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放たれた.38スペシャル弾の弾頭は、俺の左目の下の肉を抉り耳の一部を千切り取った。
これは射入角度がたまたま浅かっただけだ。
俺の命があるのは、死神の気まぐれにすぎない。
視力も聴力も下がることなく、傷跡だけが残っている。
一部が欠けた耳は再生手術を勧められたが、断った。
傷に触れるたび、あの時のことを思い出すためだ。
人は一生に一度、指標となる恩師に会うことがあるという。
俺にとって、松岡先輩はそんな人だった。
俺が高校を卒業し、警察に奉職したのは「なんとなく」だ。
幸いなことに体格と運動神経には恵まれたので、俺のような頭が悪い野郎でもスポーツ特待生として大学に進むことは出来たのだが、これ以上勉強を続ける意味がわからず、就職という路を選んだ。
進路指導の教師に勧められたのは、自衛隊か警察か市役所。
デスクワークが向いてないと思っていた俺は、市役所は無理だと思っていた。
自衛隊は一部の集団に目の敵にされていて、窮屈そうだったのでやめた。
街を歩いていると、よく職務質問されて面倒だったので警察官になれば、そのわずらわしさから解放されるのではないか? そんな適当な理由が、警察への奉職の理由だった。
俺は、勉強は出来ないが要領はいい。
なので、警察学校では、うまく立ち回ることができた。
教官には可愛がられ、同じ教場の仲間に頼られる存在になれた。
初任科の座学では、警察業務の基本や法的根拠などを学ぶ。
警察官が持つ『権力』をどう使うか考えさせられるわけだ。
不謹慎なことに俺が思ったのは『下手すればいいがかりに近い事でも市民を拘束できる』ということだ。これが、警察権力というもの。
「悪用する者も出てくるだろうな」
というのが俺の正直な感想だが、外国と比べれば日本の警察官は真面目で、親切で、正義の味方なのだという印象だった。
いや、違うな。
『警察組織が掲げる正義』の味方というのがニュアンスに近い。
要領がいい俺は、この与えられた狭い世界で、いかに上手く立ち回るか、そんなことを考えながら、初任科を終え卒配で実際に現場に出ていった。
俺に与えられた卒配という名の現場実習の場は、警視庁の大規模警察署の一つ、新宿警察署だった。
最前線に抜擢されたということらしい。
通常、初任科生は『地域課』勤務となる。いわゆる交番勤務ってやつだ。
アジア屈指の繁華街『歌舞伎町』が所轄内にある新宿警察署の地域課は多忙を極め、そして危険なので有名だ。ヤクザやハングレや外国人犯罪者も多い。
内心うんざりしていた俺が着任したのは、組織犯罪対策課。
この時、指導についたのが松岡先輩だった。彼女は二十代後半。ショートボブの髪型。
「ほっそりとしたきれいな女性だな……」というのが第一印象。
それが、むつけき組対の男どもに交ざっているのは違和感しかなかったが、楚々とした外見に反して、彼女はヤクザもたじろぐ男勝りだった。
卒配を終え、初任総合科課程のためにニヶ月間警察学校に戻って過ごしたあと、卒配で実習した新宿警察署勤務を命じられた。これで俺は正式に『警察官』となる。
異例中の異例の人事だが、
『組織犯罪対策課組織犯罪対策係勤務を命じる』
という辞令を受け取った。
「まぁ、まだ『色』がついてないとこからの人材が欲しかったんだよ」
松岡先輩はそんな曖昧な説明をするだけで、上司の係長もこの件についてはダンマリを通した。
俺は埼玉県草加市の実家を出て、新宿警察署の独身者が入居することになる中野区の単身待機寮『あすなろ寮』に引っ越しをする。
いわゆる警察官の独身寮だが、比較的新しいので個室を確保できた。普通は三人部屋などらしい。
