1 死と空腹と16年

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1 死と空腹と16年

  私の人生は人に嫌われる事が前提だった。 「麦野さん!レジ打ちお願い」  私は人の目線や口元が見えない。だからいつも失敗ばかりする。ああ、まただ。  私が持っていたおぼんは、今はメロンパンに見えていた。  私を取り巻く世界が食べ物の形になったのは、9歳の時だった。普通の田舎に生を受けた私は、落葉遊びをして遊ぶのが好きな少女だった。この時点ではご近所付き合いとはいえ友達もいたし、何なら彼氏もいた。  一言で言えば少しだけ大人ぶっていた少女だった。  その日常が私に牙を向いたのは端的に言えば私の母の死からだ。その日は5月だと言うのに暑くて制服の隙間から汗が零れ落ちていた。木々の間を通り抜ける風すら生暖かく、私に涼しさを届けてはくれなかった。  家に帰ってきた時、まず最初に臭い生物(なまもの)の匂いがした。祖父が釣り上げた小ぶりのタイを見せてくれた時と同じ。玄関をくぐって隣の和室に入った。そこで母は縄で首を吊って死んでいた。顔は蒼白で苦しんでいて、鍋で煮詰めてアクだけを皿に取り出した様だった。  悲しみは無かった。寧ろいつも口煩く小言ばかりを吐き出す不満製造機から解放されると思うと胸がスッキリした。畳の上に広がる血痕の下には1枚の手紙があった。縄で首を吊ったのに血の跡があるのかと子供ながらに考えたが、当時の私の脳内CPUでは理解出来なかった。手紙の内容も同様に小難しい漢字の羅列で理解出来なかった。私に理解出来たのは『あなたさえうまなければ』という言葉だった。そこだけは平仮名で書かれていて理解に及んだ。  悲しみは無かった。悲しいほどに。  葬式の日程はすぐに決まり、2日後には母の死体とのお別れが決まった。ちょうど会場が空いてなくて少し予定が狂ったらしかった。私は母との思い出について思いを巡らせたが、味噌汁が不味かったのと、あまりお小遣いを貰えなかったことしか出てこなかった。  写真を見ればもう少し思い出はあるだろうが、今脳内で覚えていることはそれだけだった。 「大丈夫か?麦野」  学校に行くことになったが、そこで向けられた視線は同情や憐憫で、少し居心地が悪かった。良くも悪くも平凡な私は、多数の人間から好奇の目で見られることに慣れていなかった。 「大丈夫だよ」 「そうか?ならいい」  私の彼氏は細かな事を気にしなくて、それが心地いい。これくらい雑に生きたいと思わせる態度に憧れたことすらある。 「それにしても暑いね」 「……ああ」  一瞬間が空いた気がしたが、気にしないことにした。私も雑に生きるのだ。  葬式場には母の親族が沢山いて、みんな涙を流していたり、沈鬱な表情を浮かべていた。嘘っぱちだ。母の本当の性格を表面でも理解できたら、こんなに涙を流すこともないのに。  いかにも偉そうなお坊さんがお経を唱えている間に、焼香が流れてきた。数本刺さった線香から立ち上る匂いは病的に苦く、煙草の副流煙を口に突っ込まれたように喉を刺激した。死んでまで私を苦しめるか、母よ。  死体を焼くところを見れなかったのは少し残念だった。私が焼香で煙たくなっている様を泣いていると解釈した周りの大人達は、私に家に帰りなさいと命令した。 「見たかったなー」  個人的にだが、母の顔や皮膚が溶けて骨だけになる光景には興味があった。それは親子的な絆から最後に立ち会いたいというものではなく、ひたすらに自分本位なことだった。それを悪い事とは思わなかったし、いい事とも思わなかった。雑に物事を考えれば善悪など些末なものだ。 「別れよう」  彼氏からの別れを切り出されたのは、珍しく涼しい夏休みの日だった。 「いいよ」 「……お前さ、頭おかしいんじゃねえの?」  私の彼氏━━━名前は何だったか、が顔を歪めてこっちを見てくる。キスまでした間柄なのにその事もすっかり忘れているようだった。 「普通なら理由とか聞くと思うんだけど」 「そう?」 「それになんて言うか、お前の母ちゃんが死んだ時、お前笑ってたよな?」  