第五章 天の罰

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 ──。  ────。  それは、国内初の投票選挙であった。  士官以上の投票により、箱館政府閣僚を選出したのである。  結果が以下の通りだ。   幕府総裁、榎本武揚   幕府副総裁、松平太郎   箱館奉行、永井玄蕃   松前奉行、人見勝太郎   海軍奉行、荒井郁之助   江差奉行、松岡四郎次郎   陸軍奉行、大鳥圭介   開拓奉行、沢太郎左衛門   陸軍奉行並、土方歳三 「並ってなに」  案の定、綾乃は不服そうな顔をした。  土方はここしばらく五稜郭に腰を落ち着けている。 「さあ。わかるのは大鳥さんの下ってことだよ」 「おかしいでしょ。常敗将軍の下に勇将をつけるって」 「常敗将軍は言いすぎだ」  ククク、と土方は笑った。 「それだけじゃねえ、俺にはあとふたつ追加された」 「え?」 「陸海軍裁判役だろ、それに──箱館市中取締役」 「市中取締役って、それってつまり」 「ああ、ようやく新選組がまた俺の配下になった」 「きゃあ!」  綾乃は飛び上がった。  役職が決まれば、必然的に各人の役回りは決まってくる。蝦夷地平定からこっち、旧幕幹部陣は箱館政府として、国の運営を本格的に形にしようとしていた。  つまりは、資金調達である。  例をあげれば、祭りの露店や見世物に税を課したり、一本木に関門を設けてそこを通る住人からわずかでも徴収したり、お返しに米銭を支給したり──。  豪商から金を搾り取ろうと言い出した幹部もいたが、どうやら土方がかなり強く反対をしたために取り止めとなったとか。  新選組時代にやってきたことを反面教師にしたのだろうか──と綾乃は感心する。 「調練のやり方も変わりましたよね」 「お前ってよく見てるのな」  と、土方もまた、感心したように呟いた。  いうとおり、彼らは毎日のように降雪のなかフランス式調練に挑み、様々な技芸も習得した。 「でも、ちょっと役職が多くないですか。土方さんが過労死しちゃう」 「この程度で過労なら、もう京にいたときに死んでる」  さらりと言った。  綾乃はすかさず「カッコいい、好き」と呟く。 「ああ──そうだ。なあ」 「うん?」 「市中に休息所でも作ろうか」  唐突な申し出だった。  予想もしていなかった言葉に、綾乃はきょとんとする。 「なんで」 「俺がいねえ間、お前も徳田も五稜郭に詰めっぱなしだったそうじゃねえか。息が抜けるようなところがあった方がいいんじゃねえかと」 「そ、んなこと」  考えていてくれたなんて。  感激のあまり、綾乃は土方に抱きついた。 「嬉しい!」 「五稜郭からそう遠くない場所で、どうだ」 「でもいらない」 「なに?」  先ほどまで笑顔だったくせに、もう眉をしかめている。土方は困り顔をした。 「俺がいない間ってことは、土方さんが戦に出張ってる間ってことでしょ。それならわたしたちだって休息なんかしてる場合じゃない。何日だって、何ヶ月だって五稜郭に詰めて、土方さんの帰りを待ってますよ」 「────」 「なんのためにここまでついてきたと思ってんですか、そうでしょ」  と綾乃はにっこり笑う。  土方はしばらく黙っていたけれど、やがて口を開いて、 「お前って、いい女だなァ」  と嬉しそうに綾乃を抱きしめた。  ※  正月、二日。  男たちは、寒空の中の調練を終えてそれぞれ暖を取っている。まもなくしたら新選組は市中巡邏に向かうらしい。 「ねえ、島田さん。ついて行ってもいい?」 「えっ。お嬢たちがですか」  葵の申し出に、島田魁は眉を下げた。  市中取締りは仕事だ。もし途中で何かがあれば、彼女たちの命だって危ない。  そういうことは彼女たちもよく分かっており、いつもならばそんなことは言い出さないものだが──。 「大丈夫だよ。今日は三が日の中日だし、みんな休戦してるよ」 「しかし……急にどうしたの」 「だって──これまでずっと新選組のみんなと一緒だったのに、蝦夷に来てからほとんど顔も見られないんだもん。だから……」  葵のすねた顔に、島田はほとほと困り果てた。  昔からこのお嬢たちの機嫌を損ねた顔に、隊士たちは弱かった。 「あんまり島田を困らせるなよ、お嬢」 「あっ、権限者が来た!」  土方であった。  彼が市中取締役に任命されたと聞いたとき、新選組の面々はこれまでにないほど沸き立った。土方が自分たちを見てくれる──それだけで、彼らの士気は高まった。  