虚無の君、双月の丘

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 口に出してから、自分の失言に気づいたのだろう。片膝をついて頭を下げる年かさの看守に、十を数えて数年経ったばかりの少年は軽く手を上げて、赦しの仕草をとった。  あどけなさの残る少年である。日を知らぬ白い肌に、上等な衣装がよく似合っていた。青い布に金の刺繍がほどこされた上下の服、馬革をなめしたブーツ。赤い絹のマントを翻し、少年は看守に背を向ける。  <虚無の君>——そう呼ばれた少年は、無言のまま牢の扉に手を掛けた。  そして看守が止める間もなく、囚われた狼の元へ歩み寄る。  少年と狼はしばし睨み合う。  狼の様子は相変わらずだった。ぐるぐると低く喉を鳴らして、燃えるような赤い眼をつり上げ、今にも少年を噛み砕かんばかりに犬歯をむき出しにしている。  一方の少年は大した恐怖も畏怖もなく、凪いだ湖面のような瞳で狼を見据えていた。  がしゃん、と鎖が音を立てた。狼が床を蹴って少年に肉薄しようとしたのだ。だが伸びきった鎖がそれを押しとどめた。狼は首が絞まるのも意に介さず、尚も少年に向かおうと前足を突っ張った。 「主が欲しいか?」
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