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幕府軍は、福島に行くという。
それを受けて斎藤は「ならばここで」と袂別の意を唱えた。
「斎藤──」
「土方さん、あんたなら理解できるだろう」
「わかってる。わかってるよ、けども、……わかっちゃいてもやっぱり、心もとねえからよ」
「…………」
土方の言葉に、斎藤は苦笑した。
やがて深々と頭を下げる。
斎藤のうなじを見つめてから、土方も頭を下げた。
「会津をたのむぞ」
「……はい」
「お前なら必ずや一矢報いると信じている」
土方は斎藤を抱き寄せて、背中を強く叩いた。
「死ぬなよ、斎藤」
「…………山口、ですよ」
「俺にとっちゃお前は斎藤なんだよ」
と。
ふたりは寸の間のひととき、かわいらしく笑いあった。
──。
────。
九月三日、土方は松島湾に現れた。
山崎の海葬以来であった榎本武揚らと合流し、ともに青葉城へと入る。
それからまもなく、旧幕府軍が福島に向かう間際の九月五日。
在留を決めた斎藤率いる新選組部隊が、高久村如来堂の守備中に攻撃を受けた。
──部隊は壊滅。
生き残りは皆無だと報告が入る。
土方は珍しく狼狽し、その情報の正確性を何度も部下に問うた。
斎藤が死ぬはずはない。
しっかり確認したのか。
おもわず部下を叱責した。が、部下とて情報を伝えに来たにすぎず、実際の戦況がどうだったかなど知るわけもない。
ふと。
別件を済ませてきた綾乃が、土方の剣幕にすっかり萎縮する部下に気付いた。なぜ怒られているのかは知らぬが、綾乃は哀れにおもって、適当な用事を申し付けた。
あわてて立ち去る部下。見送る綾乃。
ぎろり。
と、険しい表情を綾乃に向けた土方だが、やがて拗ねた五歳児のごとき顔でうつむく。
「なんの話です?」
「──斎藤の部隊が壊滅した、と」
「それならさっき聞きました。みんな、やっと仲良くなった人たちばっかりだったのに……もう、どこに行っても新政府軍の掌中にあるみたいで、やんなっちゃう──」
「斎藤は」
「え?」
「死んじまっただろうか」
消え入りそうな声だった。
多摩から京へ上った際の、最後の仲間。まして斎藤はどんなときも、だれよりも、土方の腹心として動いた。
道は離れても、どこかで生きているならそれでいい。それが家族というものだからだ。しかし──。
士気が目に見えて低落する土方。
なに言ってんのよ、と綾乃はそんな彼を笑い飛ばした。
「斎藤一が死ぬとおもってんですか」
「しかし現に死んだと」
「部隊はね。部隊は死んだかもしれない。立て直す余地なし。確かにそうかもしれないけど──斎藤一ですよ」
「…………」
「ハジメちゃんは、死なない」
綾乃は力をこめてつぶやいた。
これまで、土方は女たちから語られる未来話を真剣に聞いたことはなかった。未来で語られる史実になど興味はない。なぜなら、いまを創るのはいまを生きる自分たちだからである。
しかし、今回ばかりは。
「……ほんとうか」
「うん」
「未来じゃ、斎藤は生きているんだな?」
「うん」
「ほんとうに──」
「カッコいいお祖父ちゃんになった写真が、残ってますよ」
「…………」
綾乃はにっこりわらった。
土方の胸を、不思議な安堵感が満たしてゆく。それとともに脆くなった涙腺から、涙がこみ上げてきた。
まだ頑張れる。
土方はおのれの胸をドンと叩き、気を奮い立たせた。
一方。
如来堂を命からがら脱出し、斎藤と数名の新選組隊士は会津藩兵とともに会津城外にて抵抗を続けた。
城外はもちろんのこと、城内においても熾烈な籠城戦を繰り広げ、会津城はもはや瓦解寸前である。
会津藩率いる若年志士にて形成された白虎隊が、遠くの飯盛山から城を見て、燃やされたと勘違いして集団自害を遂げるほど。
それほどボロボロになっても、会津城では藩兵はもちろん、女子どもまでが力を合わせて戦った。
しかし、終わりはやって来る。
