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2 仕事帰りに
電柱がウインナーに見える。少しずつ症状が悪化している。早めに家に帰らなければ。歩調を少し早めた。
仕事が終わって歩いている間、私はあの顔について思いを巡らせていた。16年ぶりということを差し引いても、あの顔は本当に綺麗だった。
街灯が街を照らして都会のネオンライトがそれを彩っている。昔はあんなに憧れていた都会も数年も住んでいれば、嫌でも慣れる。綺麗な人や物はいつか飽きる。そんな風に思えるくらいには私は人生を悲観視してる。
そんな益体の無いことに思考を巡らせていると、ふと甘い香りが漂ってきた。どこか懐かしい様な。視線を巡らせるとそこに1つのパン屋さんがあった。店の外観は小洒落ていて周りには『開店記念』の文字と花が添えられていた。どうやら新しく出来た店のようだ。ちょうど小腹も空いていたので夕食代わりのパンを買おうと店に入った。
「らっしゃせー!!!」
店に入るや否や超弩級の声に出迎えられた。ここはラーメン屋かよと内心ツッコミを入れながらも、作られたパンたちを観察する。
一つ一つが丁寧に象られていて、素人目にも素晴らしいと思えた。特に惣菜パンは格別に美味しそうで、チーズがとろとろとしていて胃袋を刺激された。
私は3つくらいのパンをお盆(その時私は巨大な角餅に見えた)に入れてレジに運ぶ。他にも買いたいパンは沢山あったが、泣く泣く切り捨てた。
「チーズパンが1点!!!」
やっぱり声が大きい、とレジの近くのカゴにやけに不格好なメロンパンがある事に気づいた。形はとても歪で、私でももう少し上手く作れるのではと思える程だった。
「店主さん、このパンは何ですか?」
「ああ、これかい?うちのパンは奥さんとスタッフに作ってもらってんだけど、俺も何か作ってみてえと思ってよ。その第1弾って訳」
「……なるほど」
店主の顔はウィンナーパンだったが、表情を見なくても分かるほど期待感に満ち溢れていた。買わないと男泣きするパターンのやつだ。
「……じゃあこれも1つ」
「よっ嬢ちゃん!お目が高いね!!」
上手く買わされた様な気もするが、この褒め言葉に免じて許すとしよう。
数分だけの滞在だったが数時間居たと錯覚するくらい濃厚な店主だった。パンの味次第でまた来よう。
次は買い物だ。世界全てが食べ物に見える時は私は家に籠らざるを得なくなる。そうなった時用に食料を備蓄しておくのがベターだ。
この時間帯のスーパーは夜ということもあり人が少ない。あまり人と関わりたくない私にとってはいい時間だ。冷房も効いてるし。
カップラーメンに調味料。ヨーグルトにもやしとカゴに詰めていく。買う物はあまり具体的に決めすぎず、出来るだけ安いものを優先的に買うようにしている。お菓子は買わない。嗜好品に手を出すのは特別な時だけだ。
調味料コーナーを通って魚売り場に来て、焼魚用の鯖を買おうとした時、魚とは違う、美味しそうな匂いが辺りに漂った。パンでもなく魚とも違う、人間の本能を揺さぶる匂い。
この匂いは━━━━━━━
16年ぶりの顔との2回目の邂逅だった。やっぱり、美しい。どんな美術品にも遜色ない。私の元彼氏よりも近所のおばさんよりも父よりも母よりもバナナ姿の同僚よりも、美しい。語彙が足りないことを後悔するほどに。
カゴの中には大量のインスタントコーヒと、数本のミネラルウォーターが入っていた。1人で使用するにはあまりに多すぎる量だ。
彼の背中を後ろからついて行く。世間一般で言うストーカー行為と私も分かっている。それでも、私は草食動物を付け狙う肉食動物のように本能に抗えない。理性を抑えるリミッターは16年前に破壊されたのかもしれない。
レジをほぼ同じタイミングで通り抜け、角を利用しながらつけまとう。見つかって犯罪者のレッテルを貼られるよりも、彼に2度と出会えない方が嫌だった。都会の街灯もネオンライトも私のこの行為を応援してはくれない。これは私の欲望なのだ。
今思えば私は、欲望というものがない人間だったように思える。欲しいものが無かった、というより欲しいものが見つからなかった。何もかも手に入っていた16年前も、灰色の青春を送ったあの時代でも、並一通りのものは揃っていて、不自由しなかった。欲望は不自由から生まれるとはよく言ったものだ。夢も希望も絶望も幸福も感情も熱意も無い私の、はじめてのよくぼう。少し心躍った。
