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プロローグ
「まさか、女をころしにいくとは言えないだろう──」
三橋綾乃はつぶやいた。
司馬遼太郎著『燃えよ剣』の一節である。
京都市バスの最後列。長い脚を組み、腕組みをして目をつぶったまま囁かれた、のぼせた声色に、友人の徳田葵がうんざりした顔で彼女を見た。てっきり寝ているものと思ったが、どうやら白昼夢に浸っていただけらしい。
いま、と綾乃は目を閉じたまま口角をあげる。
「ちょっと夢見てた」
「アンタはいつでも夢見がちじゃない」
「ひでーこと言うわね」
「どんな夢」
「──彼と、京都の町をお散歩デートする夢」
ようやく綾乃はゆっくり瞼を持ち上げる。キラキラと艶やかな猫目を輝かせ、それはそれはうれしそうにわらう。
「いま夢見坂を歩いて八坂の塔を見てたとこ」
「夢でしょ。現実のアンタはずっとここでぐったりうつむいてたよ」
「夢のないこと言わない」
「あのねえ」
いい加減、と葵はため息をついた。
「歴史の人じゃなくて、現実を見なよ」
「現実にアレ以上のいい男がいるなら見るわよ」
会ったこともないくせに、よく言う──。
などと意地の悪いことは言わないけれど、葵にはいまいちその感覚が分からない。
歴史上の人物に本気で恋をする、なんて。
『つぎは、壬生寺道──』
バスのアナウンスがつぎの停留所を告げた。綾乃の長い指が、降車ボタンに伸びる。
「なるほど、この男の恋は猫に似ている」
紡がれる同書の名節。
葵には、分からない。
「言うほどいい男だったのかね──その」
新選組副長さんは、と車窓へ目を向けた。
江戸時代末期。
京の治安を守るために結成された、屈強な男たちの武装集団──新選組。
組織としてのドラマティックな成り立ちや、組織構成員ひとりひとりの個性的な人物像から、平和な時代を迎えた日本では、多くの人々が魅了された。
彼らがかつて過ごした場所や今なお眠る墓所には、聖地巡礼と称して、絶えず多くのファンが訪れる。
この物語は、そのうちのふたりが見た、奇妙な夢物語である。
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