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5 歩く死体と花火大会
休みを貰った2日後に土曜日が到来した。外では小学生たちが無邪気に遊んで、夏休みを享受していた。蝉の声が全盛期に入り、私が住んでいる家では防御しきれない大音量ぶりだった。私は虫からの逃走を兼ねて、近所の公園に足を運んだ。
家から徒歩10分にあるこの公園は都会では珍しいくらい様々な花が乱舞していて、目の保養になる。湖も近くにあるから暑さも少しは和らいだ。打ち水の究極系みたいなものだ。
私は家に無造作に積まれた小説の1冊を取り出して、木漏れ日を浴びながらベンチで読む。夏だから当然だけど、落葉は無かった。
本の内容はゾンビが出現した現代の東京で、互いに愛を誓い合った高校生が戦いを繰り広げるものだった。心臓と言う単語を数えると本の3分の2までで567回出てきて、内臓への執着を感じられた。序盤から中盤は一般的なゾンビ物だったけど、終盤になるとロケットランチャーとか腕が5本ある強化型ゾンビとか設定が突拍子も無くなってしまった。いくらなんでも、幻想に過ぎた。
コンビニで買った鮭のおにぎりをつまみながら最終章へ歩を進める。次々と死に絶える仲間たち。腕が9本に増えた最強のゾンビの増殖。最後の希望の列車の消失。逃げ場が消えていき、そして━━━━━
「こんにちは、いい天気ですね」
ゾンビの世界から意識が引き戻されると、そこには人がいた。私の中で人扱いは1人しか出来ないので、つまりそれは美濃さんの事だった。
「……美濃さん」
「楓さん、何読んでるんですか?」
意図せず下の名前で呼ばれる。鼓動の加速を押し殺しながら、表面を繕う。
「他愛もない本ですよ。ゾンビが実在していたらって話です」
「ゾンビですか。ホラー苦手なんですよね」
「この本はホラーって言うよりアクションの要素が強い感じです。意外と面白いですよ」
私は美濃さんに小説を渡して読書を薦めた。その間に私は食べかけのおにぎりと紅茶で息を整えていた。美濃さんの長い睫毛が本の方向を向いている。読む所作も美しく、一端の読書家の風貌を覗かせていた。
「……ふふっ」
「どうかしました?」
美濃さんが掠れた笑い声を漏らした。
「1章を読み終えたんですけど、ゾンビが出る前から内臓って単語がいっぱいあって、作者の名前も内山波蔵って内臓って単語が隠れてて、内臓好きなんだろうなって」
「美味しいですもんね、レバー」
絶妙に話は噛み合って無かったけど、私の考えていた事と被っていた事に少し嬉しさを覚えた。
「でも話は分かりやすくて面白いですね。高校生の男女が愛してるって言い合うシーンは鳥肌モノでしたよ」
感想を言っている間も表情はコロコロと変わって、見ていて飽きないなと私に思わせた。
「この後どうなるか楽しみです!この本借りていいですか?」
「良いですよ。丁度読み終えましたし」
腕時計を見れば昼の1時を回っていて、湖の冷感も少し落ちてきたように感じられた。美濃さんは本を少し高そうな何かのブランドのバッグに入れた。
「っとと、本題を忘れてた。今日楓さんに会いに来たのは理由がありまして……」
「理由?」
そこで美濃さんは背筋を正して、私と向かい合った。息を継いで真剣に話しかけてくる。
「……僕と花火大会に行きませんか?!花火大会とか誰とも行った事無くて誰かと行きたいんです!」
「……良いですよ」
「もし断ったらストーカー被害の事をそれはもう過大に誇張して警察に通報しますよ……っていいの!?」
美濃さんはベンチから立ち上がろうとして盛大にコケた。本が汚れてないか心配だ。お尻を叩きながらベンチへと戻ってきた。
「別に予定も無いですし」
「……でも前の買い物の時はあんなに渋ってたのに」
「元々1人で行く予定だったんですよ。それに誰とも花火大会に行ったことのない美濃さんへの慈愛を出しておいて、罪を軽減しておくのも悪くないと思いまして」
本当はそんな予定無かったけど、時間が空いているのは本当のことなので嘘50%真実50%でセーフ判定にして欲しい。
「でも浴衣は着ませんからね」
「……分かりました」
一瞬間があったような気がするけど、気のせいだろう。美濃さんは顔を綻ばせていた。当日の段取りと集合場所を確認すると、今日はお開きになった。
「この本は明日には返しますので」
「分かりました。楽しんで下さいね」
