第五章 天の罰

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 それからも松前攻略軍は止まらない。 「土方さんが全然帰ってこない!」  と五稜郭にいる綾乃が嘆くとおり、土方率いる攻略軍は、松前城に滞陣したのち江差に向けて出陣した。もちろん、敗走した松前藩兵を追うためである。 「あんた、こんな状況なんだから土方さんのこと少し忘れたら?」 「それができたら苦労しない」 「まあ、勢い余ってそっちについていくとか言わないか心配だったから、その点は良かった」 「…………」  綾乃がじっと葵を見つめる。 「なに」 「素敵なこと言うね」 「違うやめろ」 「その手があったか」 「ない、ないから!」  もちろんそんなことはできない。  いるだけで足手まといになるのは目に見えている。が、綾乃の心はそばにいたいと叫んでいた。 「だって、──」  今日は十一月十五日。  旧幕府軍にとって、悲劇とも取れる出来事が起こるのだから。 「なに?」  もったいぶる綾乃に、葵は眉をしかめた。 「開陽丸の沈没。聞いたことない?」 「……あるような」  ないような。  という葵の反応を予想していたのだろう。  綾乃はかいつまんで説明をした。  明治元年十一月十五日。  江差攻撃をかける松前攻略陸軍を援護するため停泊していた開陽丸が、暴風雨に見舞われて座礁。沈没するのである。  開陽丸の救援に向かった神速丸も座礁し、旧幕府軍の頼みの綱は全滅してしまうという。 「それはどれほどのダメージなの?」  葵は首をかしげた。  久しぶりの綾乃歴史講座である。 「開陽丸はね、世界でもめっちゃ最新の軍艦だったの。みんな、みんな頼りにしてて──これがあれば勝機も見える、っていうくらいの」 「ええ……土方さんも?」 「当然」  と、綾乃は暗い顔でうなずいた。   十五日早朝。  榎本武揚(釜次郎)を乗せた開陽丸は鴎島の島影に碇泊した。  町はすでに無人であり、榎本軍は無血で江差を占領。榎本は能登屋と言う旅館で身体を休めていた。悲劇の報告はそのときだった。 「開陽丸が沈みますッ」 「なんだと!?」  榎本は飛び起きた。  すぐさま浜に駆ける。海を見た。 「…………」  そこに見たのは、傾いた開陽丸が激しく波に打たれる様であった。  ──その頃、陸軍として松前藩兵を追ってきた土方軍は苦戦の末、翌十六日になったころ、松前藩兵を抑えることに成功した。  榎本が能登屋にいると聞いた土方は、足早に向かう。  当然、土方も開陽丸の沈没は知っている。なにせ、江差攻略に奮戦していたなかでも目視できる距離だったのだから。  硝煙と返り血にまみれたまま、土方は奥歯を噛み締めて能登屋に入った。 「────」  榎本は、海を見て立っていた。  土方の気配なぞ一分も気づかぬほど目を凝らしている。  声をかける気も削がれて、土方もその場に立ちつくす。  後年、能登屋の女中は語っている。 「ただお茶を届けに行っただけなのに、あの部屋の空気ときたら──わけもなく身体が震えて止まらなかった」  と。  その後、榎本と土方は本陣を置く順正寺に向かう。道中ふたりの間に会話はほとんどなかった。  しかし途中、檜山奉行所前を通ったときにふと土方が顔をあげる。  海が見えたのである。  ──三分の一ほど顔を覗かせた開陽丸まで。 「…………」  奉行所の門前に立ち、ふたりは沈みゆく開陽丸を眺めた。 (ああ──)  土方の目から涙がこぼれた。  悔しくて悔しくて、土方は手のひらに爪が食い込むほど、拳を握りしめる。  目前にあった一本松に、何度もその拳を叩きつけた。  ──天も我らを見放すのか。    松前藩が降伏の意志を示したのは、それから三日後のことだった。  ※  帰ってこない。  全然、帰ってこない。  