笑っていただろうか。表面上は母の死を嘆く娘として振舞っていたつもりだった。そこを見抜くとはさすが元彼氏と言ったところか。 「そういうの許せねえんだよな。今まで育ててくれた母ちゃんとか家族に対して何の感情も持ち合わせてねえ奴。見てるだけで吐き気がしてくるよ」 「あたしはそうは思わないけど……そうなんだ」 「……今のも文句言ったり泣いていい所なんだぜ」  私の元彼氏は背を向けて家に帰ろうとした。靴に付着していた砂や泥が愛おしかったのに、今はその残滓も無かった。私たちの恋はそれまでだったのだろう。 「最後に1つ。落葉遊びなんて子供じみたことはやめろ。気持ち悪いから」  そんな捨て台詞を吐くと彼は公園からすごすごと退散していった。空は太陽が燦々と照りつけているのに気温だけは上がらない。今の私の心みたいな感じだ。  悲しみは無かった。  私の人生が本格的におかしくなったのは、父が夜逃げしてからだ。夏休みに入って8月に差し掛かる頃父はこの家を出ていった。私は最初のうちはいつか帰ってくると甘く見ていたが、8月の中旬に差し掛かる頃、私は父が逃げたことを知った。 「何か食べないと……」  冷蔵庫には何も入ってなくて、数種類の調味料とヨーグルトが2つあるだけだった。そしてそれらを全て食した頃には、私は空腹で死にそうになっていた。頭が空白になって涎が止まらなかった。今思えば、おじいちゃんとかに頼れば良かったと思う。でも頼れなかった。母を失って憔悴しきった彼らに頼ることは、私のプライドが許さなかったのだ。  そして私が幼心に考えついたのが、近所の知り合いに食べ物を恵んでもらうというものだった。父や母と親交の深い彼らに頼れば、少なくとも今のひもじい思いはしなくて済む。私はボロボロの靴を履いて玄関へと飛び出した。  ……結果は散々だった。まずチャイムを押しても誰も反応してくれない。運良く玄関を開けてくれたとしても、私も余裕が無い、ごめんねの言葉で閉められることになった。  私は初めて悲しくなった。こんなに苦しいのに助けてくれる人は1人も居ない。私は何か悪い事をしたのだろうか。空から落ちてくる大粒の雨は何も答えてはくれない。 『お前さ、頭おかしいんじゃねえの?』  元彼氏の言葉が家に帰るまでの間、頭の中でリピートし続けた。私は頭がおかしいのだろうか。頭がおかしかったら誰も助けてくれないのだろうか。  だから私は今から死ぬのだろうな。  家に帰って力が抜けた。空腹の最高潮が胃袋に辿り着く。吐きたくなる気持ちを抑えてトイレに駆け込む。喉のダムが崩壊して吐瀉物がトイレに降り注いだ。水を飲む。ダメ、収まらない。  遂に身体が動かなくなった。家の空気が美味しく感じる。食べ物に飢えている。口に入ればなんでも良かった。母の不味い味噌汁でもいい。父の焦がしたトーストでも良い。思い出の中には食料がいっぱいあるのに、現実には何一つ持ち込めない。  なんでも良いから、食べたい。 「……え?」  私は目を疑った。家の地面が、巨大なアイスクリームに見えたのだから。  私はそのまま意識を失った。  次に私が意識を取り戻した時、私はベットの上にいた。 「大丈夫ですか!」  医者らしき人物に声をかけられるが、顔が分からない。 「……どら焼き?」  私の目には彼の顔がどら焼きに見えた。体はソーセージに覆われていて赤赤しい。でも天井や柱とかはそのままの形で見える。私の目の変調は、彼の全身にのみ作用されていた。 「どら焼きが食べたいんですね」  どら焼きの顔をした医者がそう言うと、目玉焼きに命令をして、どら焼きを買ってきて貰った。暫くぶりの仄かな温かみとザラザラとした表面。私は無我夢中でかぶりついた。涙がどら焼きを濡らしてもなお、噛み続けた。  別に大した味でもなかったのに、私はそこに命を感じた。 そこから私の人生はこの不思議な症状との闘いの歴史だった。  この能力は時と場合を選ばない。というか選べない。私の意思に関わらず周りが食べ物に見えるのはかなりの恐怖体験だった。幸いだったのは、食べ物に見える範囲は日によって変わっていて、世界の全てが食べ物に見える時もあれば、生き物だけに作用される時もあった。