第五章 天の罰

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「市村はどっか総司に似ていた」  以前から、市村鉄之助と話をするたびに土方はそう言った。憎めなくてかわいい存在だったのだろう、と思う。  四月末。  五稜郭に戻った土方軍のなかに、市村鉄之助の姿はなかった。 「市村には遣いを頼んだよ」  土方はただ一言、綾乃にそう告げた。 「…………」  それ以上は彼が何も言わなかったので、ここから先は歴史として聞きかじった話である。  ──二股口の攻防戦の合間、土方は市村に箱館からの脱出を命じる。  その理由は、日野の佐藤家へ自分の形見を届け、これまでの戦の様子を伝えてほしいというものだった。  土方と最期まで共に在り、と覚悟していた市村は当然「ほかの者に命じてください」と断った。  が、「断るとあらばいま討ち果たす」と土方より諭されたのだという(というよりは思いやりのある脅しだ)。  市村が受け取ったものは、金子五十両、質に入れるための刀をふた振りと質屋への書状。さらには『遣いの者の身上を頼む』と記した佐藤家への手紙、自身の写真と髪、そして辞世の句。 「佐藤兄には、何一つ恥ずべきことはないゆえご安心を、と伝えてくれ」  と市村に全てを託したのだという。  後年、確かに佐藤家へと諸々の品を手渡した市村は、 「箱館を脱する際、窓に人影が見えました。おそらく先生であったろうと思います」  という言葉を残している。 「──そうですか」  綾乃は、市村不在の理由を言われたときに、もはやそれしか言葉は出なかった。  そこでいったいどのような会話があったのか。  そんなものは聞くだけ野暮だ。  彼がこの世と決別する覚悟を、旧友の面影を持つ部下に託した。  ただその事実があれば、それでいいと思った。  ※  明治二年五月上旬。  旧幕府軍諸隊は多くが敗退し、もはや勢力が残るは五稜郭および箱館市内周辺のみとなっていた。海軍側も、回天と蟠龍が目覚ましい活躍を見せたものの、もはや二隻で堪えられるほどの状況ではなく。  両艦弾薬は打ち尽くし、機関も破壊されたような状態となっていた。  これを受けて、敗戦色が濃厚と悟ったフランス人教官ブリュネ等は、自国船にて箱館を脱出。横浜へと向かう。  ──一説には、この船に市村鉄之助が乗り込んでいたのではないかとも言われている。が、それも確かめようがない。──  五月一日。  弁天台場に宿陣していた新選組は、土方の指示により有川へと出陣する。  ここ有川にはすでに新政府の東下軍、南下軍が集結し、最後の大戦を仕掛けようとしていた。  大鳥の指揮の元、新選組、彰義隊、遊撃隊は七重浜にて連日の夜襲を行うも、それらはいずれも大したダメージには遠く及ばず。もはや打つ手なしであった。  少し戻った四月二十日、五稜郭に凶報が入る。  二股口の攻防戦にて新選組とともに出動した遊撃隊の伊庭が、胸に被弾したのだ。  弾を取り出すことも適わず、ただ死を待つのみになった伊庭だが、それでも味方の活躍を聞くたびに、苦しそうな顔を綻ばせて喜んだ。  土方が別件で箱館病院に用がある、というので、綾乃と葵も伊庭を見舞おうとともに病院へやってきた。  どうやら土方は急務のようで、箱館病院事務長である小野権之丞に会いに行ってくる、というやそそくさとその場を立ち去った。  残されたふたりは、病院のなかに伊庭を探す。  やがてベッドに横たわる伊庭を見つけるや、葵が手をあげた。 「イバハチ!」 「…………?」  名を呼ばれて、伊庭が首を動かす。  しかし自分に声をかけた女たちを見ると、彼はきょとんとした顔をした。  知らない顔だ──とでも言いたげである。 (あっ)  葵は手を下げた。  伊庭も発症しているのだ、と思った。 「えっと──」 「あ、なあんだ。綾乃さんと葵さんか」  来てくれたのかィ、と一拍おいて、伊庭は笑った。 「うん」  乱れた布団を直しながら、綾乃はホッと息をつく。  まったく、わかっていても心臓に悪い。 「土方さんと一緒に来たんだけど、ちょっと忙しいみたい。あとで来ると思うよ」 「うん……」  珍しく、伊庭が暗かった。  怪我がひどいために消沈しているものと思ったが、どうやら違うらしい。  葵が顔を覗き込む。 「どうしたの」 「いいや。まったく、使い物にならねえ自分が……悔しくてさあ」 「イバハチ──」 「もう後もねえんだってな。人見に聞いた。でもさあ、おいらたち」  ここまでよく、やったよなあ。  そう呟いて口を閉じた。  彼の瞳は、じっと虚ろに天井を見つめている。 「本当にね。勝てば官軍、なんて」  綾乃は声を震わせた。 「冗談じゃないったら……ねえ」  翌日の五月十日。  旧幕府軍は、十一日未明に新政府軍が箱館総攻撃を決行する、という情報を得た。