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4 蜘蛛
「……今日はすみませんでした」
3時間のフリータイムが終了し、外が少し赤らんだ時に、美濃さんはそう切り出した。
「いえ、私も羽目を外しすぎました。謝るのは私の方ですよ」
「……じゃあ、お互い様ですね」
気丈に振舞おうとしていたが、肩が震えていた。私より高い身長も、心無しか縮んでいるように感じられた。
「……良かったら、メール交換してくれませんか」
「え?」
「お願いします」
真剣な眼差しでそう問いかけられる。本当は拒まないといけないのに、この気弱な生物を前に、心をほんの少し許してしまっていた。
「いいですよ」
「ありがとうございます」
「その代わり、連投とかしないでくださいね。迷惑ですから」
「出来るだけしないようにします!」
少しだけ元気になったのか、いつもの覇気が戻ったように感じた。出会って少ししか経ってないのに、「いつもの」なんて可笑しな話なんだけど。
スマホを互いに翳して交換している間、美濃さんは確かにそこにいた。
日曜日が明けて、平日が始まる。でも私は仕事場に行けないでいた。それは、
「うぅ……」
世界全てが食べ物に見える日がやって来たからだ。食糧を買い込んで良かった。なかったら、また空腹に喘ぐ所だった。
固定電話があると思しき場所に手を掛けて電話をかける。何回もこの行為をしてきたから、電話が抹茶アイスに見えても、問題無く電話をかけられる。
『どうしたの?』
「すみません。ペットが亡くなったので、休みを取りたいのですが。急にすみません」
『……了解。店員には私から伝えとくね』
店長の甘さに救われる。取り敢えず今は家に籠らなければ。気持ちが塞ぎ込むけど、自己憐憫に浸るなんて、まともじゃない。
私が殺したイマジナリーペットはこれで12匹。私の精神で飼っているから、嘘ではない。店長はきっと気づいているけど、今はそれでいい。
時刻は8時半を回って、お腹が鳴った。ちょうどいいし、何か口に入れよう。
いつもの籠(今日はチョコレート)に入れて置いた栄養補助食品とパンを食べる。食べ物から冷たい温かさを感じる。いつもの味が、私を幸せにしてくれる。記憶も青春も私を幸せにはしてくれない。お腹にたまらないものは、幸せたりえない。
「頭痛い……」
酩酊感と強い圧迫感を感じる。いつもよりこの症状を強く感じるのは、昨日の飲酒のせいだろうか。景色が判然とせず、ただ情報として処理されていく。こうした時は適当に寝るのが1番だと私は知っている。
時計の音が静寂の中に鳴り響いている。呼吸しか出来ないこの狭い部屋で、私は羊を数える。本当は効果が無いとか、英単語を数えるのが良いとかの情報を私は信じない。世間やネットの世界で何を言っていようとも、私だけが世界で、常識たり得るのだから。
頭に蜘蛛が入り込んでいく。粘着質でどろどろとしたそれは私の頭を支配しようとしてくる。脳幹に到達して全身を覆い、自分を分からなくさせていく。私は抵抗しようとするけど、その蜘蛛は囁いてくる。「君は人と違うようだけど大丈夫なの?」って。私は平気なフリをして「一般」を演じる。寄生虫に悟られないように、私を演じる。
その蜘蛛の名前は、常識という。
隣の肉塊から着信音が鳴る。時計を見れば12時を過ぎていて、寝ていたらしい。携帯画面は見えないけれど、電話くらい目を瞑っていても取れる。
「……もしもし」
「もしもし、美濃です」
「……私電話番号教えてましたっけ?」
「教えてましたよ、酔いながら大声で」
私は昨日の自分を恥じた。酒の力があったとは言え、あまりにも不用心すぎる。
「どうして電話を掛けて来たんですか?」
「今日の大学が休みなので、コーヒーでも飲もうかと店に寄ったら麦野さんがいなかったので、何かあったのかって」
「それだけの理由で掛けて来ないでください。今病気でしんどいんですから」
わざとらしく咳をする。早く電話を切ってもらって、睡眠の世界に入りたいのに。
「病気!?それは大変ですね。何か食べ物とか必要ないですか?」
「大丈夫ですから、切りますね」
「え、ちょっ……」
電話を叩き切る。ただでさえ肉体も精神もボロボロなのに、これ以上疲労を重ねられるもんか。布団に入り直して、羊を数え直す事にした。
心配してくれた事が嬉しかったなんて、寝れば忘れる。はずだ。
「体調、どうですか?」
20分後、美濃さんは私の家のリビングに立っていた。袋には大量の水が入っていて重そうだった。
「……どうして私の家が分かったんですか?」
「大声で言っていたからです」
「……カラオケで?」
「カラオケで」
昨日に今すぐ戻りたい。戻って過去の私の頭をマイクで殴打してやりたい。個人情報の取扱い方を懇切丁寧に叩き込んでやりたい衝動に駆られた。
「まあ寝ててください。お粥とか作りますんで」
「……料理できるんですか」
「ググります」
彼の機械頼りの調理の音を傍目に、この状況について考察してみる。今の状況は密室に男女が1つ屋根の下にいる。つまり、いつ襲われてもおかしくないということだ。私に魅力があるとは思えないが、可能性と想像なら無限大だ。
「ケダモノ……」
「何か罵倒しませんでした!?」
彼の絶叫は、時計の音を搔き消した。
「どうぞ」
「これは……」
