プロローグ

1/1
前へ
/89ページ
次へ

プロローグ

「まさか、女をころしにいくとは言えないだろう──」  三橋綾乃(みつはしあやの)はつぶやいた。  司馬遼太郎著『燃えよ剣』の一節である。  京都市バスの最後列。長い脚を組み、腕組みをして目をつぶったまま囁かれた、のぼせた声色に、友人の徳田葵(とくだあおい)がうんざりした顔で彼女を見た。てっきり寝ているものと思ったが、どうやら白昼夢に浸っていただけらしい。  いま、と綾乃は目を閉じたまま口角をあげる。 「ちょっと夢見てた」 「アンタはいつでも夢見がちじゃない」 「ひでーこと言うわね」 「どんな夢」 「──彼と、京都の町をお散歩デートする夢」  ようやく綾乃はゆっくり瞼を持ち上げる。キラキラと艶やかな猫目を輝かせ、それはそれはうれしそうにわらう。 「いま夢見坂を歩いて八坂の塔を見てたとこ」 「夢でしょ。現実のアンタはずっとここでぐったりうつむいてたよ」 「夢のないこと言わない」 「あのねえ」  いい加減、と葵はため息をついた。 「歴史の人じゃなくて、現実を見なよ」 「現実に以上のいい男がいるなら見るわよ」  会ったこともないくせに、よく言う──。  などと意地の悪いことは言わないけれど、葵にはいまいちその感覚が分からない。  歴史上の人物に本気で恋をする、なんて。 『つぎは、壬生寺道──』  バスのアナウンスがつぎの停留所を告げた。綾乃の長い指が、降車ボタンに伸びる。 「なるほど、この男の恋は猫に似ている」  紡がれる同書の名節。  葵には、分からない。 「言うほどいい男だったのかね──その」  新選組副長さんは、と車窓へ目を向けた。  江戸時代末期。  京の治安を守るために結成された、屈強な男たちの武装集団──新選組。  組織としてのドラマティックな成り立ちや、組織構成員ひとりひとりの個性的な人物像から、平和な時代を迎えた日本では、多くの人々が魅了された。  彼らがかつて過ごした場所や今なお眠る墓所には、聖地巡礼と称して、絶えず多くのファンが訪れる。  この物語は、そのうちのふたりが見た、奇妙な夢物語である。
/89ページ

最初のコメントを投稿しよう!

50人が本棚に入れています
本棚に追加