美濃さんが軽くスキップしながら退散していくのを見ながら、私は鳥の鳴き声に耳を傾けた。鳥の種類は分からないけど、何かを伝えあっている。鳥たちも愛の告白をしているのだろうか。
愛を誓い合った高校生たちは最後に死んだけれど。
花火大会の日になると提灯や屋台が立ち並んでいた。夕方の5時半に集合予定なのだが、中々美濃さんが来ない。前もこんな感じだったなと少し呆れていると、1人の筋肉質な男ががこっちに寄ってきた。黒いTシャツに髑髏のブレスレッドと見た目からヤバいオーラが伝わってきた。顔は野菜みたいだった。
「お嬢ちゃん1人?良かったら俺と遊ばない?」
「人を待ってるので」
「いいじゃんそんな奴。絶対俺と遊んだ方が楽しいって!」
そう言って私の手を引こうとしてくる。筋肉の力に抗えず、そのまま私は奥へ━━━━
「ごめんなさい、待ちました?」
「あ……」
美濃さんが男の腕を振り払う。男の身長は低くなかったが、美濃さんの圧倒的高身長の前には形無しだった。
「人の彼女に手出さないで下さいよ」
拗ねたような口調でそう言うと、男はすごすごと退散して行った。思ったより小心者だったらしい。
「……大丈夫ですか、楓さんって痛っ!?」
「彼女になった覚えはありませんよ」
美濃さんの頬を強めに平手打ちしておく。軽快な音が辺りに響いた。
「ヒリヒリする……」
「何か?」
「いえ、何でも!」
美濃さんの頬が赤色に染まっている。私もほんの少しだけ赤色に染まっていた。その理由は絶対に言えないけれど。
花火が打ち上がるのは1時間後なので適当に屋台を散策する事になった。会場は広大で専用の地図がないと絶対に迷うくらいだ。
「あれ買ってきていいですか?」
目の前には様々な屋台が並んでいて、フライドポテトやたこ焼きやとうもろこしの匂いが混ざりあって、香ばしかった。人間の3大欲求の1つである食欲は、こんな状況に滅法弱い。
「……買いすぎて無いですか?」
「たまたまです」
食べ物を両手に抱えきれないほど買ってしまった事も、3大欲求のせいなのだ。私は悪くない。
「僕は食べられませんからね。処理はそっちでお願いします」
そうぼやく美濃さんの手にはスムージーが握られていて半分まで飲まれていた。食べ物は買わないつもりらしい。
「今日はお酒とか飲まないんですか?」
「今日は花火の後にレポートを作成しないといけないんです」
「私が飲んでも渡しませんからね」
「飲まないでください。もうあのだる絡みは嫌だ……」
何かのトラウマがあるのか美濃さんの全身が震えていた。ちょっと笑えた。
とうもろこしを咀嚼しながら辺りを歩く。見物客たちは全員食べ物の顔をしているから、人混みは嫌いだ。
私は過去に1度だけ友達と花火大会に来たことを思い出していた。中学生の時に1人だけ仲の良かった友達で、快活な性格だったのを覚えている。名前は忘れたけど、私の名前をよく呼んでくれた。あの時は世界が食べ物に見える頻度が多くて、私は花火が打ち上がる前に帰ってしまった。顔は見えないけれど悲しがっているのは分かっていた。だから私は美濃さんと同じように初めて花火を見る。
「そう言えばゾンビの本読みましたよ。まさか最後が爆発オチとは思いませんでしたけど」
「主人公も死んじゃいましたしね」
美濃さんは昨日とは違う灰色の手持ちバックからその本を取り出した。
「こんなのほほんとした表紙なのにこんな結末になるなんてきっと誰も分かりませんよ」
表紙には2人の高校生が手を繋ぎながら歩くシーンが描写されていて、一見すれば青春ラブストーリーを思わせるものだろう。
「ゾンビって怖いですよね」
「もし自分が噛まれたらどうしますか?ちなみに私は人に迷惑をかけないように遠くで野垂れ死にます」
「僕も同じ感じですかね。特効薬とか無さそうだし」
小説を語っている間は私の中の蜘蛛はお休みしていて、空想という常識から外れた世界にいることが出来る。人とこうやって好きな物を共有できるのは良い事だと私は思う。
「もし美濃さんが噛まれたら痛くないように倒しますから安心して下さい」
「僕と一緒に逃げてる前提なんですね」
「……まあ、仮定の話なので」
いつの間にかとうもろこしは黄色の色彩を失っていた。私と美濃さんは川沿いの少し開けた場所に陣をとった。アナウンスが流れて花火が打ち上がる準備が始まる。
「花火を見るのは初めてです。テレビとかを除いたら本当に1度もないんです」
美濃さんは興奮を隠しきれない様子で私に語りかけてくる。スムージーは飲みきっていて、手には麦茶があった。気温も下がってきて比較的涼しい花火大会になっていた。