綾乃は洗濯板で隊士の服を洗いながら、沈んでいた。  土方が松前攻略に出て行ったきり五稜郭に帰ってこないので、寂しくてたまらないのである。 「やっぱり一緒について行くんだった──」 「なにバカなこと言ってるんだよ」  と、後ろから声をかけてきたのは遊撃隊所属の伊庭八郎だった。 「イバハチィ、寂しいよォ!」 「泣くな泣くな。戦場についてきてもらうより待ってて欲しいもんだよ、男は」 「うん……」 「しかし驚いたな、あのご執心だった綾乃さんがまさか落としちまうとはね」 「落とすって?」  と綾乃が問うと、伊庭はニヤニヤと笑った。 「土方さんを、に決まってんだろう。いったいどんな手を使ってあの女好きを手篭めにしたんだよ」 「言い方!」  綾乃の額が赤くなる。 「あんまりいじめるなよ、伊庭」  さらに後ろからやってきたのは、伝習歩兵一小隊を率いる人見勝太郎だった。伊庭とは旧知の仲で、伊庭の左腕を失くした戦でもともに戦っていた盟友であると聞く。 「綾乃嬢をいじめたら、土方総督からしっぺ返しを食うと聞いたぞ」 「まって」  綾乃はストップをかけた。 「なんで人見さんまで嬢呼びなの」 「新選組の連中が言ってたんだ。戦場に女がいるってことに不平を漏らしたどっかの兵士にさ」 「な、なんて」 「お嬢たちをバカにするな、と。火事で焼けても水に溺れても死なんだぞって」 「オホホホホ」  思わず笑って誤魔化してしまった。当然、旧幕府軍にだって未来から来たなどとは言っていない。  きっと島田あたりだろう、なんて思っていたら「蟻通さんが言ってたっけ」と伊庭も頷いた。 「えっ、蟻通勘吾!?」 「そうそう。大人しそうに見えるけど、はっきりとものを言う頼もしい男だったよ」  伊庭は笑った。  蟻通勘吾も、長く新選組に属する隊士だ。沖田と葵の恋模様にふたりで戸惑ったのも今となってはいい思い出。 「そうかぁ──蟻通さんがね」  新選組は土方の分身。  なるほど確かに、と綾乃は思う。  土方がいないときでも、新選組の誰かが話題にのぼるとそれだけで嬉しくなる。土方だけでなく、綾乃にとっても新選組は家族のように愛しい存在となっていた。 「安心しろ、綾乃嬢。聞いた話じゃあ土方総督も箱館に向けて帰ってくるそうだ」  人見は腕まくりをした。 「なんでも蝦夷地平定を祝して凱旋するんだと」 「凱旋……」  時は既に十二月。  そう、箱館府知事の清水谷公考が本州へ敗走したことで、旧幕府軍は蝦夷地全島を事実上支配下に置いたことになる。  蝦夷地平定──つまりは、箱館政府の誕生である。  十二月十五日。  人見が噂した凱旋は、大変華々しいものだった。  百一発の祝砲をあげ、夜の街は行灯で照らされ、幹部陣は馬に乗る。フランス教官団とラッパ隊が景気付けながら亀田まで行進した。  葵はバシャバシャとデジカメで写真を撮りながら、野次馬に混じって声援を送る。 「すごい活気だね。あれだけ戦続きだったのが嘘みたい」 「おいオヤジ、このハゲ! 土方さんが見えねっつんだよタコ!」  綾乃の罵声も、野次馬の喧騒にかき消される。  街はすっかりお祭り騒ぎで、一晩中明かりがちらついた。 「総ちゃんにも見て欲しかったなあ、こんなに綺麗なの」 「見てるよきっと。空のどっかで」  野次馬の親父と一戦交えてきたのか、ボロボロになった綾乃がけろりと言った。 「そうかな」 「でも沖田くんってどちらかというと花より団子派じゃない?」 「そうかも」  葵がわらう。 「それよりも手伝って、葵」 「何を?」 「今度国内初の入札人事があるんだって。みんなに、土方さんに投票してもらうようにお願いするの」 「入札人事?」  葵にはピンとこない。 「だからつまり、選挙だよ」  綾乃は力を込めて言い切った。
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