虚無の君、双月の丘

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「あれぞまさしく<地獄の使者>だ」  百戦錬磨の国境騎士団をも震え上がらせたのは、たった一匹の狼だった。  堅牢な石壁に隙間なく囲まれた地下牢で、その獣は低い唸り声を発していた。首には鉄製の輪がはめられ、後ろに伸びる頑丈な鎖が狼を床に縫い止めている。むき出しになった赤い歯茎の間からは、絶えず唾液と白い吐息が漏れていた。赤い毛先という毛先が焦げている。一部露出した肌には切り傷がごまんとあった。この獣はここに繋がれるまで、刃に裂かれ、炎に焼かれていたはずだった。それでもまだ生きている。生きて、暗闇の中、爛々と赤い眼を輝かせ、何もない虚空を肉親の仇とばかりに睨み付けているのだった。  獣が吠え立てる。地下牢に咆哮が反響した。物言わぬ石壁もまるで戦くようにびりびりと震えている。牢の外とはいえ、看守の恐怖やいかばかりか、と——その少年は同情せざるを得なかった。  供も連れず突然現れた王族に、看守が別の意味で背筋を凍らせる。 「きょ、<虚無の君>——」
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