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少しばかり時は戻り、四月十一日。
勝海舟と西郷隆盛の談判により、江戸城無血開城は成立した。
この頃、土方は会津藩の秋月登之助と出会い「幕府歩兵奉行の大鳥圭介さんが歩兵大隊を率いて会津へ向かうが、土方さんはどうする」というようなことを言われた。
出来れば一日も早く来てほしいということだったため、土方は快く了解する。
近藤と別れてから、十日ほどが経っていた。
この頃、散り散りにだった新選組は斎藤や相馬が率いており、総寧寺には見知った顔がほとんど集まっている。
「よく集まってくれた。遅くなってすまなかったな」
「なに、土方さんが死ぬはずもねえ。そりゃあみな信じて待っていますよ」
「……斎藤、お前口悪くなったな」
「あんたのそばにいりゃ悪くもなる」
「なんだと、このやろう」
「いてっ」
なんとも珍しい、土方と斎藤のじゃれ合い現場である。
思わずにやりと笑った綾乃は、慌てて口元を隠す。
ひとしきりじゃれついたところで、土方はコキッと首を鳴らした。
「どうやら市川にて軍議をやるらしい。俺は五臓六腑が捩れるほど嫌だが、行かなきゃならん。その間、また斎藤、相馬、島田も組を頼むぜ」
「お一人で行かれるんですか」
「すぐそこだ、危険はあんめえ」
と危機感どころか、表情には余裕すら浮かべる土方をうっとりと見つめて、綾乃はバシャバシャと写メを撮っていた。
市川での軍議は、会津や桑名藩兵など二千人を率いるのは誰か、という話から始まった。
「土方くんがやればいいと思うよ」
「…………」
大鳥の意見に、周りはおぉ、とどよめくも、一人土方は眉根を潜めて周りからわからない程度に下から上に睨み付ける。
「なっ」
「いや、なって……私は洋式での実戦にはまだ不慣れですよ。ここは大鳥さんがやった方がいい」
「……私か」
「…………」
すこし、自信なさげに大鳥は呟く。
嫌なのか、という目を向けてから、土方は「助言はしますよ」と上から目線で言った。
「じゃあ土方くんは参謀格だ。他に何か意見はあるかな。戦略についてこうした方がいいとか、他には──」
「じゃあ参謀からひとつ言わせていただくが」
再び土方は下から上に睨み付けるように大鳥を眺めて、鼻で笑った。
「一刻も早く軍議を終えて、出陣することですな」
「…………」
部隊は「東照大権現」という大旗を靡かせ、土方は仏式洋服を着して愛刀、和泉守兼定を帯刀し、肩からは連発拳銃を吊っていた。
そう、平成の世に見る写真の彼そのものである。
「ちょっと! 土方さんヤヴァイ。かっこよすぎるヤバイ鼻血でるなう!」
『ねえちょっと、電話中に会話ぶったぎって興奮しないでくれる』
「ごめん、だって……ごめん! だってさぁ!」
『わかったよ、もう!』
ここから土方は、大鳥たちと二股で分かれ、大鳥は第一大隊と桑名士官隊を率いて下館へ。
土方は回天隊、新選組、衝鋒隊を率いて鬼怒川沿いへ向かった。
途中、小山には前に幕府を裏切った彦根藩、須坂藩兵が守備していたが、土方は一蹴。
ここから、下野戊辰戦争が始まる。
楽々と小山を攻略した旧幕府軍であったが、また再び大鳥と土方が言い争いを始めた。
「宇都宮はかなりの街道が集っている。新政府だって馬鹿じゃねえ限りは、ここを攻略するはずだ」
「それは暗に私を馬鹿と言っているね」
「否定はしないが、とにかく宇都宮城はおとすべきだ。さもねえと行く手がなくなる」
土方はさっさと戦の身支度をはじめた。その様子に、大鳥は眉を下げて弱気な声を出す。
「しかし無理だ──」
無理?
土方は笑う。
彼の辞書に無理という言葉はない。
「兵三百と砲二門、拝借しますぜ」
「そ、それだけでおとす気かッ」
「俺なら行ける」
「……君は、やはり私を馬鹿にしている」
「否定はしないが」
「このやろ!」
新選組隊旗に掲げられた一字は『誠』である。
言うを成すという言葉の通り、土方は有言実行。
このわずかな兵で出陣し、見事半日で城を落とすのだった。
────。
四月二十四日。
葵は身支度をしながら宇都宮城落城の旨を沖田に伝えた。
案の定、沖田は大喜びで布団を転げ回る。
「うわあすごい、半日で。げほ、さすがは土方さんだ」
「その四日後には穫られちゃったみたいだけど」
「ええッ」
土方歳三率いる新選組は、この宇都宮城攻防戦にて並外れた戦闘力を見せた。
とはいえ新政府軍もバカではなく、第二次、三次、四次と続いた宇都宮救援隊なるものと大激戦となる。大鳥圭介の部隊は銃弾を使い果たし、土方や江上──以前は秋月と名乗っていた会津藩士である──などの幹部陣も負傷したため、宇都宮城を明け渡し、日光に向けて退却を余儀なくされたのだという。
「土方さんが怪我を……」
沖田はつぶやく。
土方が怪我をするなど、よほど熾烈な戦いだったのだろう。
漠然とした不安に駆られて、先ほどから出かける準備をしている葵を見た。
──さん、どこにいくの?
