幽霊は眠らない

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幽霊は眠らない

青白い三日月と、赤銅色の三日月が夜の街を照らしていた。 薄っすらと闇夜に浮かび上がる街と空との境界は、遥か彼方にあるからぼんやりと滲んで見える。 魔塔の円錐屋根の、採光のために付けられた小さな窓。その少し平らになった部分に腰を掛け、あたしは沈みゆく青い月を目で追っていた。赤銅色の月はまだ天頂にある。 屋根に触れられないのにあたしはこうして屋根に座り、風と夜の匂いを感じている不思議。幽霊だからかまったく眠くならなくて、一晩寝て起きたら夢だった、っていう展開は無理みたいだ。 青と赤の月が東と西に四十五度の角度にある時、もっとも安定した状態で悪魔を召喚できる――と、ノードは説明してくれた。けれど、実際には失敗したものだから「迷信かよ、クソが」と不機嫌に月を見上げて毒づき、彼は怪しげな酒をあおっていた。あたしの前で紳士ぶる気はすっかりなくなってしまったようだ。 空色Aラインワンピと、シンプルイズベスト!としか言いようのない薄手の白のカーディガン。足元はベージュのミュール。ノードに「下着ですか?」と真顔で問われた。もちろん「普段着!」と弁解したけれど、服に金をかけることのできない貧乏人という認識は修正できなかったようだ。ゆえに、丁重に扱う必要はないと判断したらしい。こっちもその方が気楽でいいけど。 ゲートをくぐって魔塔についてから、ほんの少しだけノードと話をした。彼の瞳には興味と好奇と、ときおり憐憫の情が浮かんだ。 ノードは今、あたしのおしりの下にある屋根裏部屋で眠りについている。 魔塔主の寝室は魔塔のてっぺん、その下の階は彼の研究室、その下も、その下も、彼の研究のための倉庫とか資料室とか実験室とか、魔塔のほぼ半分が彼専用で、ほかの魔術師や技術者との共同研究などは地下二階から地上五階らしい。 ノードいわく、屋根裏のベッドで寝るのは数ヶ月に一度。そういう意味で今夜は特別らしく、「どうしようもなくやってらんねー」気分の日だということだった。他の日は研究室とか図書室の床で寝落ちとか。 ナリッサとジゼルの契約が結べなかったことは、それくらい彼にとって悔しいことだったらしい。計画の第一歩目でしくじったのだから仕方ない。 彼の計画、それはすなわちグブリア帝国皇家を破滅に導くこと。その企てをあたしが本で読んで知っているなんてノードは考えもしないだろう。 あえて自分が苦しむ方に進もうとしなくていいのに、と、あたしはゆっくりと西へと向かう赤銅色の月を眺めながら思う。本人から明かされていない秘密を知っているというのは複雑だ。しかも推しキャラ。 月の色はジゼルを染めたあたしの血の色みたいだった。ジゼルの赤い瞳にも似ている。 純白の毛を赤く染めたまま、あたしの隣で丸くなって眠っているジゼル。時間が経つほど赤みは薄らいで、血はジゼルの中に吸収され、彼の魔力を強めるらしい。本来の血の契約、つまりナリッサがジゼルと行おうとしていた契約で必要な血はほんの一滴。それなのに、これが本当の出血大サービスってやつだ。 夜が明けたらすべて吸収できているだろう、とジゼルは目を閉じる前に言った。ノードにはぼくに手を触れさせないように、と。 ノードとしてはナリッサのものにならない悪魔を大量の血でレベルアップさせたくないはずだった。無知なふりをして血を洗い流すようジゼルに勧めていたけれど、ジゼルに「低級悪魔がたかだか中級になるくらいで恐れるのか?」と返されると肩をすくめ、それ以上何も言わなかった。 考え事をしていると月はあっという間に傾いていく。 時間が奇妙な流れ方をしていた。ジゼルやノードと話していると生きていた時と同じように時は流れていくのに、こうして一人きりで考え事をしていると時間がスキップしたようにあっという間に時が過ぎる。それは救いだった。眠れず長い夜をもて余すのは嫌だから。 東の空が白んで、赤銅色の月が沈みかかっている。白んでいる方角が東かどうかはわからないけど、小説でわざわざ東西南北を変更したりしないだろうし、西から太陽が昇るとか、そんな設定はなかったはず。 ジゼルはまだ起きそうになかった。 小窓をのぞいてみるとノードは毛布にくるまって眠り、あたしがそっと部屋に忍び込むと彼はブルっと肩を震わせて体をまるく縮こめる。 幽霊スキルその① 冷気拡散! 幽霊が近づくと体感温度が下がるというのはよく言われるし、あたしも霊感体質の人間だったので生前何度も経験した。 幽霊スキルその② 空中浮遊! テレビの心霊特集とかで幽霊が魔法使いみたいにフワフワ飛ぶ姿というのはあまり見かけないけれど、ここは小説の世界だからか、ティンカー・ベルみたいに宙を飛ぶことができる。羽はないけれど。 ノードの寝息はウィスキーみたいなきついお酒の匂いがした。寝顔を堪能してから床を蹴る(蹴ったイメージで飛び上がる)と、あたしは小窓をすり抜けて朝日を浴びる。ジゼルはまだぐっすり眠っていたけれど、血で赤かった体毛は薄桃色に変わっていた。 少し散歩しようか。 そんな気分になったのは、見下ろす町並みに人々が活動を始める姿が見えたからだ。