「何か食べますか?」
「だから処理は勘弁って、ええ!?あんなにあった食べ物がき、消えてる……!」
とうもろこしとフライドポテトとウインナー2本とたこ焼きは既に私の胃袋に収まっていて、今持っているのはイカ焼きと焼き鳥2本だけだった。食い意地が張っていると思われたのだろうか、美濃さんは顔面蒼白だった。
「……いやいいです。今日はお断りしておきます」
美濃さんはそう断った。食欲のない人だ。
アナウンスの声に熱が宿り始め、私は花火の到来を悟った。そして巨大な音と共に花火が打ち上がる。赤色に黄色に緑色の小型の花火が次々と打ち上がる。火薬の匂いが鼻腔を刺激した。
「意外と火薬の匂いって遠くまで届くんですね。びっくりしました」
「花火の感想より先に火薬の感想を話す人って人生初めてです」
美濃さんは目の前の花火に熱中していた。本命の巨大な花火が来たらどんな笑顔で見るのだろうか。きっと花火よりも満開のいい笑顔だろう。
花火も中盤になって大きな花火の出現回数も増えてきた。花火1発の値段はそれなりにするそうなので、お金が打ち上げられているみたいだと感じた。純粋な感想が抱けない私にちょっと嫌気が差した。
「どうですか?花火」
「想像の数倍の音と輝きですね!夏だけじゃなくて季節ごとにすればいいのにって思いますよ」
「1年に1回だからこそ綺麗って思うのかも知れませんね。これ以上の頻度で打ったら騒音とか苦情が来ますよ」
「……なるほど」
花火の密度が上がってきた。周りの観客の熱気も高まってきた。そろそろフィナーレだろうか。
「もう終わるんですね……早いなあ」
「楽しい時間はあっという間に過ぎますね」
「楓さんは楽しかったですか?」
「……まあ、それなりに」
細かい花火や柳型の花火が周りに添えられ、大きな花火が主役として惜しげも無く打ち上げられている。生け花を思わせるこの芸術は、消費期限5分の短い泡沫だ。だからこそここまで美しくなれる。
「今僕は、青春してます」
「え?」
「花火大会を見ながら誰かと話している。これだけでもう、幸せです」
私に笑いかけてくるその顔は、花火よりも美しかった。私の内臓がどくんと跳ねた気がした。目の前の花火も観客の騒音も入ってこない。確かに今此処には美濃さんと私しかいなかった。
「これ以上の幸せなんて幾らでも見つかりますよ」
「幸せは質じゃなくて量ですよ。細やかな幸せを何層にも重ねるのがいいんです。」
「ミルフィーユみたいに?」
「そう、ミルフィーユみたいに」
「……美味しそうですね」
そう言って私たちは笑い合う。火薬の匂いはもう私には届かなかった。
観客が散らばり始める。終了のアナウンスが流れて、現実へと舞い戻っていく。泡沫は弾けるのが運命なのだ。
「良かったですね」
「はい、良かったです!」
人混みの流れに逆らわずに歩く。屋台に並んでいる人も少なくなっていて、本当に終わったのだと今更ながらそう思った。
「最後に1つだけ言いたいことがあります」
「何ですか、美濃さん」
「……途中で花火の値段が気になってお金が飛んでいるみたいって思っちゃいました」
申し訳なさそうに美濃さんは言う。純粋に花火を楽しめなかったことを気に病んでいる様子だった。
「……馬鹿じゃないですか?」
言葉に反して微笑みが表情を作った。私は確かに、幸せだった。
花火大会が終わった翌日の仕事はいつもの3割増しくらいの憂鬱で時計を頻繁に確認していた。平日の客は社会人が多く、注文も大体同じだった。美濃さんは今日は顔を出していない。大学の授業が忙しいのだろう。
昼休みをくぐり抜け定時がやってくる。仕事を終えようと荷物をまとめていると、バナナ姿の店員がやってくる。
「ちょっと時間ある?」
声色に怒気が内包されていて、怖気が立つ。何か気に障ることをしただろうか。真面目に勤務をしていたはずなので、心当たりもなかった。
裏の部屋に通されて、2人で向かい合う。足を組みながらこっちを睨みつけてくる。目線が分からなくてもそんな事は分かりきっていた。
「これ、何?」
見せられたスマホの中身に私は喉が渇く感覚を得た。そして震える。
そこには花火大会を楽しむ私と美濃さんの姿が映し出されていた。互いに笑っていて、幸せそうだなと他人事のように感じられた。
私の中に確かにあったそれが、崩れようとしていた。
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