と、彼女に呼び掛けようとした沖田は、不意に眉根を潜める。
「…………」
あまりにも急なことだった。
目の前にいる女の名前が、分からない。
「……あ?」
ど忘れにしてはタチが悪すぎる。
本当に突然、頭からそこだけが抜き取られたかのごとくぽっかりと、分からなくなってしまったのである。
「どうしたの」
「────」
あっ、葵さんだ。
彼女の声をきっかけに、沖田はまた唐突に彼女の名を思い出す。
たらりと背筋に汗が流れた。
「………い、今ね。あの」
「ん?」
「あの、いや──葵さん」
「うん」
「葵さん、そのう。筆と紙をくれますか」
「いいよ」
はい、と渡すと、沖田はおもむろに葵の名前を書き出した。
「どうしたの」
「あ、一応綾乃さんのも書いとこう……」
「えっなに、なんの呪い?」
葵の表情は浮かない。
「よしできた!」
これを枕元に置いて、沖田は満足げに笑った。
「どうして名前書いたの」
「な、なんとなく」
と笑う沖田だったが、心中穏やかではない。
「それよりも葵さん。どこに行くの?」
「板橋」
しかしこちらもまた、心中穏やかではなかった。
「板橋って、どうしてまた」
明日、新選組の近藤が処刑されるらしい──。
そんな噂が巷で流れている。葵は、なんとしてでも見届けなければならないと思った。
「ちょっと遅くなるけど、待っててね」
「…………」
沖田には、最後まで言えなかった。
今まで貯めたお金を切り崩し、駕籠を呼ぶ。
明日の昼、近藤は死ぬ。
自分が見ずして誰が彼の最期を見てやれるのか。
葵は駕籠に乗り込んだ。
近藤の最期は、武士としてあるまじき終わり方であった。
悔しさに唇を噛み締めながら、葵は江戸に向かって頭を下げた近藤を、涙をこらえて見続ける。
助けようにも、ドラマのように颯爽と救い出すことができるヒーローでもあるまいし。覚悟をはらんだ彼の目を見ればその気も失せた。もはや、その瞬間をただ焼き付けるのみである。
「────」
首が転がったときは思わず目をそらしたくなったけれど、それでも奥歯を噛み締めて見続けた。
──。
────。
その首が京の三条河原橋に梟首されたのは、閏四月の八日から三日間あたりのこと。
十日の朝。
首の前に、十歳ほどの男子が一人、笠を深く被り立ち尽くす。
「…………」
彼は、おもむろに首級に触れた。
頬骨の張った近藤勇の顔は、間抜けともとれるほど穏やかである。
少年は、奥歯を噛みしめる。
「それ盗ったら賊軍ぜよ」
声がした。
ハッと伸ばした手を引っ込める。
ぐるりと後ろを見ると、こちらもまた目深く笠を被った、でかい男がいる。
「だ、誰だ」
「まあハナッから賊軍なら、それも関係のないことじゃ」
男はボロボロの身なりで髷も結わず、天然パーマの髪の毛を伸ばし放題にしている。
少年は叫んだ。
「名を名乗れ!」
「名ァを名乗るがはおんしからが礼儀じゃ」
「貴様官軍か。それは土佐の言葉だなッ」
「土佐っぽは土佐っぽじゃが、もう死んどる身ィじゃき、心配すな。ほれ、名乗らんか」
飄々とした態度を崩さない。
負けじと少年はぐっと胸をそらした。
「──会津藩主松平容保が長兄、容興」※時期別小話参照。
「なんだと。……」
一瞬、目を見開いた男は「ほうかほうか」としみじみうなずいた。
「わしは死んどる身ィじゃろ。名ァを名乗るがはあの世の御法度ゆえ」
「話が違う」
容興は、ふとその顔に見覚えを感じた。
一度城内で見かけた顔だ。
「あ」
「…………」
「土佐の坂本龍馬」
「あん?」
男は、細い目をさらに細める。
それからチッ、と顔を背けた。
「──有名人も困りもんじゃ」
「死んだはずでは」
「ほいじゃき、幽霊でも見とるっちゅうことにしといてくれんかねャ」
坂本は苦笑した。
少年もさして気にしていないのか、再び近藤の首級に視線を移す。
「新選組は、我々会津のために働いてくれたと、父上は感激しておった」
「ふむ」
「斯様なところに晒しておくは気が済まぬ。せめてこの首を埋めてやりたい」
気丈に振る舞ってこそいたが、彼もまだ子どもである。いまにも泣きそうだ。
なにゆえ父親と一緒ではないのか。
坂本の問いかけに、容興は「乳母と逃げていた」とつぶやいた。
「どうせ次代にも用のない私だもの。父のそばにおるのは弟たちでよい」
「…………」
坂本の心がぐらりと揺れる。
次代に用がないのは、わしも同じだ──と言いそうになったのである。しかしこれ以上関わるのもよくない、と思ったか突如踵を返し、
「まあ、ふんばれや」
と後ろ手を振る。
容興はあわてて言った。
「いずこへ」
「江戸」
「江戸──」
いま、江戸には父がいる。
容興は逡巡した。
「いかがする」
「えっ?」
「おまんも、行くかえ」
「…………」
坂本はふたたび容興を見る。
容興はホッと口元を緩ませた。
「ゆく──私もゆくッ」
「…………うむ」
次代から取り残された者同士、悪くない。
坂本はふたたび苦笑して近藤の首級を手に取る。
どこかで焼いてやろう、とつぶやくと、容興は嬉しそうに賛成した。
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