運命の一日

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「元気にしてた?身長、少し伸びたんじゃない?」 「そう、かもね。」 黒目がちの大きな瞳が細められ、穏やかな笑みが僕を見つめる。 一瞬脳裏をよぎった過去の事に、僕の身体は無意識のうちに強ばった。 逃げたくなる足を必死に廊下に縫い止める。 「食事はしっかりとれてる?顔色、少し悪いんじゃな…」 「本日は、遠くまで御足労頂きありがとうございます。」 先生が突然一礼したことで、僕に伸ばされようとしていた指は動きを止める。 ようやくその存在を思い出したのか、僕に向けられていた穏やかな笑みが隣を見上げた。 「あら、いやだ私ったら、ご挨拶もせずに。」 「改めまして、(あきら)君の担任の木崎総士(きざきそうし)です。」 不器用な笑みを浮かべて先生が再度丁寧に頭を下げれば、大人達のお決まりの挨拶合戦だ。 僕から注意がそらされただけで、呼吸がだいぶ楽になる。やっぱり、植え付けられた恐怖は中々消えてはくれないらしい。 でも大丈夫。今日の僕は一人じゃないんだから。 「母の藍原春菜(あいはらはるな)です。先日はこの子に付いていて下さりありがとうございました。……その、私達が再婚した事は誰にも言わないでおこうと主人と決めていて。私は、家族としてあの人を見送る事もできなかったので。」 「それも含めて、今日は三人で色々と話をさせて下さい。」 立ち話もなんですからと先生は僕達の間に割って入り、進路指導室のドアを開ける。 さりげなく、守ってくれている。 よそ行きの不器用な作り笑いが、今の僕にとっては何よりも心強かった。 僕は二人に気づかれないよう胸をなでおろしてから後に続く。 進路指導室は隣の資料室から持ち出した資料を閲覧できるよう、壁にそってパーテーションで仕切られたテーブルと、教師と面談や面接の練習が出来るようにと部屋の中央には教室で使用されているのと同じ机が四台向かいあわせでいくつか設置されている。 先生はどうぞおかけ下さいとそのうちの一つに着席を促してから、自らも机を挟んで向かいに腰を下ろす。 そうして、何故か自分の隣の椅子を引いた。 「晃。」 「え、あ…はい。」 急に名前を呼ばれてドキリとした。 座れということなんだろう。 普通こういう時って僕は親の隣に座るものだろうに。 親の前で名前を呼び捨て、さらには隣に座れなんて。それは、絶対に守ってやるという先生の決意。……いや、もしかすると先生なりの宣戦布告なのかもしれなかった。 どちらにせよ今の僕には机ひとつでも距離ができるのはありがたかったから、僕は迷わず先生の隣に座った。 「成績や進路の話をする前に、ひとついいですか?」 手にしていた資料を広げることなく、先生は少しきつい口調と共に目の前に視線を向ける。 「失礼ですが、入学当初は父子家庭という事で話を聞いていました。晃本人もずっとそう思っていたと。……何故今こんな状況になっているのか、こいつには知る権利があると思います。」 その言葉は、僕にとって衝撃だった。 確かに思っていたことではある。知らない間に親同士が再婚していたなんて、連絡のひとつもくれてよかったんじゃないかって。 だけど、それを問いただしたり、ましてや責めるような言葉を投げかけるなんて。そんな事、してはいけないって僕はどこかで思ってしまっていた。 もしかしなくても、先生……怒ってる? 口調は丁寧なのに、そこにはいつもは感じない圧みたいなものがあった。 そっか。先生にとって目の前のこの人は恐怖でも何でもないんだ。 ただの保護者、ただの他人。それだけなんだ。 この人が責められているなんて光景、初めて見たかもしれない。 それでも彼女は取り乱すことなく先生の言葉を受け入れ、ごめんなさいと僕に謝罪の言葉まで口にした。 「先生のおっしゃる通りです。……そうよね、晃ちゃんにはあの人から説明するはずだったのに。混乱、させたわよね。」 「……父さんが離婚を後悔してたのは知ってたし。」 「騙すとか内緒にとかそういう事じゃなかったの。晃ちゃんが成人してから、晃ちゃんとは会わないままの約束で籍を入れ直そうって話をしていて。だけど、あの人海外での長期のお仕事が決まったって。次はいつ戻れるかわからないから、よければ着いてきてくれないかって言われて。……だから少し早いけど三週間前に籍を入れ直したばかりだったの。」 本来、父さんとするはずだった三者面談の日程は、父さんが亡くなった三日後の日を予定していた。おそらくはその時に僕に全てを話すつもりだったんだろう。 それがまさか、こんな事になるなんて。 「もしかしたら入籍を急いだの……あの人、何か思うところがあったのかもしれないわね。」 僕が十八歳になった時点で法的に親権は消滅してしまっている。だから父さんがこの人と再婚して海外に行くのも自由だし、本来なら僕だってもうこの人に縛られる必要はない。 けれど、僕はまだ学生だ。父親が亡くなった今、僕の保護者は目の前にいるこの人。それが現実なんだ。 親権者じゃなくなっても、家族というしがらみは消えることはない。この人は僕の親であり続ける。 「晃ちゃんが一人にならなくてよかったわ。卒業したら、また一緒に暮らしましょうね。」 よかった、なんて嘘でも言えなかった。 一緒にいたくないと、正直に言うこともできなかった。 結果的に僕の知らないところで僕の人生がねじ曲げられて、逃げ出したはずの場所に戻されていた。その事実に、ただ悔しさに拳を握りしめることしかできない。 僕は、どうしたらいいんだろう。 「……状況はわかりました。それでは、彼の近況についてお…私の方から話をさせて下さい。」 何も言えない僕に代わって、先生は机の上に置いていたファイルから数枚の資料を取りだし机の上に広げた。 それは、言いたいことをまとめろって、先生がくれた時間なんだと思う。 一年時からの僕の成績、部活や委員会の所属状況、全国模試の成績。広げられた資料を感慨深げに眺めるその人を視界の隅に捉えながら、僕は僕自身の中にある恐怖や思い……今まで逃げていたものと正面から向き合っていた。
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