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悪女の始まりは麻薬から
皇太子が帰ったあと、ノードは本当にカウチソファーで二度寝を決め込んでしまった。油断しずぎじゃないかとこっちが心配になるくらい無防備な寝姿に顔がニヤけてしまうのは不可抗力。
どうしてポケットにスマホがないの?
5Gなんていらなし、ネットもY〇uTubeもいらないからカメラ機能だけでも……!
せめて目に焼き付けようとソファの脇にしゃがみ込みノードの寝顔をながめいたら、
「なにをそんなにまじまじと観察することがあるんだ?」
と上の階の寝室から顔をのぞかせたジゼルが首をかしげた。
「だって、推しの生の寝顔が……!」
「?」
ジゼルは意味不明だとでも言うように頭を振る。猫の姿をした悪魔に「推し」なんて伝わらないのは分かってるけど、喉の奥からあふれ出た推しへの愛は一旦堰を切ってしまうと簡単には止められないわけで。
「この長いまつ毛の下に隠された紺碧の瞳、艶のある黒髪、シュッとした顎のライン、憂いを帯びた口元、ツヤツヤの肌! あたしは死してようやく推しキャラに会えた感動に今打ち震えているの! 異世界召喚なんてフィクションだと思ってたけど、もしかしたらまだ走馬灯の中にいるのかもしれないけど、こんな間近でノードの顔を堪能できるなんて……!」
きょとんとした顔でパチパチ瞬きする愛らしい子猫は、数秒後にようやく理解が追いついたのか、(追いついてないかもしれないけど)「主……」と両前足で頭を抱えた。
「主の頭の中はどうなってるんだ?」
脳みそはもうないから空っぽかもしれないね。
「だって、楽しみがないと生きててもつまんないでしょ?」
「主は死んでる」
「肉体は死んでも心は生きてるの」
もっともらしい言葉がつるっと自分の口から出てきて、あ、あたしは心だけの存在なんだと悟りをひらいた気分になった。
「魔塔主は確実に主を利用するつもりでいる。でなければこんなふうにそばに置いたりしない」
言いながら、ジゼルはタタタッと梯子を駆け下りてカウチソファーに飛び乗る。
「わかってる。ちゃんと警戒するよ。でも、あたしを利用しようとしてるにしては放置しすぎだよね。もっと構ってくれていいのに。逃げないと思ってるのかな」
これだ、とジゼルは前足でノードの耳たぶに触れた。そこにあるのはあたしの妹からできたダイヤのピアス。
「これは人質のつもりなのだろう」
「そうなの?」
あたしの返しにジゼルは呆れ顔だ。
「このピアスがある限り、主が自分のところに戻ってくると魔塔主は思ってるんだろう。実際そうだと思うが?」
「ピアスがなくても戻ってくるのに」
「なぜだ? こいつはどう考えても危険だぞ」
「さっき言ったじゃない。ノードはあたしの推しなの! あたしにとってこの幽霊ライフは人生のオマケなんだから、推しの美しい顔を堪能して、推しのステキな声をこの耳で聞いてこそ生きてるって思えるの」
ムニュっと肉球で口を塞がれた。
「主、声が大きい。魔塔主が起きるぞ」
ノードはウウンと声をもらして寝返りをうち、顔は見えなくなったけれど寝ぐせのついた後ろ髪がかわいい。
「主は善意と楽観でできているらしいな」
ため息混じりに漏らし、ジゼルは肉球で塞がれたあたしの唇を解放する。
「主、今のうちに街に出てみないか?」
「出たい! 皇宮に行ってみたかったんだ。ナリッサの住んでるところ。石榴宮だっけ」
ジゼルは驚きを隠すこともなく目を丸くした。
「不思議だな。悪魔同士で情報交換しているぼくよりも、主の方がこの世界について知っていそうだ」
「へえ、悪魔にも横のつながりがあるんだね」
「契約していない野良の悪魔はいつどんな世界に召喚されるかわからないからな。情報を集めておくに越したことはない」
悪魔も色々大変そうだ。
「ジゼルはこの世界のことはどれくらい知ってるの?」
「現皇帝のカインが即位したという噂を聞いて以来情報がなかったから、現状がどうなってるかはほぼ知らないに等しい。まあ、この魔塔主ノードは別格だ。悪魔なら誰でもこいつのことは知っているし、ぼくと主が召喚されたこの世界ではノードを知らない方がおかしい」
三百歳だもんね、とあたしが言うと、ジゼルはチラッと後ろを振り返ってノードの様子をうかがった。そして顎をクイッと動かして窓を指す。
「話の続きは出てからにしよう」
外は雲ひとつない青空で、地球で見るのと同じ太陽が燦々と輝いていた。あたしとジゼルは魔塔の円錐屋根に座って景色を眺める。
街で一、二を争うくらいの高さの魔塔。道路はやはり渦を巻くように外へ向かって敷かれていた。まるで、街全体が魔法陣のようだ。
今朝立ち寄った平民街と河を挟んで、貴族たちが住んでいそうな豪奢な建物が並んでいるのが見える。その奥に小高い丘があり、小説では「皇宮の丘」と呼ばれていたことを思い出した。
あたしの視線よりもやや高い位置に皇城が建っている。シンデレラ城みたいなあの城は政務を行う本宮。本宮を囲うようにいくつかの別宮が丘の樹々の合間から姿をのぞかせている。本宮と並んで右隣にあるのがおそらく現皇帝が起居する銀月宮。左に見える白い城壁に囲まれた建物はユーリックの紫蘭宮。ナリッサの石榴宮は丘の裏側の森の中。
