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第五章 果報者
一方で。
もうひとり、江戸へ向かう決意をした男がいた。
「江戸へ行く」
原田が永倉に告げたのは、少し戻って四月も終わる頃。
靖共隊としてともに動いていた原田が、ここに来ていきなりそんなことを言い出すものだから、永倉は驚いた。
「何を言っているんだ、お前。──幕府軍はみな、会津に行くと言っているぜ」
「……ウン」
「江戸に行ってどうするつもりだ」
「会いたい奴がおるんだ」
「あ────会いたいやつ」
永倉が反復する。
「会津に行ったら、もう江戸へは戻れんだろ」
「戻る気なんかねえよ。華々しく散ってやるっつってたのはお前だろ!」
「約束なんだ」
「……や、」
「華々しく散るは、約束果たしてからでもええだろう」
今まで、ずっと一緒にやってきた。
しかしその戦友がいま、何を考えているのか分からない。それが悔しくて、永倉はムスッと後ろを向いた。
「悪い──」
「…………」
原田の申し訳無さそうな声にまたムカついて「さっさと行けよ」と呟く。
「新八」
「……おう」
「またな」
原田の涙声に、永倉は唇を噛み締めた。
「また──」
やがて泣き出す原田を、永倉は振り向いていきおい良く抱き締めた。
「莫迦やろう。寂しいぞ、ちくしょうッ」
「すまねえ、すまん──」
「行ってきやがれ。約束破んのは男じゃねえぞ!」
永倉も、泣く。
原田は涙をぬぐい「また」と言いかけて、苦笑した。
また会おう、なんて叶わぬ約束だ。
お互いの背中をばしっと叩き、
「達者でな」
という一言だけを交わした。
これまでずっと、背中を預けあってきたふたりには、これで十分だった。
※
五月。
雨が降っている。
会津藩主松平容保はすでに会津にて徹底抗戦をしている──と、上野で聞いた。
数日前に江戸入りをしてかき集めた情報だった。容興はすこし肩を落とす。
「……いないのか」
「どがいする」
「会津に行きます。父に会わねば」
「ほうか」
会津まで、と坂本は呟く。
「一人でゆけるか」
「行けるとも!」
江戸でも戦は激化していた。
旧幕府軍側には彰義隊が結成され、恭順中である幕府に代わり、江戸を牛耳っていたと言っても良い。
「すっかり荒れたな、江戸も」
坂本はつぶやいた。
近藤勇の首級は、途中の野で焼いて骨を砕き、巾着袋に入れた。さすがに頭蓋骨を持ったまま移動はできない。
袋は容興が肌身離さず持っていたが、坂本と別れるとなったいま、小さな布に骨の欠片を包みだす。
「なんしゆうか」
「こちらの巾着袋は、坂本さんが持ってください。私はこの布を持って行きます」
「…………」
坂本さんはここでお別れですから、と容興は寂しそうに笑う。布にくるんだ骨の欠片を大事そうに握りしめた。
「──これを父に届けます。私の役目だ」
「さようか、ならば、仕方ない」
坂本も困ったように笑った。
たったひと月ほどの間に、容興はとても大人びた。人の子の成長は早いものだ──と感慨深くなる。
名残惜しむ暇もなく、颯爽と立ち去る彼の背中を見つめてから、坂本はぐるりと周囲を見渡した。
「さてと」
江戸の地で、会わねばならぬ男がいる。
ここにいま、いるのかどうかは知らないが、なんとなく近い気がした。
こういうことにおいて自分の勘は昔からよく当たるのだ。
坂本はゆっくりと歩き出す。
辺りは陰惨たる有様だった。
五月十五日に、上野戦争が勃発。
無血開城に不服を唱えて上野の寛永寺に立てこもった旧幕府軍の彰義隊と、長州藩大村益次郎率いる薩長の新政府軍が衝突したこの戦は、大村部隊によりわずか一日で鎮圧された。
大村の戦術により彰義隊はほぼ全滅。
話に聞いたとおり、死体がゴロゴロと転がって、周囲の家屋は焼けている。
数年前の江戸と比べると見る影も無い。
新選組は会津に行ったと聞いたから、自分の待ち人もこの死体の山には見つかるまい。──それを思えば、坂本は少し気持ちも軽くなった。
「あれ」
ふいに、後ろで誰かが声をあげた。
己のことではなかろうな、と坂本は声のしたほうにちらりと視線を寄越す。
すると、どこかで見かけた女がいるではないか。
「…………」
「あっ。やっぱり龍馬──龍馬だッ」
葵だった。
この場に全く似つかわしくない彼女だが、何ゆえここにいるのか──。
坂本は目を見開いて「葵かっ」と叫んだ。
「うわすごい、本当に──会いたかった!」
葵は興奮を隠すことなく駆けてきた。
ほとんど手ぶらの彼女に、坂本は首をかしげる。
「おまん、こがなところで何しゆうか。綾乃は?」
「あ、えっと……この間話したときは会津だって言っていたよ。いまもそこにいると思う」
「会津か──よう聞く名だ」
