50人が本棚に入れています
本棚に追加
「怖い……もう、怖いんです」
沖田が叫ぶ。
それは、彼が目を覚まして葵を見た瞬間であった。
その葛藤を聞いたとき、葵のなかでは、パズルのピースがぱちりとはめられたような気がした。
「記憶がなくなる──」
「ただのど忘れとは違うがか」
「違うッ」
「…………」
叫んでから、沖田は布団の上で頭を抱える。
「なんで一番、忘れるわけない人のこと、忘れなきゃならんのですか。今も、葵さんの顔も──名前の紙も見ねえと、覚えていられるか不安なくらいなんだっ」
そして、沖田は泣き出した。
どういうことなのか、いまいち理解しきれていない坂本は、眉を下げて沖田の背中をただ擦る。
ただひとり、葵は愕然とした。
──沖田から自分が消える。
聞いてみると、綾乃に関することも消えはじめているという。
(あの時と同じ──)
ずっと葵の胸にあった違和感。
それは、高杉晋作が臨終の折に言った言葉である。
──はて、だれにだったか。
と。
つい、先ほどまで話していたというのに、まるでその事実そのものがなかったかのような態度であった。
思い返せば、山崎烝の最期も。
──まだ、夢か。
と、彼は葵をみてそう言った。
(本当に”そう”なら)
葵は袂から携帯を取り出す。
己のなかにあるパズルが形を成してくるにつれ、それがあまりにも残酷なものだから。
(綾乃は……知らないはず)
葵は震える手で電話をかけた。
三回目のコール音が途切れて、
『もしもし』
という脳天気な声が聞こえる。
葵は、ホッとして涙がこぼれそうになった。
「…………綾乃」
声が震える。悟られぬように小さな声で「そっち、なにかあった」と尋ねた。
『なぁんも。今は、土方さん足を撃たれちゃったから、療養のために東山温泉にいるんだけど。その間はジロちゃんたちが新選組率いてくれてるし、こっちは温泉三昧だし、むしろすごくゆっくりできてる』
電話の奥から「三月も戦線離脱なんかしてられるかッ」という土方のぐれたような声が聞こえる。
『で、どうしたの。なんかあった』
「──土方さん、忘れっぽくなってるとかないよね?」
『若年性健忘症? ないなぁ』
「…………」
思った通りだ。
葵のなかでひとつの結論にたどり着いたような気がした。
沖田はすがるような目でこちらを見ている。その視線から逃れるように目を伏せる。
『葵?』
「総ちゃんがね、」
たまらず部屋を出た。
これから話すことを、沖田に聞かれるわけにはいかなかった。
「私たちのこと忘れちゃうんだって。────それが怖くて、しょうがないって」
『…………』
「今日、左之が死んだの」
『えっ』
「そのときもそう。もう私のこと、知らないみたいな反応だった。──覚えてるよね、高杉のときもそうだったこと」
わかるでしょ、と葵はその場にうずくまる。
「もうすぐ死ぬ人は、みんな私たちのことを忘れていくの」
どうしよう、と葵は言った。
「綾乃、どうしよう。嫌だよこわいよ」
『…………』
「ねえ……」
葵は板張りの廊下に膝をつく。
「こんなのってないよね──ねえ」
なにか言ってよ、と。
黙る綾乃に、葵は泣き崩れた。
不安、悲しみ、全てをぶつけるように泣き、葵はうずくまる。
すこしの沈黙ののち、綾乃はぽつりと言った。
『……後悔してる?』
「…………」
『ここに来て、みんなと出会ったこと後悔してるの?』
綾乃の口調は強かった。
『あんただってどこかでやっぱり、って思ったんじゃないの。こういう可能性を考えなかったわけじゃないでしょう』
しかし、声色はいまにも崩れそうなほどに脆い。電話の奥にある彼女の表情が、安易に想像できた。
『そりゃあ怖いよ、いやだよ。忘れられたくないよ──だけど』
きっと自分以上に、情けない顔をしているのだ。
『たくさんもらったじゃない──』
「…………やだ」
『夢から覚めたって最初には戻らない。わたしたちには残ってるよ、ちゃんと』
「……嫌だァ──」
こらえきれずにこぼれ落ちた涙が、膝に落ちた。
『葵、』
「っいや!」
と葵は思わず電話を切る。
部屋に戻るや、沖田に無言で抱き付いた。
「…………葵さん」
「嫌だ……」
坂本は、唇を噛み締める。
「イヤだよ──」
大好きな人から、自分との全ての記憶が無くなっていく。
それが、これほどまでに辛いことだとは。
これほどまでに、恐いことだとは、思わなかった。
(…………)
スン、と鼻をすする。
携帯を握る手はふるえていた。