「ここがあたしの読んだ小説『回帰した悪女はお兄様に恋をする』の世界なら、きっとそうだよ」
城を指さしながらジゼルに説明すると、「まさか小説の世界とはな」と、半信半疑の表情で屋根からポーンとジャンプした。あたしもジゼルを追って円錐屋根から飛び降りる。
共同研究棟の平屋根に降り立ち、屋根伝いに迷いなく進むジゼルはどうやらユーリックが来ていた時に塔の敷地内を探索したらしい。
「こっちは魔力のない使用人たちの宿舎だから、その先にある裏門から外に出ればいい」
お昼どきなのか、シチューの匂いがして食欲をそそられる。それでも空腹を感じないのが不思議だ。
「ジゼル、食事はどうしてるの?」
「これまで通り」
「狩るの?」
「魔塔を囲う林は小物の魔獣がいるからちょうどいい。主がいた世界では狩りをしても空腹を満たすだけだったが、魔獣なら魔力も増える」
腹が減ったのか? とジゼルが足を止めてあたしを見上げた。
裏庭で使用人たちが昼食をとっている。シチューの入った皿を手に、塀や木にもたれかかり、陽の光を浴びながら談笑する姿は今のあたしとは相容れない風景のような気がした。
「食べたい気もするけどお腹は減ってない。シチューの匂いが恋しいだけ」
「あの林の果実なら主でも食えるかもしれないぞ。魔力を帯びてるからな」
「食べられるとしても、あたしの食事風景って魔力のない人が見たらどんなふうなのかな。空中でリンゴが齧られていって、喉を通って胃に溜まるとこまで透けて見えたりするのかな」
真面目に考えていると、ケケケッとジゼルが独特の笑い方をした。ちょっと悪魔っぽい。
「何ごともやってみればわかるさ」
「そうね。またあとで試してみよっと」
ジゼルは堂々と裏庭を闊歩し、エプロンをつけた女性から肉の切れ端をもらっていた。あたしは姿を見られないように魔力の感知に集中し、ジゼルの後について裏門をくぐる。
見張りの門兵が一人、荷馬車のそばで商人らしい男性と話していた。積み荷を下ろした後なのか、幌の上げられた荷台は空っぽだ。ジゼルは男たちの隙をついてピョンと荷台に飛び乗り、あたしに向かって招き猫のように手招きする。
乗り心地は悪そうだけど、いくら揺れても幽霊には関係なさそうだからいっか、とあたしが荷台に手をかけたとき、「麻薬?」と声がして振り返った。
門兵があたりをうかがってゴホンと咳払する。「商売仲間から聞いた話なんですが」と、商人は潜めた声で話を続けた。
「貴族連中が麻薬なんて、今更それがどうしたって思われるかもしれませんが、どうやら河のこっち側にかなり出回ってるようなんです」
「だが、平民に手が出る代物じゃなかろうに」
「河向こうに格安で売ってるとこがあるらしくて、若い奴らが興味本位で買いに行ってるようです。昨夜もラリッたやつが酒場に押し入って暴れたらしくて」
「治安隊には?」
「皇室の犬に下手なこと言ってしょっぴかれたくはありません。おそらく元締めは貴族だろうから、どうしたもんかと」
「それで俺に?」
ええ、と商人はうつむいてこぶしを握りしめた。肩を震わせながら「実は」と続ける。
「甥が急に左足の麻痺になって、話を聞くとどうやら麻薬のせいみたいなんです」
「麻痺がか?」
「友達に誘われてその麻薬に手を出したらしいんですが、聞いていたように気分が良くなったりすることもなく、その翌日急に足が動かなくなったって言うんです。それに、治療院には手足の麻痺を訴えてくる患者が増えてるみたいで」
門兵は腕組みをして「ううん」と唸った。今の話で麻痺と麻薬を結びつけるのは少し難しいかもしれない。それよりも、あたしが考えていたのはナリッサのことだ。
彼女が〝悪女〟と呼ばれるようになったきっかけが麻薬絡みの事件だったはず。小説『回帰した悪女はお兄様に恋をする』は、ナリッサ回帰前の悪女遍歴をざっくりとしか描いていない。回帰後の本編はツンデレ炸裂のラブコメディーだけど、ナリッサ本人が悪女の汚名回避のため麻薬取引を暴こうと大奮闘した。
――なら、今回のナリッサは?
きっと、黒幕の思惑のまま罪をなすりつけられてしまう。
「わたしたちにとっては魔塔が頼りなんです」
商人は懇願するように頭を下げ、門兵が「報告はあげておくよ」とため息混じりに肩に手をおくとさらに深く頭を下げた。挨拶を済ませ御者台に座ると、仕事の遅れを取り戻すように勢いよく馬に鞭を入れる。あたしは慌てて荷台に飛び乗った。
遠ざかっていく裏門に別の門兵が現れ、さきほどの兵士は門の中に姿を消す。あの報告は魔塔主のところまで届くだろうか。
「ジゼル、麻薬と魔法薬は別物だよね」
空の木箱の中で丸くなっていたジゼルが、ひょこっと顔をあげた。
「肝心なのはどう使うかだろう? どっちも毒にもなるし薬にもなる。さっきの話が気になるのか?」
ジゼルはケケケッと声をあげて木箱から飛び立った。白い小さな羽をパタパタと動かす姿は優雅とはいえず、一生懸命飛んでる感じがして逆に萌える。
「なら、とりあえずこの男について行くか?」
あたしが「うん」とうなずくと、ジゼルはまたケケケッと笑った。
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