過去

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 風薫る季節になってきた。キャンパスの中にも木が多く、しかも周りを森に囲まれているようなところなので、自然を感じることも多い。大学は前期の授業が終わり、試験期間に入っている。レポートの提出もひと段落し、裕樹は講義を休んだ分のノートを松浦に頼んで、コピーさせてもらっていた。 「松浦、ありがとう。助かったわ。やっぱり持つべきものは友やな」 「何の何の、その代わり今度の昼飯はお前の奢りな」 「分かったわて。今はバイトしとるから、ある程度余裕があるしな。それにしても、成宮は最近、姿を見せんな」  裕樹は成宮のことを気にするそぶりを見せた。すると、松浦は顔を歪ませて言った。 「あっ、あいつなら昨日、俺のところ来て、ノート貸してくれって言ってきたんや。しゃあないから、全部コピーさせてやったけど、すごい量のコピーをしてたで。お前みたいに昼飯奢ってもらおうと思ったんやけど、さっとその場からいなくなったからな」  どうやら生きていたようである。何しろ、最近はサークルにも顔を出さなかったから、裕樹は多少気にしていたのだ。とにかく生きている、それだけで良かったと思える自分がいることに裕樹自体が驚いていた。  裕樹はゴールデンウィーク明けから、バイトを始めた。親の仕送りもあったが、それだけでは生活費を賄うだけで精一杯だったからだ。求人誌を見たり、学内での家庭教師の斡旋も見たりした。しかし、そのことを野村美奈に相談する機会があったときに、意外なバイト先を紹介してもらった。 「それなら、ブルズでバイトせーへん?」 「ブルズってどこでしたっけ?」  一瞬、どこか分からなかったが、次の瞬間には全てを理解していた。それと同時に求人のチラシを見せられた。 「もしかして、美奈さんの彼氏さんのお店ですか?」 「そうなの、3月で4年生のバイトが辞めちゃって、少ない人数で回してたんやけど、どうしても人手が必要らしくて。急いでいるみたいだから、どうかなと思って」  この美奈の提案に戸惑っている裕樹の姿があった。 「ちょっと、待ってください。確かにバイトはしたいですけど、考えさせてもらっていいですか?」 「分かった。でも、早くしないと他の子にも頼むから、取られちゃうで」  美奈は急かすように言う。その様子はまるで誰かに意地悪をしているようでもあった。  その晩、彼はわだかまりのある気持ちを整理してみた。バイトの内容としては悪くないし、時給も900円とまあまあの値だ。しかも、シフトはある程度融通をきかせてくれると言う。こんなバイトは滅多にない。だが、彼にはこんな申し分のないバイトを躊躇う理由があった。やはり、美奈のことが気になって仕方がないのである。その美奈の彼氏の店で働くなんて、どのようなショックを受けるか分からない。素直に言うと、そんな不安が大きかった。 「でも、逆を言えば、これが吹っ切るキッカケになるかもしれない」  裕樹は思いもかけないことを呟いていた。これで叶わぬ片思いからも解放される。彼はブルズでバイトしようと決めた。  美奈は閉店後のブルズに来ていた。裏口から入って、マスターである門脇晴輝一人となった店内に佇んだ。 「バイトの件だけど、目星つけてた子に声かけてきたで」  晴輝は最後の片付けを済ませて、カウンター越しに美奈を見遣る。 「目星つけた子ってこの前、食べに来てくれた子やろ?で、バイト引き受けてくれそう?」  晴輝の表情は営業中のそれよりも幾分柔和になっていた。 「うーん、その場では返事しなかったけど、多分引き受けてくれるんとちゃうんかな」 「何で、そんなことが分かるん?」 晴輝が着替えながら聞いた。 「何やろな、彼分かりやすいから。いいことがあれば、ニコニコするみたいなね」  ふーんと気のない返事をすると、 「帰るぞ」 と晴輝は言って、裏口の方へ向かった。美奈もそこから出て、先にバイクの停めてあるところへ向かった。そこに戸締りをした晴輝が現れて、美奈にヘルメットを渡した。2人はバイクにまたがると、そのまま店を後にした。その時の2人はとても幸せそうに映った。  裕樹はキャンパスを後にすると、バイトまで時間があったので、一旦家に帰ることにした。荷物を置くと、少し昼寝をした。  ブルブルと携帯のバイブレーションが鳴っている。ちょうど良い時間に起きた。裕樹は制服としている黒のTシャツを鞄に入れ、バイト先へと自転車を漕ぎだした。  