電話を切られた綾乃は、退屈のあまりゴロゴロと芋虫のように転がる土方を見た。
「なんだよ」
「…………いえ」
視線を感じたか、うつ伏せに転がって上半身だけをむくりと起き上がらせた土方は、不機嫌そうに綾乃を見る。
「……土方さん」
「なんだ、お前からあのやぶ医者に、療養期間を早めるよう頼んでくれるか」
「違いますよ、そうじゃなくて」
綾乃の中で湧き上がる、恐怖と不安。
自分も、この人にいつかは忘れられてしまうのか、と思うだけで、胸が握りつぶされるようだった。
だから綾乃は土方のそばにぺたりと腰を下ろして、ふわりと髪の毛をさわる。
「土方さんって、忘れんぼうだからなぁ」
「あ?」
「──でもわたしはちゃんと覚えてるからね」
「なんだ、なにを忘れるって?」
土方はキョトンとしている。
「……土方さんがわたしのこと」
「俺がお前を? 耄碌しているとでも言いてえのか」
「そうじゃなくて」
「忘れねえよ」
正座をする綾乃の膝に頭をのせて、土方は笑った。
「お前なんざ、忘れたくても忘れられるか」
と、無邪気にわらう。
その笑顔を見ても、綾乃の心はなおさら、辛くなるばかりだった。
※
「はい、チーズ」
パシャ、という機械音が部屋に響く。
しかしそれも沖田と坂本は慣れたものだ。
「はははっ、坂谷さん変なの!」
「ほれ葵もこっち来ィ。撮っちゃるキ」
「えっ、龍馬ってばデジカメ使えるようになったの?」
「ここ押すだけろう。わしにもそんくらいはできる」
と坂本はキラキラした目でデジカメを見つめた。最近は動画モードまで使いこなすようになったとか。
あの日から、ひと月。
もう六月も終わる。現代では五月三十日が命日と言われていた沖田も、まだ生きていた。
──想い出を残そうと決めた。
葵はデジカメでたくさんの写真を撮ることにしたのだ。いまでは、いろんな場面で笑い合う三人が、デジカメのなかにたくさん残っている。
「調子はどう、総ちゃん」
「悪くないよ。はやく戻って、土方さんが……空けておいてくれている、ッゴホ、一番隊に戻らないと」
「うん」
坂本も、すっかり植木屋平五郎と仲良くなって、一緒に居候をしている。
「買い物行ってくるから、お留守番お願いね」
「心配すな、わしがちゃんと見ちょるキ」
「ありがとう。行ってきますっ」
と。
元気よく出ていく葵の後姿を眺めて、沖田は坂本へ視線を移す。
唐突に言った。
「葵さんを、ゲホッ──会津へ向かわせようと思うんです」
「なに」
「あちらには、土方さんも……綾乃さんもいる。ここに、いて、労咳がうつるより──安全だから」
「ほやけど、あいつが行かんろう」
「……実はネ」
と寂しそうに笑ってから、ゾッとするほど青白い顔で、虚空を見つめ、呟いた。
「……葵さんを見るたびに──視界がぼやけて、……ゲホ、ゲホッ。彼女が、見えなくなってきているんです」
「なっ」
「このままだと、本当に本当に、忘れてしまう──…………」
そんなのは嫌だ。
沖田は、微かに笑った。
「……だから、忘れる前に死にたい」
(ああ)
その時、彼が何を求めているのかを、坂本は一瞬にして理解した。
それが彼にとって最善の選択肢であることも、わかった。
だから、
「介錯をお願いできますか」
という沖田の真っ直ぐな瞳を前に、もはや断る勇気など、なかったのである。
──。
────。
買い物を終えた葵に、沖田は自分の髪の毛を切るよう頼んだ。
「土方さんは、短髪になったと言うじゃないですか、私もそうなりたいなぁって」
「いいけど、上手くできるかな……変になってもご愛嬌ってことで許してね」
「もちろん」
「よし、じゃあやってみよう。そこ座って」
楽しそうに、縁側で髪を切り出す葵を、坂本はしばらく黙って見つめていた。
が、やがて笑顔を向けて問うた。
「おまん、それ切った髪の毛はどうする」
「坂本さ……坂谷さんの持っていた巾着袋に入れてください」
「だけどその袋って──近藤さんの骨と、左之の髪の毛が入っているんでしょう。総ちゃんの髪の毛入れたら死んじゃうみたいで縁起悪くない」
少しだけ、不安そうに呟いた葵に、沖田はとびきりの笑顔を浮かべて言った。
「何を言いますか、土方さんは私がいないとダメだから、……私が復帰するまで持っててもらおうと思って!」
「えっ」
笑顔を絶やすな。
己を鼓舞するように、沖田はやせっぽちの手でぎゅう、と己の着物を握りしめた。
「葵さん、ッゴホ、会津の東山温泉まで、届けに行って貰えますか」
沖田の言葉に、葵は目を見開く。
「なっ、なんで私が──嫌だよ」