『待機』寮という名前の通り、寛ぐ場所ではなく待機する場所だ。
緊急配備などで人手が足りなくなったときに、即応する警察官の確保の意味合いがある。
僅かな身の回りのモノや着替えだけですぐ暮らしを始められるのは、悪くないが。
入寮歓迎会などはなかった。
一応両隣にいる先住者には、草加せんべいなどを持って挨拶に行ったが、ぶっきらぼうに「よろしく」とだけ言われただけだった。
世話を焼かれるのも面倒くさいので、この程度の距離感はかえって気が楽だ。
三階建ての二階。六畳一間。フローリングの床。新品の寝具がついたベッドが一つ。机が一つ。キャンバス地の組み立て式洋服ダンスが一つ。冷凍庫がない小型の冷蔵庫が一つ。北向きの窓からは住宅街と歯科医院の看板が見えた。
それだけの部屋だが、それで俺にとっては十分だった。
教官に「読んでおけ」と言われていた法律関係の参考書を机に並べ、ベッドに横になる。
身長が百九十センチ弱あるのでベッドの寸がやや物足りないが、まぁ許容範囲だ。
「いきなり『マル暴』とはね」
ため息をついて天井を見ているうちに、いつの間にか眠ってしまった。
寝つきはいいほうだ。どこでも眠れるし、夢も見ない。
俺は目覚まし時計をかけなくても、朝五時前に起きる。
爺さんと同居していたころの習慣で、両親が日本に帰国した後でもそのリズムがしみついていた。
俺の爺さんは『手木術』という耳慣れない古流武術の、まったく流行らない道場を構えていて、俺は爺さんの家に預けられていた六年間、住み込みの弟子のような生活をしていたのだ。早起きして道場の清掃や朝稽古をしていたというわけだ。
この耳慣れない武術は、要するに 薪雑把のような道端で拾ったような短い棒で相手をぶん殴る技術で、そのほか分銅がついた細引きを振り回したりする技法もある。江戸時代の捕方が使う『十手術』の一種なのではないかと思う。
爺さんは、手木のぶん廻し方を教示してくれただけで『手木術』の歴史などは教えてくれなかったので、俺の類推でしかないが。
警察は特殊警棒を使うことがあるので、剣道よりは役に立つ技術ではある。
俺は、早朝に起きると手木の『型』を行う。体を動かすのは気持ちがいいし、特殊警棒の使い方を知っていれば、負傷のリスクは下がる。
深い踏み込みなど、意外と激しく動く手木術の型は、さすがに部屋ではできないので、中庭に出て行うことにした。
木刀で素振りをする先輩方もいて、待機寮の中庭は一種の青空道場のようになっている。
食堂で朝食をとった。早朝から深夜まで、賄い担当の調理師さんが、定食を出してくれるのがありがたい。白飯はお代わり自由だ。
新人は誰よりも早く警察署につかないといけないので、ハムエッグと味噌汁と小松菜のおひたしと白飯という、正調朝定食ともいうべき朝食をかっこみ、自室で支給された背広に袖を通した。
意外に思うかもしれないが、私服警察官だと目立たないダークスーツが支給される。
内ポケットのボタンにバッジの紐を括り付ける。昔は手帳形式だったそうだが、今は上下にパタンと開く形の身分証だ。上面には顔写真と氏名、階級、所属が書かれており、下面は旭日章と『警視庁』の文字が刻まれていた。
生活安全課や俺のような組織犯罪対策課の刑事は慣習で非番でもこれを携帯している。
中野から新宿まで中央線で向かう。
新宿駅からは徒歩だ。
東口交番の脇を通り、大ガードをくぐって靖国通りから青梅街道に入ると、新宿警察署が見える。
時刻は七時になろうかというところ。まだ誰も出勤していない。宿直の署員がちらほら見かける程度だ。
新宿警察署組織犯罪対策課は、総勢七十人ほど。
島は大きく『組織犯罪対策係』、『暴力団対策係』、『銃器薬物対策係』に分かれている。
