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東山温泉で湯治をしている間、
「綾乃と呼んで」
と彼にお願いをした。
はじめの頃は照れて渋っていたけれど、間違えるたび赤ペン先生のように指摘していたら、いつの間にか定着していた。
──綾乃。
彼の唇がそうこぼすとき、わたしはいつも集中してしまう。嬉しいからだ。
だから、近ごろ彼のようすがおかしいことにも気付いてしまった。
「おい、────」
と、口ごもることのなんと多いことか。
そのたびに青い顔をする彼に、わたしはいつも「土方さん」と声をかける。
すると彼はいつもホッとした顔で「綾乃」とつぶやくのだ。
分かってしまった。
その名をこぼす回数のなんと多いことか。
そのたびに子犬のような瞳をする彼に、わたしはいつも「はい」と返事をする。
すると彼は満足して目をこするのだ。
(つらい────)
とうとう来たんだろう。
わたしたちの存在が、彼のなかからも消えるときが。
「土方さんは、まだ知らないの」
葵は沈んだ顔でつぶやいた。
わたしが相談した。
大切な人から忘れられる恐怖は、彼女の方が体験している。葵がかつてわたしに電話をかけてきたときの心情が、いまならばわかる。
よく耐えたな──とわたしは彼女に感服した。
「まだ言えてない」
「…………」
「でも、もう時間がないから──言わなくちゃね」
「だけど土方さんは別に病気ってわけじゃないのに。どうしてもう発症してるんだろう」
そう。
これまでは、重篤な病や怪我によって命の灯火が消えかかるとき、発症するものだと思っていた。
けれど土方はまだ元気である。
それなのに──どうして。
「こんなのって、ないよね」
「え?」
わたしの呟きに、葵は眉を下げる。
「前に葵が電話で言ったでしょう。あのときはしょうがねーよとかおもってたけど」
「…………」
「本当に、こんなのってないよねえ」
笑った。
もう笑うしかできなかった。
これが、歴史に介入した代償とでもいうのだろうか。こんな、こんなことなら──。
「後悔してるの」
わたしの肩に手を置いた葵が、言った。
それもどこかで聞いた言葉である。
「みんなと会ったこと、後悔してる?」
「…………」
してないよね、と葵は微笑んだ。
「綾乃に言われてあのとき思ったの。悲しいけど後悔なんてしてない、するわけないって。だから、本当ならあり得ない出会いに感謝してさ、残りの時間を大切にしよう──って」
自分にむりやり言い聞かせた。
と、葵がうつむく。
「ありがとね、葵。いつもいつも」
「なによ、めずらしい」
「ひとりだったら乗り越えられない、こんなの」
本心だった。
胸が痛くて目が閉じる。
「私も、そうだよ」
葵の声が震える。わたしたちはお互いに肩を組み合った。
わたしは、決意した。
「土方さん、少しいいですか」
めずらしく早めに城下の宿舎に戻ったと聞いて、わたしは彼の部屋を訪ねた。
土方が松前攻略後に五稜郭へと戻ってからは、葵とふたりでこの土方の宿舎に身を寄せている。
「おお。──綾乃」
「…………」
彼は文机に向かっていた身体をこちらに向けた。少し離れたところに正座をしようとしたけれど、土方が右腕を伸ばしてくる。
最近、このしぐさが彼なりの甘え方であることを知った。
恥ずかしいが、おとなしく近寄って彼の手に触れる。すると彼はいつものようにすっぽりと抱き込んでくれた。
出会った当初、文久のころとは真反対な彼の様子には、いまだもって慣れない。
「どうした」
「話しにくいです」
「つれねえことを言いやがる」
「ちょっと真面目な話なんですったら」
彼の胸になだれかかった身を起こした。けれど、これから話すことを思うと心細くて、彼の手を離す勇気もなかった。
「土方さん、最近わたしや葵の名前を──忘れることってありませんか」
「…………」
「目がかすんで、わたしたちが見えにくくなるとか、なんかそういうの。ありませんか」
思ったよりも冷静に言うことができた。
対する彼からはわずかな動揺が見てとれる。
やはり、図星のようだった。
「なにゆえそれを──」
「やっぱり」
期待したわけではない。
ないよ、という言葉が出てこないことくらい、わかっていた。
しかし本人の口から聞くとやはりツラいものがある。
「目はかすむし、声も遠い。近ごろ名前をよく呼ぶのも──確認のためだった。お前たちが」