「会津なんて、土佐人がたくさんいるんですよ。坂谷さんが行くわけにいかんでしょう。……それに、向こうには綾乃さんたちもいるのだから、心強い」
「…………」
「私もすぐに追いますから」
「ほりゃあええ。わしも、出来るところまでは沖田くんに付いていくキニ」
坂本は明るく言う。
ふたりの様子は、至って自然だった。
自然だったからこそ、葵は口許をひきつらせて、うつむく。
「────そ、」
沖田と坂本は、笑顔を繕ったまま葵の反応を待った。
すると葵はうん、うん、となにかを納得するように頷くと、そうしようッと笑った。
「久し振りに綾乃にも会いたいし。行くか」
ホッとした。
お願いします、と沖田は嬉しそうに頷く。
(────)
坂本は縁側に散らばる沖田の髪の毛を集めるふりをして、俯きながら、溢れる涙を見られぬように必死に顔を背けていた。
七月に入った頃。
葵は旅支度をして、沖田に手渡された巾着袋をしっかりと胸元へ納めた。
「お願いしますね」
「まかせて」
「すっと追うキニ、待っといとくれや」
「うん」
こうして、葵は千駄ヶ谷の家を出発した。
──見送りの際、最期まで名残惜しげに繋いだ手を離さなかった沖田は、
「寂しくなったら、カメラをごらん」
と囁いた。
ゆっくりと手を離す。
「行ってきまァす」
すこし進んでは振り返り、手を振る。
角を曲がって見えなくなるまで見送って、沖田は笑った。
部屋へ戻り、着物を脱いだ。
坂本が用意した白装束へと着替え、短刀を前に深々とお辞儀をする。骨ばったうなじを見つめて、坂本が口を開いた。
「何か遺したいものはあるか。最期じゃキ──遠慮はいらんぞ」
「…………」
ぼうっとした顔で虚空を見つめる。やがてにっこり笑って首を振った。
「特にないかな」
もう十分に楽しんだ。
思い残すことなんか何もないくらい。
「ただ、ありがとうと──それだけです」
「……ほに、なれば、よし」
沖田は居住まいを正して短刀を手に取る。
息を止め、深々と腹に突き刺し横へ引く。
その間、一声も漏らすことはなかった。
「御免ッ」
坂本は、沖田の首を、落とした。
慶応四年、七月初め。
沖田総司切腹。
道中、呼ばれた気がして葵は振り返る。
気のせいかと再び前を向いた。
けれど、足が動かなかった。
彼らの思惑に気付いていたにも関わらず、止めなかった自分に苦笑し、その場にへたり込む。
手に持つデジカメからは、再生された動画に映る、いつまでも楽しそうな笑い声が響いていた。
※
──ゴホン、いいですか。撮ってる?
ふふ、緊張するな……。
ええっと──はい。
拝啓葵さま。って、文じゃないのにおかしいかしら。はははっ。
ゴホン。
えーそろそろ、秋の香りを感じるようになってきました。──。
あの、会津まで。
突然頼んでしまって、御免なさい。
気付いていたでしょう。下手な芝居だったろうに、有り難う。
私ね、今まで、武士の生き方なんてどうでもよかったんです。
自分の納得するものならば、それでいいと思っていました。
けれども、あなたと出会って、そばにいて──。
この人のために生きたいと思った。初めてでした。
…………。
それなのに、これから先、生き続ければ私はそれを忘れてしまうという。
あなたの顔も、声も、想い出も。
全部忘れてしまう、と──。
ゴホッ、ごほ。
だから私はね、早く死にたかった。
あなたがいたことを忘れてまで、生きたくはなかったんです。
身勝手だと思うでしょう。
御免なさい。
本当に。
でもわかってほしい。
人の、一番の不幸って、大切な想い出が消えることだと、私思うんです。
だから──。
あなたが私の知らない場所へ帰って、ほかの誰かを好きになったとしても。
最期まであなたを慕っていた男がいたことを、忘れないで。
いろんなことで悩んで、泣いてしまったときも、いつだってそばに私がいることを信じていて。
いつまでも、いつまでも想っていますからね。
──沖田総司でした。
ふふ。
──。
────。
「…………」
照れ笑いを浮かべた沖田で、動画は終了した。
坂本が撮影したのだろう。
手ブレはひどく、画面外から坂本がすすり泣く声も聞こえてくる。
咳き込みながら懸命に想いを込めた二分足らずのビデオレターを、葵は旧幕府軍の連絡船の中で数え切れないほどの回数を再生した。
何度もなんども、声をあげて泣いた。
やがて涙も枯れたころ、沖田の声を子守唄に眠りにつく。
夢の中で、自分は世界一の果報者だ、と笑う自分がいた。
最初のコメントを投稿しよう!