間仕切りはなく、各係間での対抗意識みたいなものはない。
お互いに情報交換をし、課全体が身内感覚だ。
だが、俺が所属している組織犯罪対策係第四班五名だけは、なんとなく疎外感があった。
警察学校を出たばかりの俺が抜擢されたことといい、『あすなろ寮』での先住寮生の冷たい対応といい、嫌な予感しかしない。
着任後初勤務で組織犯罪対策係の先輩方の机を拭こうとしたが、
「やらんでいい」
と、追いやられてしまった。
仕方なしに、第四班の分の机を拭く。
お茶を用意するために給湯室に行ったが、俺が来るとぴたりとおしゃべりが止まった。
新任がお茶くみをやらされるので、給湯室は新人同士の貴重な情報交換の場所なのだが、俺は除外ということらしい。
へらへらと笑いながら、ポットにお湯を詰め茶葉と急須を運び出す。
昨夜送られてきた、同じ教場だった木塚からのメールを思い出す。
木塚という男は、真面目だが要領が悪く、そのために損をするタイプの人間だ。
不真面目だが要領だけはいい俺とは正反対の性格で、多分俺のことは大嫌いだろう。
だが、木塚の重大なミスをカバーしてやったことがあり、俺との貸し借りがある間は裏切ることがない。律儀な男なのだ。
その木塚に情報収集を頼んでおいた。
愚直なところがある木塚は、自然に信頼される傾向があり、寡黙なので一種の「聞き上手」である。役者ばりの色男なので、女性からのウケもいい。
「第四班は、警務課案件」
これが、木塚が探り出してきた噂だ。
警務課とは、警察官の素行を調査し悪徳警官を取り締まる、いわば『警察官の警察』みたいなもの。
つまり、俺が抜擢された第四班は組織犯罪対策課内部の何らかの不正を暴くために設置されたスペシャル・タスクフォース・チームというわけだ。
俺を評しての松岡先輩の『色がついていない』というのは、どの警察官ともしがらみがないということらしい。
「冗談じゃない」
それが俺の感想だった。俺が警察組織に所属して感じたのは、仲間意識だ。
最も嫌われるのは『仲間を売る密告者』で、警察官を取り締まる警務課は時として逆恨みされることがある。
はやいところ、異動を願い出たほうがいい。俺はそんなことを考えていた。
俺とバディを組むことになった松岡先輩は、奉職6年目で巡査部長に昇進している。
特別早い出世ではないが、決して遅くない昇進だった。
生活安全課で少年犯罪対策に2年、その後組織犯罪対策課に5年の計7年勤務している。
4年前に研修で知り合った江戸時代から続く質屋『松岡屋』の店主と結婚して松岡姓になっている。3歳になる娘がいて、私物のスマホの待ち受け画面はそれで、俺は何度も見せられ、その耽度に「可愛いですね」と言わなければならない。まぁ、実際可愛い子だが。
警察官は、あまりプライベートの時間はないと思っていい。独身者は『待機寮』で暮らすことも多く「男女の出会い」というものがない。更に結婚ともなると、相手の身元調査などがあり、更にハードルが上がる。警察官同士の結婚が多いのは、それが理由だろう。
いわゆる『社内結婚』以外では、関係団体との研修等を通じての出会いもある。
盗品が持ち込まれることがあることから、質屋と警察は協力関係にある。松岡先輩は、そこで知り合いになった『松岡屋』の店主・松岡大二郎と結婚した。このパターンは例外だ。
若い警察官は気軽に合コンなどが出来ないことで嘆いているが、プライベートで警察官であることを公言するのを避けるように教育されているので、まぁ、仕方ない。
俺は、誰かに恋愛感情を抱いたことがないので、どうでもいいと思っている。
そんなことより、余暇の時間は昇任試験の勉強をし、最短で警部補まで行くつもりだ。