いなくなってやしないかと。
と、土方はそう言った。
「お前はもう──そばに、姿が見えねえと落ち着かんだろうが」
照れたように頭をかいて首をかしげる。
「これはなんだろう」
「…………」
──こんなのって、ないよね。
葵の言葉が甦る。
「土方さん、それ──それね」
言葉にしようとすると、息が詰まった。
言ってしまえばそれが真実になってしまう気がして。
「しょうがないんですって」
「え?」
「────」
そのあとの言葉が、喉を通ることを拒んでいる。それが苦しくて目からぽろりと涙がこぼれた。
彼がハッとする。
わたしの涙で、とてつもなく大変なことが起こっていると気が付いたようだった。
「これまでもそうでした。山崎さんも沖田くんも、そうだったって」
「…………」
「わたしたちの存在が、いつかここのみんなから、土方さんから、消えていくんだって」
だからしょうがないみたい、と。
そこまで言うとわたしは泣いた。
泣きたくなかったけれど、もうどうしようもなかった。
────。
「…………」
土方は絶句する。
近ごろ、そんな違和感が出るたびにえもいわれぬ焦燥感はあった。けれどまさか、そんな──。
お前なんざ、忘れたくても忘れられるか。
東山温泉にて言った自分の言葉を思い出す。
そうだ。忘れない。
忘れるわけがない。
でもあのとき、あのときから──綾乃はその恐怖を抱えていたのだ、と土方は悟った。
「…………」
おもわず頭を抱える。
しかし綾乃は意外にも冷静な声で説いた。
「いいんです、忘れても。嫌だけどいい」
「嫌だ。俺は、──イヤだ」
「いいんです、わたしは覚えてるから!」
「…………」
「ちゃんと覚えているから」
苦し紛れの繕いだった。
「また初めから……土方さんに好きって伝えて、ずっと、ずっと、嫌がられてもずっとそばにいるから」
「────」
土方は恐怖した。
これまで、仲間が死ぬときだって悲しみや怒りが大きくて、恐怖なんていうものはほとんどなかった。
これから先、どんなことがあっても、きっとなんとかなると思っていた。
自分の人生の先に、目の前の女がいないことなど考えてはいなかったから。
「いやだよ、俺ァ────」
そばにいると、言ったじゃないか。
土方はそんな想いを込めて、彼女を抱き寄せる。再び泣き出す彼女の肩は、思ったよりもずっとずっと儚くて、壊れてしまいそうなほど細かった。
「お前がいなきゃ、退屈で死んじまうよ──こんな雪国」
綾乃の胸はふるえた。
そんな言葉をまさか彼の口からもらえるなんて。
切なくて、嬉しくて、悲しくて。
もう、いまこのときをもって命が尽きればいいのに。
──なんて、そう願いたくなるほどに。
「……分かった」
しばらくの抱擁ののち。
不意に土方が呟いた。
綾乃は涙で潤む瞳を向ける。
「わかったよ。もう分かった」
「…………?」
「仕様がねえ」
土方の瞳から、恐怖は消えていた。
その瞳の強さに綾乃は思わず息を呑む。
彼は笑んだ。
「未来で待ってろ」
ここでお前と一緒にいられないのなら、今度は俺が未来に行く。
と。
土方は深く綾乃に口付けた。
身に刻むかのように、深く、深く。
※
四月六日。
新政府軍の蝦夷進攻がまもなくだという情報が英国商船からもたらされ、市民の避難所が設けられた。
市中取締の新選組に、厳重警戒が命じられる。
土方軍は台場山と天狗岳に陣地をもうけて待ちうけた。
数日後。
江差から進軍した新政府軍は、台場山に対して攻撃を開始。
熾烈な銃撃戦が繰り広げられる。
土方軍は二百余名、新政府軍はおよそ六百名という兵力差があるなか、土方軍は二小隊ずつが交替して休憩を挟みつつ小銃を撃ち続けたという。聞くところによれば、土方軍はひとりとて怠ける者なく、顔は火薬の粉で真っ黒になっていたとか。
およそ十六時間に及ぶ土方軍の抵抗の末、銃弾を撃ち尽きた新政府軍はやむを得ずに後退。それからさらに二週間にも及ぶ攻防戦は、一定して土方軍の勝利に終わった。
土方は終始冷静だった。
兵士の士気が落ちぬように戦の合間に酒を一杯だけ配ったり、陣内をめぐっては声をかけたり。
しまいには、二十九日に味方の防壁が崩されるとすぐに撤退を決め、その場に地雷火を埋めるという手際を見せた。
おかげで混乱もなく、一行は五稜郭へと帰陣する。
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