今も、島田の瞳は一気に輝き、もはや土方しか映していない。 「というかなにゆえお嬢と呼ばれているんだ、おぬしら」 「今さらすぎる疑問ですね──私も聞きたいです」 「土方さん、よろしいですか。お嬢たちを連れて行っても」  島田が尋ねると、土方は一瞬思考を巡らせる。しかしまもなく顔を上げて「よし」とうなずいた。 「俺も行こう」 「えっ」 「なに、いつも新選組がどのような市中巡邏をしているのか監督するのも俺の役目らしい」 「まことですか!」  と、島田は大きな身体を揺らして小躍りする始末。  するとその声を聞いた途端に、どこからか市村と田村も沸いてきた。 「なんだよ、銀。お前は榎本さんの小姓だろ」 「勉強のためだ。鉄にとやかく言われる筋合いはない!」  小姓の鉄銀コンビ──綾乃と葵はそう呼んでいる──は、何かと土方にくっついて回りたがる。綾乃さえも嫉妬するほど、特に市村鉄之助は土方に可愛がられていた。 「分かったよ、ふたりとも一緒に来ればいいだろう」 「はい!」 「島田。市内取締、準備しておけよ」 「はい、皆にも申し伝えます!」  とは言ったが、気が付けば新選組隊士はすでに周りに集まっていた。  ふと土方が周囲を見回す。 「綾乃はどうした」 「ああ、綾乃はもう──」  準備して外で雪遊びしてます、と葵が言うと、土方は吹き出した。 「ならば早く行ってやろう。野郎ども、準備はいいか」 「おう!」  一行は土方を先頭に、ぞろぞろと列を成して歩き出す。  すると、大鳥がこちらへ歩いてきた。  集団を見るなりギョッとした顔で三度見している。 「ど、どうしたんだ。君たち……出動か?」 「市内取締です。出動とは」 「だって……先鋭部隊じゃないか。すぐにでも戦が出来る」 「そりゃあ、新選組ですからな」  土方は少し顎を上げて言う。  その言葉に、新選組隊士はまた沸き立った。  温和で、母のように慕われていた──と、後年に中島登が伝えている。  土方歳三は、変わった。 「土方さんは早く死にたいんだと思う」  いつの日か、綾乃が葵にそうこぼしたことがある。  そのときはお互いにまさかね、なんて笑っていたのだが。  わざわざ寒空の街中へ、共に巡邏へと赴いた彼を見ていると、あながちその考えも間違っていないのかもしれない。  途中、巡邏隊は昼食休憩のため大所帯でうどん屋に立ち寄った。  うどんを食べながらも土方は常に微笑んで、隊士の近況を聞く。その様は、さながら学校から帰ってきた子どもの話を熱心に聞く母親のようだった。 「ごちそうさま。わたしちょっと外で雪だるま作ってくる」 「えっもう食べ終わったの」 「葵はゆっくり食べてていいよ。みんなもまだ食べてるから」 「うん」  暖簾をくぐり、外に出る。  道の脇に積もった雪に触ると、積もりたてだったのだろう。ホロリと崩れた。 「…………」  妙にさびしくなってしまった。  文久三年の五月に、ここへ来た。  そこから幾年が過ぎて──今やもう明治年間に入ってしまった。 「やっぱり寸の間だ。……バーカ」 「何がバカだって」  いつの間にか、後ろに土方が立っている。  少し眉を下げて微笑む彼を見ていると、胸がつぶれるほど恋しくなった。  情けない顔の綾乃に、土方は苦笑する。 「なんだよ、情けない顔をして」 「…………」 「手が冷たくなっちまうだろう、──」  土方はそう言って、変に口をつぐんだ。  一瞬だけ表情がこわばる。  どうしたのだろう、と綾乃が「土方さん」と声をかけると、彼はハッとして微笑した。 「いや──そろそろ巡邏に出るぞ。準備しろ」 「はい」  すると土方にしては非常に珍しく、往来のなかで手を握ってきた。 「どうしたの」 「手が、冷てえだろうと思ってな」  と言うやすぐに離して、土方はふたたび店の中へと戻っていく。  握られたところだけが妙に熱い。綾乃はぽろりと一粒、涙をこぼした。  ※  明治二年、二月某日。  箱館の冬は厳しい。  分かりきっていることだが、それでも体感すればそんな思いでいっぱいになってしまう。 「寒いなァ……」 「こうも寒いと、寝るに寝られないですね」 「ああ。──足に響きやがる」  土方は顔をしかめて右足をさする。 「痛い?」 「いや」  宇都宮城攻防戦にて負傷した土方の右足は、治癒したとはいえ、やはり前のようにいかないことも事実だった。  小姓の市村鉄之助は気にする様子だが、土方がそれを許さない。  心配をかけまいとしているのか、足を看てもらうのを嫌がるのだ。