遠い目をしてから、パッと顔をあげて葵を見る。
「ほんでおまんは」
「千駄ヶ谷に沖田総司くんがいるの。それについてきた」
「新選組は会津におるのではなかったか」
「労咳なの」
葵は呟いた。
「だから静養のために」
「労咳……ほうか」
以前に会ったときは暗がりでよくは見えなかった。
が、確かに肩を支えてくれたときは瘦せぎすだったな──と坂本は心で思う。
「龍馬は?」
「うん。原田と江戸で会うっちゅう約束を、この間ふと思い出した。原田は会津におるのだろうが──もしやと思うて来てみたのよ。なれどこの様子じゃあ人探しどころでもなさそうじゃキ」
と言っていくそばから、葵の顔が沈んでいく。
そういやァ、と坂本は笑った。
「上野はまだ危険というに。おまんいったい何しに来たがか」
「……龍馬といっしょよ」
「えっ」
「私も、左之に会いに来たんだよ」
たくさんの死体をゆっくりと見渡して、呟く。
坂本の胸がどっと脈を打った。
まさか。そんなバカなことが。
「しかし」
戸惑ったように言葉をこぼす。
「新選組は会津へ」
「左之は新選組を離れた。そして江戸にくるの──」
「それは」
「私の知っていた歴史だよ。原田左之助は江戸で上野戦争に巻き込まれる。そして彰義隊とともに戦って、それで」
そこまで言うと、一度口をつぐんで葵は眉をしかめた。
「それを確かめに来たの」
雨足が弱くなってきた。
坂本と葵は、脆く崩れた瓦礫を掻き分け、進む。
ふたりの間に言葉はない。ただ、その目はあちこちに転がる死体に向けられている。見知った顔はいないか──と、坂本は凝視した。
ただでさえ近視のためにぼやける視界を、必死に目を凝らして探す。
いなければいい。
きっと、いない。だって新選組は会津に。
坂本が視線を移したときだった。
長槍が目に入る。
瓦礫の陰に隠れるように、男の足がちらりと見えた。
「…………原田」
ふと、声が漏れた。
まばたきも忘れて瓦礫の陰を覗き込む。
煤にまみれた真っ黒い容貌は、大変凛々しい、見覚えのある顔だった。
「は、原田。原田ッ」
声をかけると、微かに男は呻いた。
坂本はその場に膝をつく。
ボロボロに朽ちた袖章に『誠』と書かれている。間違いなかった。
「原田──」
後ろを歩いていた葵が慌てて駆け寄ると、原田はビクッと腕をびくつかせて、必死に立ち上がろうとした。
しかし、もはや体力は限界だった。
諦めたように息を吐く。
目を閉じたまま「おお」と呟いた。
「坂本、やっと、来たか」
うわ言だった。
「約束だったもん、なァ」
原田は呟いて虚空に手を伸ばす。
どうやら夢うつつのようだ。
慌てて坂本がそれを握ると、原田は焦点の合わない瞳を開けて、微笑む。
涙がこみ上げたので、坂本は明るく叫んだ。
「わしだけやのうて、──葵もおるぞ。わかるか、原田ッ」
「…………」
「はらだ!」
「……あおい、?」
息も絶え絶えに、原田はそう言った。
「おお、そうぜよ!」
「……誰だそりゃあ────おまえの、女か」
「な、」
なにを言っているんだ、とふたりは絶句する。
しかし葵は既視感を覚えた。同じような場面に出会ったことがある。
そうだ、あれは──。
「あ、────え?」
混乱したように葵が呟いた。
しかし、原田は嬉しそうに坂本の手を弱々しく握って「会えてよかった」と呟いたが最期、静かに息を引き取った。
しばらくふたりともその場を動くことができなかった。
が、やがて坂本が脇差を抜いて、原田の遺髪を少し切り取る。
懐の巾着袋へいれると、再び大事そうに胸元へ忍ばせて原田の顔についた煤を優しく払ってやる。立ち上がった。
「──沖田くんに、会わせてくれるか」
「…………もちろん」
葵は涙をぬぐい、笑った。
明治元年五月十五日。
原田左之助、戦死。
ふたりは、千駄ヶ谷で待つ沖田のもとへと力ない足取りで向かった。
──。
────。
一方で、千駄ヶ谷。
違和感を覚えていた者が、もう一人。
「…………?」
自分の字で書かれたふたりの名前に、沖田はぼうっとする。
いったいこれは誰の名か。
胸には焦燥が走るのに、それが何故かもわからない。
「あ」
ドクン、と心臓が大きく鳴った。
その瞬間に彼はその名前の人物を当然のごとく思い出す。
「…………」
怖い。
刻一刻と、何かが沖田の記憶を蝕んでいっているのは、確かであった。
※
「すごい偶然だぁ」
坂本を見るや、沖田は痩けた頬をめいっぱい持ち上げて笑った。
元気であれば飛び上がっただろう。
それほど喜んだ。
「坂本さんが元気そうでよかった!」
「沖田くんは、随分痩せたのう」
「あまり食べられないんです」
けほ、と咳をひとつ。
うつりますよ、と沖田が眉を下げるも「いまさら労咳に怖がる人生でもない」と坂本は気にせずにくつろいだ。
