閑話 決死の戦い

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閑話 決死の戦い

「あの、……押し倒しても、いいですか?」 「…………は?」 決意にぐっと拳を握りしめ、真剣な眼差しでじりじりと距離を詰めてくる飛鳥に、背中を嫌な汗がつたう。 「だから、その……押し倒させて下さい!」 頭が追いつかず思わずぽかんとしてしまった俺の顔を見て聞こえていなかったと判断した飛鳥は、先程より声をはりあげ、お願いしますと思いっきり頭を下げてきた。 あ、ヤバい。やられる。 消灯前の点呼も終わり、明日に備えて今日は大人しく寝るかと電子ピアノの電源を落とした時刻。 控えめに扉をノックして俺の部屋を訪れた飛鳥の口から飛び出したのは、なんとも予想外すぎる言葉で。俺はしばらくその場に固まってしまった。 「えーっと、相手の背後から、片手で相手の手首を掴み、もう片方の手で相手の肩を抑えます。」 「こ、こう?」 「あー、そんな感じか?」 俺がスマホに表示された文章を読みあげれば、飛鳥はその通りに俺の腕を取り後ろ手に捻りあげる。 もちろん、ほとんどと言っていいほど力は入っていなかったが。 「で、それでも抵抗されるようなら足を払いその場に押し倒して拘束します、と。」 「し、しつれいしますっ。」 「うぉっ、」 とすっ、と左足元に衝撃を感じたと思った時には、俺の身体はバランスを崩し、予め床に敷いていた布団に倒れ込んだ。 片手を拘束されていた為まともに受け身を取れず真っ直ぐ倒れ込んだ背中に、ずしりと体重をかけられる。 緊張気味に震える飛鳥の吐息が耳元で聞こえた。 「ど、どう?」 ……まぁ、たまには押し倒される側ってのも、これはこれで。 とはもちろん俺の心の中だけで呟いて、今ので大丈夫なんじゃないかと伝えれば、ほっと安堵のため息が俺の首筋にかかり、背筋にぞくりと痺れが走る。 よぎった邪な考えを頭を振って追い出して、これはあくまで護身のための練習だと俺は再度自分自身にいいきかせた。 護身術の練習相手になってほしいと飛鳥に頼まれ付き合う事、数十分。真剣な顔で押し倒させろなんて言われた時には、飛鳥も男なんだからと俺は覚悟を決めたわけだが、とうの飛鳥は全く別の覚悟を持って俺にスマホの画面を差し出してきたわけだ。 少し前に消灯時間を過ぎてしまっていたが、俺も飛鳥もやめようとは言い出さなかった。 無駄な事かもしれない。そうであってほしい。 だけど、万が一はあるかもしれないから。 俺を傷つけないようにと早々に身体を離し、別のパターンをとスマホで検索し始めた飛鳥を、俺は同じようにベッドに腰掛けぼんやりと眺めていた。 その横顔を見ながら脳裏に幼い頃の記憶がよぎる。 正直な話、全く想像がつかないでいた。 (あきら)の母親、春菜(はるな)さんはいつだって穏やかに笑っている人だった。 晃の家に顔を出した時には必ずと言っていいほど手作りの菓子を出してくれて、晃ちゃんをよろしくねと口癖のように言っていたのに。 色々と常識外れな俺の家と比べて、これが普通の家庭なんだなと憧れに近い感情を抱いた事もあるくらいだ。 大事にされてるよなと、思っていたのに。 畔倉(あぜくら)アイスアリーナでの光景が頭を掠めて、俺は知らず拳を握りしめていた。 「……飛鳥、お前練習の時にグラブ付けてる事あるよな?」 「へ?うん。衣装としてつける時もあるし、ジャンプの練習とか転倒の可能性が高い時には使ってるけど。」 「二組あるなら明日貸してくれ。素手よりはいいだろ。」 全く想像はつかない。だけど、晃の身に起こったことは事実なんだ。 万が一は起こりうる。だったら俺は守るだけだ。約束通り晃も、木崎も。そして、飛鳥も。 「わかった。あ、でも(しき)は何もしなくていいからね。指に怪我したら大変…」 「それを言うなら、お前だって身体が資本だろうが。」 咎めるように見つめられ、その瞳の中に同じような顔をした自らの姿を目にした瞬間、俺達はほとんど同時にふっ、と口元を緩めていた。 「何事もなければいいね。」 「だな。……もし何かあっても、守ってやろうぜ。」 俺にやれる事はやってやりたい。 俺は目の前て開いた手を、ぎゅっと握りしめた。 その手にそっと飛鳥の白い手が重ねられる。 俺達は顔を見合せ、互いに頷いた。 「じゃあ、次は前からのパターンを練習してもいい?」 「いいけど…」 真剣な瞳にやる気の炎を灯し、再び俺にスマホの画面を差し出してきた飛鳥。 こいつは本当にどこまでも純粋で真っ直ぐだ。友人の為にと無駄になるかもしれない事をこれだけ必死にやっているんだ。俺もできる限りそれに応えてやるつもりではあるんだけど。 差し出された画面を目にして、俺は飛鳥に気づかれないようため息を吐いた。 「腕を引き寄せてバランスを崩してから……全身で押し倒す、と。」 「よろしくお願いしますっ。」 頑張ろうねと腕を引かれその場に立ち上がった俺に、飛鳥は身体を寄せてくる。 「えっと、腕を引いて身体を引き寄せてから…」 ふわりと石鹸のいい香りが鼻をくすぐった。 「……どうせならベッドでやりてぇ。」 「あ、やっぱりお布団だけじゃ痛かった?そうだよね、やっぱりベッドでしよっか。」 なるべく優しくするからね、なんてど天然な発言をかましながら、容赦なく足を払われ俺の身体は再びバランスを崩しベッドに沈みこんだ。 緊張からか上気した頬。 少し乱れた息遣い。 俺を見下ろす飛鳥の髪が、かけていた耳からさらりとこぼれ落ちて俺の頬をくすぐる。 「……やっぱり押し倒してぇ。」 「いいよ。次交代だね。」 馬乗りのまま笑顔で言われて、俺はぐっと奥歯を噛み締めた。 無心だ、無心。 これは護身のための練習。ただの練習だ。 「僕の身体、色の好きなように使ってくれていいからね。」 ……ただの、練習、だ。 むくむくと頭をもたげようとする思考と下半身を必死に押さえ込み、俺は結局夜中までど天然なアスリート様に押し倒されながら理性の二文字と戦い続けた。
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