しかしそれも「老人扱いをするな」と不機嫌に言ってからは、市村のアプローチもあまりない。 「つってもさ。昨日写真撮ったとき、痛そうにしてたじゃんねえ」  葵はけろりと言った。  写真とは──平成の世に残る土方歳三の写真のことである。  気だるげに椅子に腰かけた全身写真と、上半身を写したものの二枚を撮った。  もともと写真は好まない。  だからこれまでも撮ってこなかったのだが、箱館政府幹部陣が「撮りに行こう」と声を上げると二つ返事で乗ったのである。 「どうです、案外写真も悪くないでしょう」 「まあな」 「副長時代も撮れば良かったのに」  と綾乃が言ったとき、廊下の外で市村の声がする。  土方を呼びに来たようだ。 「そんな余裕はなかったよ」  土方は笑って、部屋を出て行った。 「…………」 「なんかさ、すごいよね」  不意に綾乃が言った。 「あの写真が百五十年も未来まで残っていて、土方歳三って人がいたことをずっと残し続けているなんて」 「そうだねえ。あの写真がなかったらこんな熱狂的な信者だって生まれなかったんじゃないかと思うと、ね」 「熱狂的で悪かったわね」  と、むくれる綾乃を見て葵はクスクス笑った。 「もう二月だよ」 「……だね」 「早いね」 「うん」 「八木邸の前でさ、芹沢さんに拾われて──気がつけば明治だって。まさか箱館まで来るなんて考えもしなかった」  綾乃が、葵のデジカメをいじる。中にある数々の写真や動画を見ては、クスッと笑みをこぼした。  しかし同時に、涙腺がゆるんで涙もこぼれる。 「ああ──ダメだ」 「綾乃……」 「もうね、だめ。ダメだよ。……未来なんか、知らなきゃ良かった」 「…………」 「もう、やだ」  綾乃は涙をぬぐう。  彼女の頭の中にある年表が、刻一刻と胸をえぐる歴史に迫っていく。  どれほど息が詰まることか。  葵はあやすように綾乃を抱きしめた。  ──。  ────。  翌月のことだった。  これは、綾乃と葵が後から聞いた話である。  新政府軍は八艦による箱館追討軍を編制。  三月九日に江戸を発ち、途中の悪天候もあって十六日から二十二日にかけて宮古湾に集結した。  あらかじめアメリカ領事から密告を受けていた旧幕府軍は、策を立てていた。  回天艦長で海軍頭である甲賀源吾が発案した『アボルダージュ』である。  アボルダージュとはいわゆる斬り込みのこと。  まず二艦で両側から近付き、兵士が乗り移る。速力のある回天は他の敵艦を牽制し、制した後はそのまま箱館へ奪い去るというもの。  三月二十日、夜半。  回天、蟠竜、高雄の三艦に荒井、甲賀、土方や野村、相馬ら数名の新選組、彰義隊と遊撃隊のほか、神木隊や幾人かのフランス人教官が乗り込み、箱館を出発した。 「……敵の様子がわからない!」 「ここからじゃ無理か、どうする」 「嵐だ、危ないッ」  船の上では、様々な声が飛び交った。  嵐によって蟠龍とはぐれ、しばらくして高雄も機関故障により進まず。  三月二十五日早朝、回天一艦のみで宮古湾に進入した。  敵艦の左舷中央部に船首部から近付き、真っ先に一等測量の大塚波次郎、続いて野村が果敢に敵艦へ飛び移る。  続いて土方が飛び移る体勢に入ったときである。  ──敵艦甲鉄のガトリング砲が、火を噴いた。  船内中を撃ち抜いたそれは、敵だけでなく味方も打ち払うほどであり、旧幕軍は大塚、野村、甲賀などかなりの人数が撃たれる。  目の前で起こった暴挙に、弾を避けるため屈んでいた土方が耐えきれず立ち上がった。それでもなお、彼は乗り込もうとしていたのだ。  教官ニコールが必死に引きずりおろす。もはや勝機がないことは、誰の目からも明らかだった。  それでも土方は、何度も何度も船べりに足をかけた。  たとえ一矢報いらざれども、せめて撃たれた仲間を引き取ってやりたかったのである。  ──結局、三十分で回天は退却。  自力で引き揚げていた蟠龍とともに宮古湾を脱出。  最後の一隻である高雄は新政府軍に囲まれ、乗組員は捕えられた。 「…………」  土方は、回天の中に座り込み、しばらく放心していたという。  たったの一隻で、八隻もの敵艦を相手にしたという事実は、敵味方両方に大きな衝撃を与えた。が──、 「…………くそ」  そんなこと、土方にとってはどうでもよいことだ。  もう勝ちにいくのではない。 「クソォ──」  土方は、早く楽になりたかった。
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