もはや、新政府軍総攻撃に抵抗できるほどの弾薬も兵糧も、尽き果てようとしている。  それでも榎本武揚は『降伏』を唱えようとは決してしなかった。  だからといって、命が永らえるとも思っていない。  榎本はその夜、全滅を覚悟した別れの宴を築島の武蔵野楼にておこなった。  各々が肩をたたき合い、これまでの武勇を労って、明日に散るであろう命に夜通し盃を傾けた。 「────」  その宴に参加していた土方が、日付が変わりそうな頃合いにこそりと抜け出て五稜郭に戻ってきた。  もうまもなく、五月十一日がやってくる。  綾乃と葵は、変に目が冴えて眠ることもままならず、ポツンと前庭を眺めて座っていた。土方がその姿を見つけるや足早に近寄ってくる。  「ようお前ら、まだ起きてたのか」  と、ふたりの肩を後ろから組んだ。 「おかえりなさい、土方さん」 「宴会は終わったんですか?」 「いや、抜けてきた」  土方はそれきり沈黙した。  綾乃も黙って前庭に視線を投じる。  その沈黙が息苦しくなったのか、葵は「渡したいものがあるんだった」と言うなり、廊下の奥へと駆けていった。  いや、もしかしたら、気を利かせたのかもしれない。  綾乃はようやく口を開く。 「御武運を」 「ああ」 「やっぱりいいです」 「うん?」 「土方さんが未来で待っていてください」 「なんで」 「だって土方さんは忘れちゃうもの。わたしは、覚えてるから。わたしが探した方が早いでしょ」  けろりと言った綾乃に、土方は吹き出した。 「信用ねえなあ」 「…………」  一瞬、沈黙が漂う。  綾乃は土方の肩に頭をのせた。 「土方さんが子どものころ、おうちに矢竹を植えたでしょう」 「よく知ってるな」 「あれね、未来ではもりもり生えているんですよ」 「そうか」 「日野にいったら、土方歳三だらけなの。すごいんだから」 「本当かよ」 「ほんとほんと。──京だって、函館だって、……土方さんがいっぱいいるの。だから全然寂しくないよ」 「…………」  土方は、動揺したように手を震わせた。  綾乃は笑っている。 「大丈夫ですから。安心して、堂々と戦ってきてね。それで──近藤さんの、みんなの雪辱を、果たしてね」  時計が零時を指す。 「わたしはずっと土方さんを想っていますから、ね」 「────」  もう、今生で会うことはないかもしれない。いや、きっとない。  土方はつよく、つよく抱きしめた。  影に隠れて立っていた葵は、懐に忍ばせていた巾着袋を握り締めて、膝を折る。  そのまま静かに泣いた。  ──。  ────。  未明。  出陣する間際、土方は奉行所の一室に立ち寄った。  綾乃と葵がならんで眠っている。  あれからまもなく、ふたりとも糸が切れたかのように眠りに落ちてしまったため、土方がここまで運んでやったのだ。 「────」  見送りはない方がいい。  変に湿っぽくなるのはごめんだった。  ふと、葵の手に握られた巾着袋を見つけた。 「もらっておこう」  そっと取り上げる。  葵の髪の毛をくしゃりと撫で、綾乃の頬に手を滑らせた。 「いってくる」  土方歳三は一度も振り返ることなく、五稜郭を出陣した。  ※  一本木関門。  馬の駆ける足音が迫ってきた。  土方歳三である。  右に、左に斬り払いながら、目の前に作られた壁すらも馬とともに飛び越える。  向かう先は、異国橋の先──弁天台場。  敵におびえて逃げ戻る味方に刀を突きつけ、叫んだ。 「われこの柵にありて、退くものは斬るッ」  と。  しかし異国橋付近は新政府軍が固めており、突破が容易でないことは一目でわかった。  それでも、土方は敵前にして、落ち着いていた。  その雄々しい馬上の姿に、官軍は気圧されて一斉に銃口を向ける。 「──いざ」  呟いて、馬腹を蹴り、走り出す。  官軍の銃口が火を吹いた。  ──。  ────。  綾乃は、気付けば戦場に立っていた。  しかし弾や刀は自分を通り抜ける。  どうやらこれは夢らしい。  目の前に、黒い洋装の骸が転がっている。  場所は、異国橋にほど近い場所であった。  周囲からこの骸の名を呼ぶ、悲痛な叫びが聞こえる。 「土方さんッ」  兵士のひとりが駆けてきた。  すぐさま骸を抱き起こし、新政府軍の目から隠さんと持ち上げる。 「…………」  綾乃は、それをじっと見つめていた。  なにを言うでもなくずっと眺めていた。    明治二年、五月十一日。  土方歳三、戦死。  目が覚めると、葵が泣きそうな顔で綾乃を抱きしめている。 「…………」  ここには、見覚えがある。  ふたりが初めてあの世界へと迷い込んだ、旧新選組屯所八木邸の前だった。
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