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生活
キャンパスに植えてある桜は新緑に覆われるようになった。花はあの宴会の後に、雨が降って、全て散って流れてしまい、満開の頃の繁栄は跡形もなくなってしまった。
この4月に大学に入った新入生たちも前期の講義が始まってからは、少しずつ日常の生活を形作るようになっていった。それは裕樹も例外ではない。
一人暮らしに戸惑いながらも慣れ、洗濯や掃除といった家事もこなしていけるようになった。とは言え、やはり実家に住む母よりは手際が悪く、洗濯物を床に落として汚したり、皺だらけにしてしまうことも日常茶飯事だった。
洗濯や掃除は日頃からやっておかないと生活が回らないことなので、仕方なくやっている面が大きい。しかし、これら以上に問題なのは食事だった。裕樹は一人暮らしを始めてから、毎食を外食かコンビニ弁当で済ませてきた。
「外食とか弁当ばかりやと栄養が偏るもんで、野菜は意識して摂りな」
母は裕樹が一人暮らしをする際に、大量の野菜を持たせてくれた。そう言ってはくれたものの、自炊するには疲れてしまって、せっかくの野菜が無駄になる。
トマトもキャベツも冷蔵庫の中で皺が寄って新鮮味がなくなり、じゃがいもからは芽が生えてきている。それらを冷蔵庫を開けるたびに見ることになるのだが、いつも辟易してしまう。どうするかを思案し、結局食べる気も起きず、野菜を見ないふりしてドアポケットにあるペットボトルのお茶に手を伸ばすのである。
日常生活を曲がりなりにも順調に送ってきている裕樹のある日の様子を見てみたいと思う。
この日は9時から1講目の講義があり、彼は朝から自転車に乗ってキャンパスに向かう。行き道は大学へ行く自転車やバイクで混雑している。しかも、キャンパスが山を切り開いた場所にあるために、そこへ行くまでに坂道を超えなければならない。したがって、坂道に来ると自転車を押して歩く学生が多いために、さらに混雑した印象を与えた。
そして、それを傍目に見て通っていく大学行きバスも芋を洗うかのようにぎゅうぎゅう詰めであった。裕樹はそんな光景を目にするたびに、疲れを感じずにはいられなかった。
キャンパスに着くと、真っ直ぐ教養科目の教室へは行かず、学内のコンビニに駆け込む。朝食代わりに、高栄養のゼリー飲料を買って飲むのである。実家を出てから、朝に食事をする習慣は薄れていった。週の内、2、3度は朝食を抜いてしまう。親から電話がかかってきたら何て言おうかと常々思っているようだが、一度崩れた習慣はなかなか直せない。コンビニを出ると、今度こそは教室に向かう。
「おう、松浦。今日は早いな」
「高田こそ、ギリやんか。ここの講師は遅刻に厳しいからな」
松浦と呼ばれた背の低い男は、花見で裕樹を引っ張り回した成宮の友だちで、基礎ゼミは違っていたが、成宮と講義を受けた時に知り合った。どうやって、成宮が松浦と知り合ったかまでは何故か教えてもらえていない。とにかく、松浦とは知り合いになったので、ひとりぼっちになることは少なかった。
「成宮は?」
「まだ来てないけどな。今日もサボるんとちゃうか?」
成宮は講義を休みがちであった。しかも、出席カードを余分にもらうように松浦に頼んでいたようである。確かに松浦は講義の時に、出席カードを2枚もらっていた。
「おう、2人とも元気か?今日は久しぶりにキャンパスに来たで」
テンションの高い声が聞こえた。そこにいたのは赤ら顔をした成宮であった。
「どうしたんや?顔赤いし、うわっ、酒臭え」
松浦が顔をしかめると
「合コンだよ、合コン。いやー、本当に大学は楽しいなあ、講義とか単位さえ気にしなければな。ハハハ」
と成宮は得意気に言ってみせた。裕樹はこの状況に呆れながらも、どこかに「個性」という物を見いだしていた。自分が持っていないおもちゃをねだる子どものように。
この日は2講までだったので、午後からは時間が空いていた。そのまま帰っても良かったのだが、松浦が午後からも講義があると言うので、裕樹は昼食を一緒に食べることになった。成宮は1講を終えるとそそくさとどこかへ行ってしまった。
松浦は京都の実家から滋賀のキャンパスに通っている。何故この大学を選んだのかを聞いたら、実家から通える範囲のところで選んだのだと言う。
「冒険してへんなぁ、一人暮らししようと思わへんだん?」
と裕樹が一度冗談で言ったことがあった。すると、
「これでも冒険した方や。高校は徒歩で通ってたくらいやから」
松浦は語気を強めた。
「ここも京都にキャンパスがあると思っていたら、社会学部は滋賀にキャンパスがあるって、受験前まで知らなかった」
「えー、そんなことってあるん?」
思わず裕樹は声を上げて笑った。
「ヤバい、腹筋崩壊するわ。絶対、鉄板トークにしろよ。合コンで目立つからな」
「合コンって、成宮ちゃうねんから止めてや。俺は今から資格取って、ええとこに就職できるように備えるんや。大学は遊園地と違う」
2人とも昼食を食べながら、会話が弾んだ。
「それにしても、松浦はしっかりと考えとるな。俺なんか、何したいかとか考えてないわ。あさって、ささってのことも分からへんのに」
「ささってって何?」
松浦が不思議な表情を浮かべたので、
「ささってって言うのは、三重弁であさっての翌日のことやに」
と多少のドヤ顔で説明した。そんなことでドヤ顔をされてもと言いたげな表情を浮かべる松浦を見て、裕樹はまた別のたわいもない会話に切り替えた。
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