二週間ほど前に改元した明治元年九月二十二日。
会津藩は降伏。
降伏したあとも斎藤は城内にて、徹底抗戦を続けたと言われている。
その後、松平容保の使者になだめられ、ようやく斎藤も降伏を決意。その際、彼は変名の一瀬伝八を名乗ったという。
一瀬という姓は会津に多い。
会津藩兵が、新選組という立場がバレるとまずいと気を遣い、名を与えてくれたのだろう。
こうして、斎藤は新政府軍の捕虜となり、越後高田へと送られた。
※
少し戻り、九月十二日。
榎本は蝦夷への渡島を決意した。
この頃、幕府には
衛鋒隊、彰義隊、新選組、砲兵隊、
伝習歩兵隊、伝習士宮隊、陸軍隊、
遊撃隊、工兵隊、神木隊、中島隊、
会津遊撃隊、軍艦隊、額兵隊、靖共隊
等々。
様々な名の部隊があった。
十月十日。
新選組は遊撃隊や伝習士官隊等の部隊とともに、大江丸という運送船に乗り込み、蝦夷地へと出発することになる。
船の後尾で土方は、離れゆく本島をじっと見つめている。
もう戻ることもないと思っている。
立派にもついてきた女ふたりは、船の揺れにやられて船室で唸っているところだ。
「懐かしい顔だなぁ!」
背後から声をかけられた。
振り返ると、江戸の頃にとても仲良くしていた悪友の姿がある。
土方は目を見ひらいた。
「八郎!」
「わっはは。やっぱり歳さんだ、久し振りだなぁ」
伊庭の小天狗、伊庭の麒麟児──等々。
天才男児であり駄々っ子のぼんぼん息子、江戸末期のグルメ王子として現代で名を馳せている、あの伊庭八郎だ。
綾乃に江戸を案内したことは記憶に新しい。
年は沖田と変わらないか、少し幼いくらいだが、試衛館にいた頃はともに、いろんな口実を作って近藤周助先生からお金をせびったものだ。
土方は数々の可愛らしい悪行を思い出し、顔をほころばせた。
「おい懐かしいじゃねえか。あぁ?」
「全くですね。いやしかし驚いたな。アァ、驚いたら腹減った。鰻食べたい」
「──おい八郎、おまえ左腕どうした」
伊庭の左腕は、肘から下がない。
しかし彼はけろりと笑った。
「あぁこれ、肘下あたりに傷負っちまって、──そのままぶらぶらつけてても腐っちまうってんで、切り落とした」
「もったいねえな、お前手先器用だったのに」
「なに、まだ右手があるさ!」
それより、と伊庭にやりと笑う。
「さっき乗船するときに見たけど、綾乃さんもいたよな?」
「なんであいつのことを知っている」
「エェ、聞いてないの。昔、江戸を案内してやったんだよ。まったく歳さんは人の話を聞いてるようでなんにも聞いてねんだから」
「お前、ほんと総司に似てるよ。そのちょっと腹が立つとこ」
「あんな腹黒くねえよ、オイラァ!」
と伊庭が胸を張る。
土方は思い切り吹き出した。クスクスと肩を揺らす土方を横目に、伊庭は懐かしそうに続けた。
「発句集だって、オイラはちゃんと歳さんに断りを入れた方がいいって言ったんだ。なのに沖田くんはさ、“平気平気。あの人ニブチンだから気付かないですよ、気付かれたって沢庵入りのぼた餅積んどきゃ機嫌治るでしょ”って言うからぁ」
「…………」
土方はきゅっと唇を結ぶ。
だから見ちゃった、と笑う伊庭よりも、もうこの世にはいないだろう沖田の不敵な笑みを思い出し、殺意を覚える。
「あのガキ──地獄で会ったら黒蜜かけたところてん口に詰めてやる」
「あっ、やっぱり歳さんも酢醤油だよな。ところてん!」
「京に来てあれを初めて食べたとき、俺は到底やっていけねえと思ったよ」
けらけらと笑った伊庭は、はっと顔をあげた。
「で、その沖田くんは──」
「死んだよ。たぶん地獄にいるだろうぜ」
「…………」
一瞬絶句し「ほかのみんなは?」と眉を下げる。
「近藤さんも源さんも、原田も藤堂も山南さんもみんな死んだ。永倉と斎藤は、別部隊で頑張っているだろうが」
「そ────そんな、かァ」
軍畑で、友人の戦死はよく聞く話だ。