それ以上は、勤務態度などの査定も含め上司の推薦などが必要になるが、そのあたりには自信がある。俺は要領がよくて愛想よくふるまうことが出来る。
警察官になって実感したのは、仕組みがシステマライズされた公務員ということ。
俺とバディを組んでいる松岡先輩は、実に勤勉だった。
組織犯罪対策課の刑事は、情報を仕入れ、聞き込みをし、証拠を集めて逮捕や家宅素策の令状をとる。その繰り返しだ。
頻繁にヤクザの事務所に顔を出すのは、まぁ嫌がらせである。
「お前らのことは見ているぞ」
という示威。これが、地味に効く。
ヤクザは、弱い者にはめっぽう強いが、強いものにはからきし弱い。
服従の態度を見せるために『裏の情報』が流れることもある。マル暴の刑事は、それを丹念に拾い集めるわけだ。
だからこそ、同じ課の横の連携は大事で、組織犯罪対策課全体の仲間意識は強いのが常識だ。
だが、俺の所属している第四班の、班長の上島警部補、上島警部補を補佐する国枝巡査長、矢口巡査部長、永山巡査は、ほとんど他の課員と話すことはない。
上島班長と国枝さんは、ずっと机で書類を作っていて、時折小さな声でぼそぼそと打ち合わせをするだけだ。
矢口さんと永山さんはバディで、定時に登署すると拳銃許可を申請し、外に出て夜まで帰ってこない。
いわゆるマル暴の刑事といえど、常に拳銃を所持しているのは珍しい。機動捜査隊や公安の刑事じゃあるまいし。
なんとなく壁がある他のメンバーと違って、松岡先輩はずけずけとマル暴のむつけき男どもの間に入ってゆく。
不思議なことに、強面ぞろいの組織犯罪対策課のなかでも、特に強面のベテラン刑事に限って松岡先輩に甘い。美人は得だなと思った。
渋々という態で情報の横流しをしてくれる。
俺は「第四班に配属された意味がわからない」という「途方に暮れた新人」を演じて、異動後に微妙な立場にならないよう立ち回っていた。
松岡先輩は、俺の一歩引いた態度に気付いていただろうが、責めたり説教したりせず、マル暴刑事としてのノウハウを俺に根気強く実戦で伝えてくれていた。
そのことに微かな罪悪感を覚えたが、自助は最優先だ。
どうせ、何年か後には、俺は新宿警察署から異動できるはず。変な遺恨は残したくない。
松岡先輩に連れまわされる毎日で、俺がどうしても理解できないのが彼女の「悪の探知」だ。自動車警邏隊などはその感覚を徹底的に磨くらしい。
「見ろ、益満。あいつ、ヤルぞ」
歌舞伎町を歩いていて、ふいにそう言われた。
彼女が指さした先にはスーツ姿のやせた男がいて歩いているだけだ。
「何をですか?」
「何か……をだ。バンカケする。ついてこい」
『バンカケ』とは、警察の隠語で職務質問のことだ。「こんばんは」と声をかけるというのが由来らしい。警察はこうした隠語が多くて本当に疲れる。
「まってください、バンカケは、うちらの仕事じゃないですよ」
俺は抗議したが、松岡先輩は裏拳を俺の胸に飛ばしただけで返事をしない。
急ぎ足で歩くスーツ姿の男は、近づいてみると、何日も風呂にはいっていないような垢じみた体臭をしているのがわかった。
大事そうに革のビジネスバックを抱えているが、角が擦り切れてボロボロだ。
こうした様子は、遠目には全くわからなかった。
「こんばんは」
松岡先輩が、その男に声をかける。
男はギクっと足を止め、うつむく。白いワイシャツの襟首が黒く汚れているのが見えた。
皮脂でべたついた髪は禿げかけていてフケがすごい。
走り出しそうな気配があったので、俺はさりげなくその方向を塞いだ。
すると、男はうつむいたまま瘧にかかったかのようにガタガタと震え始めた。
「ダメだよ。さあ、鞄を渡して」
職務質問というよりは、優しい問いかけのような声で、松岡先輩が言う。
小さく唸り声みたいなものを、男は上げている。