お世辞にも美味しそうとは言えないお粥が運ばれてきた。べっちゃりとしていて、噛めば悲惨な味が待っている事が直感させられた。米が米の形を保っていないことも、それに拍車をかけていた。
「食べないんですか?」
美濃さんが期待の眼差しを向けてくる。純粋過ぎるその目が、私に食事を促してくる。
「……じゃあいただきます」
意を決して、口に運ぶ。歯と舌を使って食事を楽しむ、フリをしながら2回も噛まずに飲み込む。これが期待に応える最高の手段なのだ。許して欲しい、米たちよ。
「ウンオイシイデス」
「凄い棒読みですけど……」
「米の甘みが十分に引き立っていて、店に出せるレベルですよ」
「……そうですか?なら良かった」
美濃さんはマルチ商法とかに引っかかるタイプだろう。何となくそう思えた。
お粥の量はそれほど多くは無かったので、意外とあっさり食べられた。茶碗に残った透明な液体は見て見ぬふりをしたけど。
「それにしても、何も無い部屋ですね」
「あんまり物欲とか無いんですよ。お金もありませんし」
「人の名前も覚えないし、物欲もない……。人に興味とか無いタイプですか?」
「まあ、そうですね」
最近買ったのは日用品ばかりで、趣味とか娯楽に使ったお金は無いに等しかった。楽しみは、食事くらいだろうか。
「でも僕の名前は覚えてくれている。なんか、不思議ですね?」
「……たまたまです」
布団に顔を埋めてそう答える。美濃さんがたまたま人の顔をしていただけで、それ以外に彼に興味なんて無い。
「訴えたいなら早くして下さい」
「と言うと?」
「私の反応を見て楽しんでるんでしょう。ストーカーをしていつ訴えられるかビクビクしてるのを」
「いや、そんなこと……」
美濃さんはそこで口を噤んだ。口をきつく結んで、目線が上を向いていた。
「とにかく訴えるとかそんな物騒な事とかしませんから」
「証拠は?私は毎秒怯えてますよ。人生のレールからいつ外れるんだって」
「大丈夫ですよ。麦野さんがもしそうなったら、僕も一緒に外れますから」
「……そこまで親しくなった覚えはありませんよ」
被害者が加害者と一緒の罪を被るなんて、おかしな話だ。でも表情筋が笑顔の形になるのを必死に留める。こんな事言われて心が安らいでしまったら、美濃さんが必要だって自白しているようなものだ。
「人生って何だと思いますか?」
私は苦し紛れに話題を変えた。
「え?」
「いつか灰になるだけなのに、どうして私は生きるんだろうって、よく思うんです。こんな事考えるのはまともじゃないってわかってるけど、考えるのをやめられないんです。戯言に付き合ってくださいよ、美濃さん」
9歳から考えていた、答えのない問い。永遠の謎。地球とは何か。宇宙とはどうして存在しているのか。考えるだけで頭が割れて、知能が噴火しそうになる。
「ちょっと難しすぎません?」
「もし答えが見つかったら『親しく』なってあげますよ」
「答えがないクイズが1番凶悪なんですよね……」
美濃さんは思考を巡らせてこの問いについて考えている。布団で寝ているふりをしながら時計の音と共に回答を待った。
「……あくまで僕個人の考えですけど」
そう前置きして美濃さんは話を続ける。
「楽しいからじゃないですか?」
「え?」
「人生って、意味とか理由とかそういうのを考えるんじゃなくて、ただ楽しむものだと思います。純粋に楽しめばいい」
「楽しむ……」
人生を楽しむ。単純で分かり易い言葉。でも難しい、呪いのような言葉。
「人生の意味なんて必要ないんですよ。人に迷惑かけない程度に自堕落に生きていれば、僕は幸せですけどね……ってちょっと重い内容でしたね」
「納得はし難いですけど、理解は出来ます」
何も無い私には、手に入らない幸せということが分かった。痛いほどに。
「楓です」
「え?」
「私の下の名前。麦野楓っていいます。」
私は突発的に、自分の下の名前を口走っていた。頭を使わない、愚かな行為。でも後悔はない。
「楓……楓楓楓」
「何回も呼ばないで下さい」
「楓さんらしくて、良い名前です」
楓らしさとはというツッコミは置いといて、良い名前と言われたことは純粋に嬉しかった。親の功績で1番誇れることは、私に変な名前を付けなかったことだろうから。
「それじゃ僕はお暇しますね。早く寝て、ゆっくりと休養して下さい」
「美濃さんが来なかったら、もっと早くに休めたんですけどね」
ハハ、と美濃さんから苦笑が漏れた。靴を履く微かな音と、ドアの開錠音が聞こえた。
「名前を教えてくれたって事は、親しくなれたって事でいいですかね?」
「勘違いしないで下さい。たまたまです」
「たまたまって……」
バタリ、と扉が閉まる。そのまま私は布団に籠って、羊を数え直した。
スマホから目覚ましが鳴る。薄ぼんやりと周りを見回せば、チョコが壁になっていた。どうやら峠は超えたらしい。時計を見れば午後の5時を過ぎていて、腹の音が鳴き出す時間だった。
「何か食べようかな……」
調理台には美濃さんが置いていったパンがあった。1つ明らかに歪なパンがあったので、店主ラーメン屋型パン屋に行ったのだと直ぐに分かった。パンを取り出そうと袋を開けた瞬間、シンクの水溜まりと目が合った。私は、異変に気づいた。
「え……」
私はキッチンを回って洗面台へと走る。
大きな鏡にはべちゃべちゃのお粥が写っていた。
蜘蛛が頭で、胎動していた。
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