ブルズに到着したのは、それから15分後のことだった。裏口から店の中に入ると、マスターの門脇晴輝が見えたので、 「おはようございます」 と挨拶した。晴輝はカウンター越しに 「おはようっす」  と言い返すと、仕込みに没頭していった。裕樹は黒のTシャツに着替えて、手を洗った。Tシャツはオリジナルのデザインで、胸元にbullsのロゴが入っている。このTシャツを着て2か月くらいになる裕樹は、密かに格好いいと思っている。  裕樹の仕事は皿洗いがほとんどで、営業中はほとんどシンクの前に立っていると言っても過言ではない。とは言え、店も忙しい日と暇な日の差が大きく、大学のサークルなどが団体予約を取っている日は洗い物が多くなるが、普段などは数組来ればいい方で、洗い物をこなすと、晴輝や他のバイトとおしゃべりする時間もあるくらいだ。たまに知り合いが来店すると、おしゃべりすることもある。そんな緩い空気感が心地よく、裕樹はこのバイトを受けてよかったと思っている。  この日は何組か客が来ただけで、後片付けが少なかった。皿やコップを洗い終わって、カウンターやテーブル、椅子を拭いても時間が余るくらいだった。11時になると、ガランとした店内には晴輝とバイトの先輩の赤松雅弘、裕樹の3人だけになった。 「よし、11時なったし、高田は上がっていいで。賄い食っていけよ」 晴輝が言うと、 「ありがとうございます。すみませんが、早速食べちゃいます」 と裕樹は返した。今日の賄いは親子丼だ。 「美味いっす。マスターの作る賄いはホンマに美味いっす」  裕樹が感嘆の声を上げると、赤松も 「俺もあんな賄い作りたいっすよ。うちでも真似して作るけど、ああはいかないっすよ」 と羨望の表情を見せた。 「お前、料理するの?そんな風に見えへんけどな」 「マスター、俺こう見えてもずっと自炊してるんですよ。今度、賄い作りましょうか?」 「自信がありそうやから、いっぺん頼むわ。美味いの頼むな」  赤松は「はい」と一言言うと、肩をぐるっと回した。その後、不意に言った。 「最近、彼女さんとは仲良くしてます?」  裕樹は賄いを吹き出しそうになり、むせ込んだ。「大丈夫か?」と晴輝の尋ねる声に「大丈夫です」と答える。一方、晴輝は 「何で急にそんなん聞くんや?」 と笑いながらもちょっと驚いた表情を浮かべて言った。 「何でって、最近彼女さん見ないなって思ったからですよ」 「ハハハ、アホやなぁ。ちゃんとしてるよ。向こうが試験期間やし、公務員試験の勉強を始めたから忙しいんや」 「へぇ、公務員。堅い仕事選ぶんですね、彼女さん。俺も秋になったら、就活始めやんとな」 "就活"という響きに、裕樹はどこかリアリティが持てずにいた。近い将来、自分も通る道なのに。そんな自分にいささかの不安を覚えた裕樹は、不安を搔き消すように、 「あっ、それじゃあ美奈さんとはどうやって付き合ったんですか?随分、歳が離れてますけど」 と晴輝に聞いてみた。話をしてみたかったけども、今まで触れられなかった話題だ。 「何やねん、2人とも。今日はやたら恋バナに食いついてくるなあ。恥ずかしいから、また今度にしな」 「いいじゃないですか、今日くらい。聞きたいですよねー、赤松さん」   裕樹は赤松の方に視線を向けた。 「そうですよ、今日はぶっちゃけちゃいましょうよ。お客さんいないし」 赤松がそう言うと、 「お客さんが来ないのは困るけどな」  と晴輝は赤松を軽く睨んで言い、それに続けて話し始めた。 「そうやな、一言で言うと合コンやな。そこで出会ってん」  そう話し始める晴輝の表情は真剣であった。裕樹も赤松も何故そこまで真顔になるのかが分からなかった。 「その合コンに出た時のあいつの表情がどこか暗くて、何かに怯えているような感じやったから、ちょっと気にはなっていたんや。そんで、LINE交換して連絡を取って、一度会おうってことになったんや。それで会って話を聞いてみたら、元カレから暴力を振るわれたっていうねんや」  晴輝がそこまで話したところで、ドアを開く音がした。来客のようである。 「いらっしゃいませ」  と慌てて、晴輝と赤松が声を上げる。客は男女2人組で、奥のテーブル席に座った。その様子を見ながら、裕樹は賄いを食べ終えた。そして、皿を洗い、裏口から外へと出ていった。何かを食べた気はしなかった。
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