俺は腰の特殊警棒のグリップに手を伸ばしたが、松岡先輩は目で「必要ない」とアイコンタクトを送ってきた。
男ががっくりと膝をつく。そして鞄を地面に落として、両手で顔を覆った。
唸り声ではなく、それは泣き声だったのだ。
鞄の中身は、ホームセンターで買い求めた包丁やナイフ。
松岡先輩は通り魔事件かテロを未然に防いだことになる。
新宿駅東口交番を借りて事情聴取をすると、彼は結婚詐欺の被害者で、全財産をだまし取られた挙句思い詰めて相手を殺害し、自分も死のうと思っていたらしい。
松岡先輩は、包丁を取り上げただけで彼を放免した。
『銃砲刀剣類所持等取締法』いわゆる『銃刀法』では、「刃物を正当な理由なく携帯することを禁止」しており、この男(葦沢 希という氏名らしい)は逮捕案件だ。
「パクんなくていいんすか?」
ペコペコ頭を下げて新宿の雑踏に消える葦沢を見送っている松岡先輩の横に並んで言う。
「なんだお前、冷たい男だな。まぁ、大丈夫だよ。『臭い』がしなくなったからな」
その後、何度も見かけることになる松岡先輩の「悪の探知」。
まるで超能力のようだが、彼女は生まれつきそういった直感力が備わっているらしい。
観察の結果が無意識に『臭い』となって感じるあたり、松岡先輩は『共感覚』とかいう能力があるのかもしれない。
「人は何か神様から授かって生まれることがある。私はこの嗅覚だ。縁があって警察官になったのなら、それを人のために生かそうと思ったんだよ。益満。お前も神様からのギフトがあるだろ?」
「いや俺、臭いなんかわかんないす」
松岡先輩が、また俺の胸に裏拳を飛ばしてくる。
「めぐまれた体格。ずば抜けた身体能力。格闘センス。それがお前が神様から授かったギフトだろ?」
ひらりと、松岡先輩が笑う。その横顔は、今も俺の記憶に刻まれている。
松岡先輩はめったに怒らない。
男勝りで口調は乱暴だが、笑顔でいることが多い。
マル暴刑事としては、どうかと思うが、まるで地域課の警察官のように、街の中の小さな『悪』さえ丹念に拾ってゆく。もちろん、こんなことは警察官としての成績にはつながらない。
そもそも事件が起きてからが警察官の出番なのだ。
松岡先輩はそんなことはお構いなしだった。
困っている人には相談に乗る。ヤクザ同士の仲裁までする。
新宿の街、特に治安の悪い界隈では犯罪予備軍のクズどもが多いが、松岡先輩は分け隔てなく接する。
それが、彼らの頑なな警察に対する敵対心のようなものを溶かしてゆくのを度々目撃した。
一種の才能だ。とてもじゃないが、俺にはできない。
『街の守護天使』
そんな言葉が浮かぶ。
松岡先輩と一緒に行動しているうち、いつの間にか俺の行動規範は
「松岡先輩ならどうするか?」
になっていた。
効率と要領が第一の俺が、なんとまぁ松岡先輩の真似をするようになるとは、自分でも意外だった。
要するに、俺は松岡先輩を尊敬しはじめていたのだ。
「益満。お前、良い警察官の顔になったよ」
そんなことを言われて、柄にもなくうれしかったのを覚えている。
染みついた習性というものは、極限状態の時に出て来る。
武術の鍛錬はひたすら型を反復するが、これは極限状態の時に思考を経由せずに無意識に体を動かすためだ。
俺は、松岡先輩を目指していながら、それが出来ていなかった。
小雪ちらつく夜の歌舞伎町。
酔漢がそぞろ歩き、店に急ぐ風俗嬢がため息をつきながら足早にあるいてゆく。
行く場所がないのか、少年少女が「新宿TOHOビル」横の広場にたむろって、掬い上げるような暗い目つき俺と松岡先輩を睨みつけて来る。
こいつらは、どういうわけか警察官を見抜くことが出来る。
俺が見返すと、慌てて視線を逸らす。
「益満、走れ!」
突然、松岡先輩が言ったのは、その時だ。