しかし、その事実を受け止めるには時間が必要である。しかし土方は、暗くなった伊庭の背中を叩いた。
「もういねえもんは仕方ねえ」
にやりと笑う。
「それよりこれからだ。まずなにしたい」
「何、──なんだろう。蝦夷についたら……まずはめしがうまい店を知りたいな。とくに鰻さ」
「また鰻かよ!」
「もう四年前かな、京の御城代屋敷の後ろの店で食べた鰻がうンまくってなァ──都一番だと思った」
「鰻狂いめ」
くすくすと笑う。
すると、船室から女ふたりがのっそりと出てきた。どうやら船酔いから復活したようだ。
土方は頬を弛めた。
「よう、酔いはどうだ」
「最悪ですよ……てかさっき、土方さんも酔っていませんでした?」
「まあ、新選組はすぐに酔うやつばっかりだからな」
「なんでもう元気なの」
「海に吐いたから」
「…………」
おかげで腹が減ったよ、と土方が笑ったとき、船内では夕餉を知らせる鐘が鳴った。
その日の夜。
船内では宴になった。
酒にあまり強くない土方でさえ、杯片手に楽しそうにしている。
「えっ、綾乃と伊庭さんって面識あったの」
と驚いた声をあげたのは、葵だった。
「言うの忘れてた。そうなのよ、でもまさか同じ船に乗っているなんて思わなかった」
「ほわぁ──」
と感嘆のため息をついて、葵は伊庭をじっと見つめる。
「この人が、グルメ王子かつボンボンな上に道楽息子で駄々っ子だけど、開き直ると強いと言われる、あの──」
「それ誉めてる?」
「誉めてねえだろうな」
「だよね」
土方の冷静な回答に、伊庭は頷いた。
「いや感謝してます。イバハチ日記のおかげで、この時代の京の物価がよほど江戸より高いかということがわかったし」
「鰻が美味しいってこともわかったし」
と笑顔のふたりに、伊庭は体勢を崩した。
「なんでッ。なんでオイラの日記……えッ」
「御上洛なんちゃら──通称、征西日記」
「…………」
思わず顔を真っ赤に染めて黙りこんだ伊庭を、土方は嬉しそうに覗き込む。
「なんだそれ。俺も見たい」
「だ、だめだよ歳さんは」
「なんでだよ。人の発句集読んだんだろ」
「あれは沖田くんが!」
「鰻と千枚漬け積んどいてやるよ」
「もうっ」
伊庭は土方の背中を叩いた。
すると、島田や野村、榎本、額兵隊の星恂太郎までもが周りに集まってきた。
「面白そうだからさ、こっち」
「榎さんなんか、いるだけで面白いから。気を使わなくていいんですよ」
綾乃はすっかりフランクだ。
「どういうことだよ!」
「いやその髭、上向きすぎでしょ。ファッション髭の先駆者だよね」
「え?」
「こいつちょっとおかしいんです。すみません」
と土方は笑った。
それをうっとりと見つめて、田村や市村が酒をつごうと近付いてくる。が、綾乃は即座に止めた。
「ちょっと鉄くん(とは、市村鉄之助のこと)、土方さんにお酒つぐのはわたし」
「小姓は自分です」
「だからなによ。だいたいねえ──」
「あ、この漬け物おいし」
葵は気にせず食事をとる。
しかし今のいままで市村に絡んでいた綾乃は、突然葵の肩を組み出した。
「幕府軍部隊ゲーム!」
「うわ、酔っ払ってらこいつ」
「陸軍隊、ハイハイ」
突然はじまった掛け声に、周囲はなんだかよく分からないままに笑いだす。
「遊撃隊! はいはい」
伊庭もノリ出した。
「新選組! ハイハイ」
「額兵隊、ハイハイ」
しまいには葵もノッてやる。
そんな応酬に島田は笑い、野村もへべれけになってバシバシと膝を叩く。
連中を見回し、榎本は溜め息をついた。
「──土方くんが連れてきた人間は、何かしら個性が強すぎる」
「私は関係ないですよ。あいつらがおかしいんです」
土方は顔をほころばせる。
野村や伊庭、島田や沢、みんなみんな酔っ払い、明るい笑い声が響く。
これから戦場に突入するなど到底思えないような盛り上がりが、その日は明け方まで続いた。
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