生き物には必ず作用されるので、私は9歳の時から人の顔を見たことがない。私が最後に見た顔が名も知らぬおばさんだったのが悔やまれた。こうなると分かっていればもっと別の人を選んでいたのに。  医者に症状を打ち明けようとしたが、やめた。怖いというのもあったが、私は誰かに異常扱いされたくなかった。まともというレールから外れるのは、今の私にとってはこれ以上ない仕打ちに感じられた。 「麦野さん!」  私は祖父に預けられ、大学まで進学した。それでもなお強く感じたのは絶望感と孤独感だった。誰も私を助けてくれなかったあの体験が頭にこびりついて私を縛り付けている。そのせいで中学でも高校でも大した思い出が出来なかった。テスト中に紙がパイシートに見えて戦慄した記憶があるくらいだろうか。でも、それくらいだ。  そうして他愛もない生活を続けて今はカフェの店員としての生を全うしている。  私は、頭おかしくなっていないだろうか。自問自答を繰り返す中で、私は人というものが分からなくなっていった。私の過去は私だけの物で誰も共感など出来ない。出来たとしてもそこに待っているのは暖かい憐憫の言葉と私は分かる、なんていう下らない戯言だ。 「私は大丈夫」  独り言は独り言としての役割を終えるだけだった。  こんな不便だらけの症状も一つだけ利点がある。それはその人の好きな料理が分かると言うものだ。具体的に言えば人の好きな料理はその人の顔に現れる。その人の顔がどら焼きならどら焼きが大好き。バニラのアイスならそれが大好き。この特技は友達を作るきっかけとして役に立った。友達が出来ても関係が深まったかと尋ねられたら、答えられないが。 「麦野さん、早くしてくんない?後つっかえてるからさあ」 「……ごめん」  そして今私の悩みの種になっているのは、バナナ姿の同僚の存在だ。声は透き通っていて万人から好かれている。顔の表情は分からないが、あれだけのファンがついているのならきっと愛想の振り方も上手いのだろう。  彼女はことある事に私に嫌味をぶつける。「ジョセイノケンリ」とか「税金」とか私に関係ないことをあたかも私が悪いかのように話してくる。それが他の先輩や同僚にウケているのだからタチが悪い。私はこの職場では悪者で彼女は正義の味方っぽい。  クソ喰らえ、って言いたいけど、頭がおかしいと思われたくない。我慢するのみだ。  私はお客様の注文を聞いた後にレジ打ちへと回った。7人で経営しているこのカフェでは担当外の仕事が回ってくることは良くあることで、今回も例に漏れない。  ピコパコと子気味よく鍵盤を叩いていく。今は症状も落ち着いて、生物だけが食べ物に見える状態だ。レジの数字が見えることは、私がまともだと感じるための大事な儀式だった。 「合計で1838円です」  子連れの両親の顔はそれぞれミートボールとマグロだった。私はふと吹き出しそうになってしまう。だってミートボールもマグロもこの店には無いのに店に来る。1番好きなものを妥協してわざわざ珈琲を飲みに来る。なんというか、滑稽に感じてしまった。 ちなみに推定2歳の男の子は離乳食の顔だった。この年代で最も多い顔はやっぱりそういう類の物でこの子もそうだった。偶にスルメイカの顔をした子供もいて、そんなもの食べさせて喉詰まらせないかと心配したこともあった。  次のお客様は、ステーキ。その次はニンニク。その次は大福。好きな食べ物というのは案外被らない物で、見ていて面白い。  次の人の顔も面白い。髪の毛はちょっと茶色がかっていて身長は私より大分高い。私が160cm位だから、ざっと見ても20cmは私より高かった。目は優しい印象で鼻の位置も素晴らしい。そして口もまた……顔? 「え……?」  私はこの日の事を、未来永劫忘れないだろう。16年ぶりのの顔は新鮮でそれでいて美しかった。  駄目、こんな事考えたらまともじゃ無くなる。なのに頭はその言葉を指し示してしまった。  なんて美味しそう、だなんて━━━━━
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