俺も「悪の探知」を修練しているので、その理由がわかった。
松岡先輩が駆けつけているのは、懐に手を突っ込んで歩いている小太りの男だ。
キャタキャタ笑いながら並んで歩いている若い女性を上目遣いに睨みながら歩いている。
「通り魔かもしれない」
そう思ったが、確信はなかった。
心のどこかに「まだ事案発生する前じゃないか」という声がある。
俺の中の「自分を守ろうとする規則優先の警察官」が、俺の足を鈍らせていた。
松岡先輩は全くの迷いはない。
「逃げて!」
若い女性に叫びながら、俺を抜き去り小太りの男と若い女性三人の間に割って入っていた。
「どけぇええええ!」
叫んだ小太りの男が懐から取り出したのは、コンバットナイフだった。
それを、唖然として動きが止まった女性に突き出してくる。
松岡先輩は、妨害するようにナイフの前に立ちはだかっていた。
「松岡先輩!」
小太りの男と彼女がもつれ合う。
悲鳴を上げて若い女性が逃げた。
俺は、憤怒の怒鳴り声をあげて、小太りの男を思い切りぶん殴っていた。
体格が良く、筋力も並はずれている俺は、無意識に力にリミッターをかけている。
下手すると相手を殺してしまうからだ。
そのリミッターが外れてしまっていた。
憤怒には、一瞬現場に踏み込むことをためらった自分への怒りも含まれている。
俺が躊躇したばかりに、松岡先輩が死んでしまったらと思うと、感情がぐちゃぐちゃに乱れて何がなんだかわからなくなっていた。
小太りの男は、一回転するほどの勢いで吹っ飛び、動かなくなった。
鉄錆のような血の臭いに、最悪の事態を覚悟する。
うずくまる松岡先輩を抱き起す。
ぼたぼたと血が地面に落滴していた。
「ああ、ちくしょう! 先輩!」
俺が叫ぶと
「うるさい! 耳元で叫ぶな」
と、松岡先輩にぶん殴られた。
無事だった。
そう思うと、膝から下から力が抜けてへたり込みそうになった。
「益満! 確保!」
「半殺しにしときました、一時間は動きませんよ」
「馬鹿、やりすぎだ!」
俺を蹴る松岡先輩の掌には、ナイフが貫通していた。女性を守るために盾になったのだ。
血はそこから流れている。
「貴様! 躊躇したな!」
松岡先輩が怒っていた。俺の保身が見抜かれて恥ずかしさ以外なかった。
「すいません」
俺が謝ると、松岡先輩は俺を指さしてもう一度怒鳴る。
「警察官の正義は市民を守ること。手順よりそれが優先だ」
俺を指さした松岡先輩の手にはナイフが刺さったままで、ぼたぼたと血が落ちている。
「わかりました、わかりましたから、手の治療をさせてください」
そこで、彼女ははじめてナイフの存在に気付いたようだった。
魂消るような悲鳴が、松岡先輩から上がる。
突き出されたナイフを手で遮ったのだろう。この人は女性を助けるのに夢中で負傷に気付いていなかったというのか。
大怪我ではあるが、命に別状がないことがわかってほっとすると、驚いたことに、俺は泣いていた。
これにはまいった。
他人に興味がなかった俺が、自分でも気が付かないうちに初めて恋した相手は、年上の人妻だった。
もう、躊躇わない。彼女を守る。
そう誓った俺だったが、二年後永久に果たせないことになってしまった。
抱えていた第四班の案件が、想像していたより闇が深かったのが理由だ。
事案は、俺の大事な女性と一緒に再び闇の中に消えてしまった。
あいつらに復讐する。
必ず報いを受けさせる。
そのために何でもする。
眼の下と耳の傷に触れるたびにそう思う。
汚れちまった俺をみて、松岡先輩は悲しむだろうか。
悲しむだろうな。
そういう女性だった。
(了)
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