それに、ピアスから離れてどれくらいまで行けるのか知っておきたい。 両手を広げ、円錐屋根からダイブする。まるで飛行石でも持っているみたいにゆっくりと魔塔の壁すれすれを落ちていき、地上五階の平屋根に行きあたって進路を変え、塀を越えた。そして、正門の前にある巨大な石像の肩の上に立つ。どうやら魔力が込められているらしく、この石像には触れることができる。 「何者だ!」 二人いた門兵のうちの一人が剣の柄に手をかけ周囲をうかがっていた。あの剣にも魔力が付与されていそうだ。 「石像が反応した。侵入者の可能性あり!」 もし魔法具(アーティファクト)で斬られたりしたら、幽体のあたしはどうなるんだろう。ゾッと背筋に悪寒が走り、慌てて石像から離れた。 塔を囲うのは森林公園みたいな細長い林で、それを飛び越えると二階か三階建てくらいのレンガ造りの建物が並んでいる。市場もあるようで、ぞくぞくと人が集まっていた。 思っていたよりも幽体で移動できる範囲は広い。あたしは途中から道行く人に紛れ、朝市が活気を帯びていくさまを眺めつつ歩いた。路地くらいの狭い道は徐々に道幅を広げ、道はずっと緩やかなカーブを描いている。 ふと気になって、一気に地上二十階くらいの高さまで飛んだ。さらに高度を上げると、眼下に広がる景色があたしの想像通りだと判明する。街は、魔塔を中心にしたアンモナイトみたいだった。まるで、この国の中心は皇宮ではなく魔塔だというように。 地上付近で飛んでいる姿を見られたら騒ぎになりそうだったから、あたしは高度を保ったまま魔塔に向かい、手前の林の中に降りることにした。ここの木々がもともと魔力を帯びているのか、魔塔による仕業なのかはわからないけれど、林の中の植物には触れることができる。 梢を渡る鳥も、草の中を跳ねるカエルも魔力が感じられる。そもそも、どうしてあたしは魔力が感知できるのかわからないけど、幽霊スキル③ってことにしておこう。 小さな魔獣たちに害意はなさそうだった。木の幹をちょろちょろと移動するリスのかわいさに萌え、草むらから顔をのぞかせるウサギにキュンとする。 どうやらこの林にはしょっちゅう来ることになりそうだ、と考えていたときだった。ガサっと草を分ける音がし、あたしは本能的に木の陰に隠れて息を潜めた。 唸り声は犬か、それとも狼か。その獣をたしなめるように「落ち着け」と男の声がした。あたしはそっと足を浮かせ、魔力のあるものに触れないようにする。万が一、さっきの石像のときみたいに感知されたらどうなるかわからない。 ザッ、ザッ、と迷いなく歩を進める音と、従順に付き従って進む獣による葉擦れの音。 近づいて来た足音がそのまま通り過ぎることを願ったけれど、目の前に現れた男はまっすぐあたしを見ていた。年は高校生くらいだろうか。銀色の髪に菫色の瞳。連れている獣はシベリアンハスキーのような見た目で、目は赤く光っている。 「誰だ、おまえ」 何を言っても斬られそうな殺気。 「この林は魔塔所属の者か、皇室の許可を得た者しか入ることはできない。誰の許可を得てここにいる」 皇室、と彼の口から聞いた瞬間、目の前の青年が誰なのかハッキリした。皇太子ユーリックだ。写真もしっかり見たはずなのに、あたしは人の顔を覚えるのが苦手。写真はセピアだったし。 シベリアンハスキーがひと声吠えた。唸る獣はこの林で見かけた小動物とは魔力の気配が違って、恐怖に体が震える。 「もうじき夏とはいえ、こんな朝っぱらから下着姿でうろつくなんて。タチの悪い人間はここには入って来ないからいいものの、魔塔主はヤバい魔獣をここで放し飼いしているというから出くわしたら死ぬぞ」 あたしはもう死んでいる、とは言わない方がいいかも。 「魔塔主様に誘われて魔塔に泊まったんですけど、眠れなくてこっそり抜け出しました。それで、迷ってしまって」 ユーリックは顔を歪め、明らかに疑いの眼差しであたしを見る。 「ノードの女? ありえない。あの人が女に興味を示すはずはない」 たしかに、ノードがひとりの女性を想い続けているという噂は小説内では有名な話ということになっていた。想い人は遥か昔に死んでいる。 「それは機会があれば直接ノードに聞いてください。彼がそろそろ目を覚ます頃なので、これで失礼します」 逃げるが勝ちだ! 「おい、待て」 不機嫌な声を背後に聞きながら、あたしは飛ぶのを我慢してミュールで草むらを駆けた。幸いユーリックが追いかけてくることはなく、じきに林を抜けて塀の前までたどり着くと、あたしは人目がないことを確認して円錐屋根の上に戻る。 ジゼルが四つ足で立ってあたしを迎えた。毛はすっかり真っ白になって、なぜか背中にはコウモリの羽のような形をした白い羽が生えていた。 「どこ行ってたんだ、主」 「暇だったから散歩。ノードは?」 「さっきまで寝ていたが、皇太子が来たとかで渋々降りていったぞ」 機会があれば、と言ったのに、どうやらユーリックは気になることはすぐ確かめなければ気が済まない性分らしい。 異世界召喚から数時間しか経っていないのに、主要人物にこれだけ立て続けに出くわすなんて体がもたない。あ、体はないんだけど。
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