月二日、新選組は下総流山に到着した。  味噌醸造業を営む長岡屋へ本陣を置いたものの、その日の夕刻には新政府軍によって包囲されてしまう。  武器提出を求めてきた新政府軍を睨み付けながら、斎藤はふてぶてしく呟いた。 「最近こういうことが多いな」 「もう居場所がないね」  綾乃も思わず肩をすくめる。  しかし、口先のペテン師、土方は違った。  涼しげな顔で前に出る。  新政府軍はわずかにざわついた。 「なにか勘違いをしておられる」 「なんだとッ」  ふ、と挑戦的に笑って、土方は「今」と胸を張って嘯いた。 「江戸からの脱走兵がいろんなところで暴れている。それだけならまだしも、農民一揆まで起こしそうな勢いだから、取り締まっているんですよ」 「…………」 「百姓というのは、ある種武士よりも恐ろしいもんですから──」  と。  綾乃は、彼の言葉に興奮した。  ひとり笑わずにはいられなかった。  百姓の恐ろしさ──とは、なんという皮肉であろうか。  斎藤や、古くから新選組にいる男たちも、恐らくは同じことを思っただろう。  ──百姓あがりのこの男は、いまだ負けてやる気などさらさらないのだ、と。  土方のとっさの機転によってその場をなんとかしのいだ新選組は、再び外を監視しながら、一日を終えようとしていた。  ……はずなのだが。 「ちょっと、行ってくるよ」  突然、近藤が立ち上がったのである。  唐突すぎて意味が分からないと言ったように、土方はきょとんとしている。  しかし綾乃はさっと顔色を変えた。 「行くってどこに」 「敵陣」 「──は、?」 「俺は、もう無理だと思うんだよ。歳」  と弱々しく笑った近藤に、ようやく言葉の意味を理解した土方は、途端にキッと近藤を睨み付ける。 「それはなんだ、降伏するってのか。冗談じゃねえ」 「冗談なんか言っていない。本気だよ」  ひどく穏やかな近藤の口調に、たまらず土方は眉を下げた。 「……どうしたんだ、なんだよ。あんたおかしいぞ最近」 「おかしくない。これが本当の俺だ」  俺はな、と近藤は着物を整えながら軽い調子で喋り出す。 「お前みてえに度胸なんかねえんだよ、歳。俺は幕府を信じてた、信じてここまでやってきた。幕府ならきっと──ってよ。でも、上様は大政奉還をなされた。──…………俺は、どこに向かうべきか、分からなくなっちまったんだ」  呟いた近藤は、ようやく土方に顔を向けて背筋を正した。 「京で、俺は新選組の局長なんて大層なもんをやってきたけど──俺は常に思っていた」 「……なにを」 「俺じゃねえな、ってさ。今考えりゃ、俺は大人しく天然理心流の道場主でも継いでいたら良かったんだよ」 「…………」  ──大丈夫。  きっとまた、近藤のわがままが発動しただけだ。きっと、すぐに心変わりをするはずだ。  綾乃は、必死で心に言い聞かせた。  でなければあまりにも──辛い。  頼れる腹心がいなくなるなかで、もっとも信頼していた大将までがいなくなっては、いったい土方はどうすればよいのだろう。  もうこれ以上、彼を苦しめるのはやめてくれ、と綾乃は叫びたかった。 「ここらが潮時さ、な。これ以上楯突くと俺たちは一生賊軍だ。愛する隊士たちにそんな汚名は着せらんめえ」 「──……………」  土方は、震えた。  この震える拳で、目の前の男を思う存分まで殴りたかった。  何が、大政奉還だ。  何が、賊軍だ。  そんなもの、俺たちの士道の前には関係なのではなかったのか。  土方はそんな思いでいっぱいだった。 「じゃあ何か。俺たちが多摩から上がってきたときから、──」  俺たちは、違ったというのか。  という土方の呟きに、端で聞いていた綾乃は思わず俯く。  ふたりを直視するのが、怖かった。 「……さあ、どうだろうな」  とにかく行ってくる、と近藤は馬を出す。 「おい近藤さんッ」 「すぐ戻る」  一言呟いて、近藤は颯爽と馬を走らせていった。 「…………」  しばらく、何も言えなかった。  土方は憤りとやるせなさで、瞳に涙を浮かべて。 「────」  あの質問に、近藤が「気持ちは同じだった」と言わなかったことが、土方は何より悲しかった。  京での四年間、自分たちは何をしてきたのだろう。  そんな想いが駆け巡って、土方はその場に座り込んだ。  数刻後のことである。  一旦、武器提出などのため、近藤は帰営した。  土方は「お願いだやめてくれ」と頭を下げてまで、訴える。 「近藤さんッ」  すっかり痩せてしまった両肩をがしりと掴んだ土方の手に、近藤は優しく手を添えた。 「お願いだよ、近藤さん──…………」  もはや。  対峙しているのは、新選組としての近藤、土方ではなく、かつて牛込の試衛館にて義兄弟の契りを交わした、勇と歳三であった。 「ごめんよ、歳」 「…………」 「お前が俺のそばにいて、良かった」  これまでにないほど穏やかな声だった。  その一言で、諦めたのだろう。  土方はゆっくりと肩から手を外す。  それから、近藤に背を向けて静かに、泣いた。  近藤はその後、新選組が会津へと向かうなか、野村利三郎(のむらりさぶろう)相馬主計(そうまかずえ)と共に江戸へ残ることとなる。  土方はひとり、馬を飛ばした。  敵地ともいえる江戸で、勝へ近藤の助命嘆願をするため、必死に駆けた。  近藤はその間に、大久保大和という変名を使用して、降伏をする。  が、しかし板橋宿の名主の家へ連れて行かれた際、高台寺党の加納鷲雄らによって、大久保大和が変名であることを見抜かれた。  それから三週間ほど経った、四月二十五日の昼。  土方の助命嘆願も虚しく。  近藤は板橋にて、 「御厄介になりました」  と、江戸の方角に向けて頭を下げる。  そして首を差し出した。  慶応四年、四月二十五日。  近藤勇、斬首。  その首は、それから三日間ほど、京の三条河原橋の上に晒されたという。 「…………」  寂しくなんかねえさ。  土方は、そう言った。  綾乃の膝に頭を預けてぼんやりと虚空を眺める彼の瞳が、助けてくれ、と叫んでいるような気がして、綾乃は優しく頭を撫でる。 「だれが、泣いてやるもんか」 「──…………」  強がり。  とつぶやいて、綾乃は泣いた。  泣かぬ強がりの彼の分まで。
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