角を彼が曲がる。見れば彼の姿は無く、追跡が途切れてしまった。辺りは都会の喧騒感もネオンライトも無く、物悲しい場所のように感じられた。ここが田舎だと言われても信じてしまうくらい、田舎ぽかった。
「あの、すいません」
血が凍る錯覚を得た。振り返ると人の顔が少し微笑んだような格好でそこに立っていた。追跡がバレていた?とっくに気づいていた?最悪の想像が頭を駆け巡った。
「あ、あの……」
「ここら辺に新しく出来たパン屋があるらしいんですが、知っていませんか?」
「え?」
彼の顔は何も濁っていなくて、純粋な疑問をぶつけているように見えた。私の心配は杞憂だったようで、胸を撫で下ろす。
「はい、それならここら辺に……」
「……うーん、よく分からないので着いてきて貰えませんか?大丈夫です、変な事はしないので」
一瞬ナンパされた様に感じたが、彼はそんな事しないだろう。何故だか分からないが、そんな気がする。それにこんなイケメンなら、ナンパされた方が幸福だろう。
「いいですよ」
「ありがとうございます!」
快活な人だ。ますます好感が持てた。
「お仕事とか何されてるんですか?」
「私はカフェの店員として働いています」
「へえー」
「あなたは?」
「僕はしがない大学生です。バイトとかしたいんですけどね」
会話は思いの外弾んだ。てっきり何処かで働いているのかと思っていたので、大学生だと聞いた時は驚いた。久しぶりの人との会話は、私に熱や希望を巡らせてくれたように感じた。
田舎から都会に戻るとさっきまで無かったネオンライトの色が戻ってきた。しばらく他愛もない雑談を続けていると、目的地のパン屋に着いた……までは良かったが、肝心の店は閉まっていた。あの甘い匂いも無く店主のラーメンボイスは聞けそうに無かった。
「あちゃー。閉まってましたか」
「……私、パン持ってるんですけど入りますか?さっき買ったので……」
袋の中からチーズパンを取り出す。香ばしい匂いが辺りに広がる。
「大丈夫ですよ。無かったら良いと思ってたので……」
彼はにこやかに断る。その所作も丁寧で好感のメーターは既に振り切っていた。
「代わりと言っては悪いですが、名前を教えていただけませんか?せっかくの縁ですので」
彼からの要求に、少し戸惑う。簡単に人に名前を教えていいものだろうか?理性は止めろと訴えてくるが、本能が圧倒的に強い。
「麦野、って言います」
「麦野さん……いい名前ですね。なんというか美味しそうです」
「……あなたの名前は?」
「僕は美濃って言います。下の名前はいつかの機会で」
美濃。美しくて濃い。彼の存在にこれ程合う苗字があるだろうか。
「それじゃ、これで。ストーカーさん」
「え……」
「尾行するならもう少し上手くやりましょう。すんごい気配、感じましたよ!」
そう言って彼は去っていった。チーズパンの匂いはもうそこに無かった。
マンションの2階の部屋で服を脱いで部屋着に着替える。家に帰るまでに通報されるのか、なんて事をしてしまったんだと自己嫌悪に陥りかけた、が私は雑に生きると決めた身。これで捕まろうが少しも困ることは無い、と自分を勇気づける事で解決した。
惣菜パンは既に冷めていたが、その味は少しも損なわれることなく食べ切る事が出来た。他のパンも軒並み高評価だ。
しかし店主に半ば強引に買わされたメロンパンはお世辞にも美味しいとはいえず、何とか食べ切れたがもう買うことはないだろう。これからの成長に期待といった所か。
お風呂に入ろうとする直前、洗面台の鏡が私の顔を照らした。都合何百回も見たこの顔。やはりどら焼きの顔だった。この16年間、様々な美味しいものを食べてきたがこの顔が更新されることは無かった。あの時感じた命は容易な事で変えることは出来ないのだ。私は、上手く人生を生きれているのだろうか。
私は、まともだろうか。
鏡に映るどら焼きもこの問いに答えないまま、夜は更けていった。
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