あの日からこれまで、積もる話も多そうだ。葵はにっこり笑って
「お茶淹れてくるね」
と部屋を出ていった。
その後ろ姿を眺めて、坂本はにやにやと笑みを浮かべる。
「すっかり夫婦のようじゃねャ」
「からかわないでくださいよう」
「いんやまっこと──こちらが弱ったときの、おなごの介抱ほど胸にくるもんはない」
「坂本さんもそんなことが?」
「昔にな」
坂本は苦笑した。
言うほどのことでもない、と首を振る。
「あれから坂本さんはいったい何を」
「長崎に行った。そこで龍女の顔をみて──ああ、もちろん声はかけとらん」
「…………」
「なんぞ虚しいもんでな、日本を一周しておった。世界に行きたいと思いながらも、まだまだ日本ですら知らぬことばかりじゃった」
西を周ってようやく江戸へと足を向かわせることが出来た、と坂本は言った。
「知り合いには、バレませんでした?」
「ふふ。長岡兼吉という海援隊士がおってな、奴は真面目な良い男じゃ。わしもよう可愛がっておったゆえ、ちくと悪戯をしようと」
奴の枕元に忍び込んだ、と言うや坂本は自分で笑い転げた。その状況を思い出したのだろう。
「この通り身なりもひどいゆえ、本物の幽霊とでも思うたみたいでな。夜通しわしは長岡と話をした。いろぉんなことを。ほんで翌日、海援隊の仲間に坂本龍馬が夢枕に立った──なぞ興奮しちょって」
くっくっ、と肩を揺らす。
沖田もつられてケラケラと笑った。
「それは、長岡さんもさぞ嬉しかったに違いない」
「ほうじゃのう──長岡もそうかもしれんが、なによりわしも楽しかった。あれほど友と語らうのが楽しいとは思わなんだよ」
とはいえ、今は今でそれなりに楽しいのだ、とも言った。
「旅先で会うた者と語らうのもなかなかおつでな、もうすっかり新たな人生で友人ができた」
「それは坂本さんのお人柄ゆえでしょう」
と、沖田が言ったと同時にお茶をもった葵が戻ってくる。
「お待たせ」
「ほいじゃき、いまは坂谷龍太郎と名のっちょる。おまんらも坂谷と呼んでおくれ」
「坂谷さんね。慣れないなぁ──あ。お茶、ありがとうございます。……」
沖田はお茶に手を伸ばす。
──ありがとうございます、◯◯さん。
と続くはずの言葉が詰まる。
まただ。
また、忘れた。
「あ──」
「葵は、」
坂本がふいに言った。
「茶を淹れるんがうまいのう」
と、音をたてて茶を飲み干す。
それによって三度、沖田の記憶に彼女の名前が戻ってきた。
「…………」
「おまん、こがなうまい茶ァを毎日飲んどるがで。羨ましいのう」
「褒めすぎだよ、もう」
葵が照れ笑いを浮かべている。
しかし沖田は、顔を青ざめるばかりで口を開こうとしない。
「沖田くん、どがいした」
「…………あ、いえ。なんでも」
「具合悪い?」
「い、いいえ。大丈夫。あの──」
それより、と沖田は坂本を見上げた。
「どうしてふたりとも上野に行ったんですか。葵さんなんて、どこに行くんだかなにも教えちゃくれないんですもの。上野なんていま、戦で危ないところでしょうに──」
と呟く沖田に、坂本はおもむろに懐から巾着袋を取り出す。
穏やかな口調で言った。
「原田を看取ってきた」
と。
「え?」
「彰義隊に混ざって、──全滅じゃと」
「…………」
沖田の顔がさらに青くなる。
思い出したのだろう、葵はうつむいた。
一瞬流れる沈黙。
「────ぶぇっくしょん!」
──を、派手なくしゃみでぶち壊してから、原田のやつ、と坂本がボケッとした顔でつぶやいた。
「最期はちくとおかしかったねャ」
と。
葵は「そうだね」とだけ呟き、それからは閉口したまま喋らない。
どういう意味だろう、と沖田が坂本を見ると、彼は唇を尖らせた。
「葵のことを忘れとるようでな……」
「…………」
ドキン、と沖田の心臓が鳴る。
おもわず壁に貼った葵の名前に視線を移す。大丈夫、まだ覚えている。
手が震えはじめた。
頭から汗が出て、沖田の顔はいっそうあおくなる。
「総ちゃん、どうしたの。総ちゃん!」
「医者を呼ぶか」
「いえ──ちがう、違います。大丈夫」
「なにが大丈夫なもんかェ。こがな汗だくで」
「大丈夫ですったら! 私はまだ覚えてる──忘れない、忘れるわけないッ」
「…………」
やがて、沖田はばたりと倒れて意識を失った。
葵と坂本は慌てたが、医者がいうには血虚(貧血)だという。
いきなり興奮して血圧が上がったからかもしれないな、と葵が眉を下げて沖田の額を手拭いでぬぐう。
(嗚呼)
もはや、葵にも伝わった。
これまでにないほどの重い鉛が、ずしりと胸に積まれた気分だった。
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