6 落葉と呪い

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6 落葉と呪い

 失敗した。私と美濃さんの関係を尋ねられた時はまだ冷静でいられた。関係は少し複雑だったけど、友人の範囲でカタがつくと思っていた。なのに、あんな言葉を聞かされたら誰だってカッとなってしまう。   私は初めて人を殴打した。  土曜日の朝に私は家のドアを開ける。携帯ドリンクと薄手のジャージを着て私はランニングに出かけた。最近は食事を精を出しすぎていてお腹周りが気になる。それだけの事だ。  都会の早朝は思いのほか静かで心地いい風が私と街路樹を通っていく。汗が額に張り付いて光に晒されている。運動は苦痛の連続だと誰かが言っていたが、私の場合は身体的な苦痛よりも汗で服がベトベトになる方が辛かった。私は思考を保つために5日前の事を思い出すことにした。  職場の空気は地獄そのもので声にこそならないものの村八分の様な状況だった。具体的に言えば話しかけても無視されたり自分のミスを私のせいにしたりなどだ。子供の喧嘩か。  この一週間は生きた心地がしなかった。正直悔いている。美濃さんの事を引き合いに出されて自制心が効かなかった。それが1番悔しい。だってまるで━━━━━ 「こんにちは楓さん」  右耳の付近から声がする。振り返るとそこには水色の自転車に乗った美濃さんがいた。今は朝の6時なのに、いつもと変わらない美濃さんがそこにいた。 「ジョギングですか?楓さん」 「……」  楽しそうに自転車を漕ぐ美濃さんを尻目に私は走る。今の私の悩みの種の1つに構っている暇はない。というか面倒臭い。 「聞こえてますかー!」 「聞こえません」 「聞こえてるじゃないですか!」  いつの間にか構ってしまっていた。美濃さんは自転車を降りて押し歩いていた。風が心地いい。 「どうしてこんな早くに自転車を漕いでいるんですか?」 「ここら辺に楓さんがいるかなって思ってたら当たっただけですよ」 「それってストーカーって言うんですよ」 「ストーカー経験者に言われても説得力ないですよ……」  空から水玉が降ってきた。天気予報は快晴と言っていたけれど予報は外れたらしい。 「これから朝カフェに洒落込もうと思うんですけど楓さんもどうですか?」 「……美濃さんの奢りなら」  「喜んで!」の快晴みたいな言葉と共に私は歩みを進めた。こうやって美濃さんの言葉で何かを始めるのはいつものことなので慣れてしまった。いい方向にも悪い方向にも言えることだけど。  5分ほど歩いていると古民家風の小洒落た喫茶店に行き当たった。店に立てかけられた看板1つにも絵だったり可愛い文字だったりと細かな気遣いを感じられた。  店内に入ると可愛いぬいぐるみに出迎えられた。全体的に落ち着いた印象なのに所々に店主の拘りなのかぬいぐるみが置かれている。どこかちぐはぐな印象だった。 「ご注文はお決まりでしょうか?」 「アールグレイの紅茶と抹茶パンケーキで」 「僕はブラックコーヒーで」 「当店は豆を選べるのですがどうしますか?」 「じゃあエチオピア産で」  エチオピア産の豆。バナナ姿の店員が嬉々として話していたあの豆だ。何故かモヤモヤする。 「朝からパンケーキって……太りますよ?」 「さっき走ったのでプラマイゼロですよ」  そんな冗談を叩きつつ外の様子を見る。雨足はさっきより強まっていて当分は外に出たくない。ガラスに写った私を見て遅すぎる理解を得た。 「今更ですけど私ジャージでしたね」 「服なんて着れれば何でも良くないですか?」 「淑女は服装に気を遣うのがマナーなんですよ」 「別に何着ても可愛いですよ」 「……誰にでも言ってますよね?」  美濃さんは恥と言う言葉を知らない。可愛いなんて始めて言われたのに不思議と悪くない。悔しい事が最近は多すぎる。私は少しの苛立ちを抱えたまま言葉を紡ぐ。 「美濃さん、別れましょう」 「え?いきなり別れ話ですか?」 「私と美濃さんは一緒に居てはいけないんです。同僚に花火大会の件がバレてしまいました」 「それで?」  美濃さんは話の先を促してくるが、私が伝えたい事は言い切ってしまったので声が出てこない。 「僕と楓さんが一緒にいて不都合があるんですか?」 「……私に不都合があるんです。職場で働きづらくなりますし……」  雨足が更に強まっていく。雨音が窓を貫通して私の耳に届く。少しうるさい。 「どうして働きづらくなるんですか。個人の勝手でしょう。誰かに強制される関係なんて苦痛です」 「……私には仕事があります。あの店以外私には何もありません。私の将来がかかっているんです」  パンケーキと紅茶とコーヒーが来ても私達は衝突し続けた。雨足は止まない。かなりうるさい。 「呼吸が止まりそうです。楓さんの口からそんな話、聞きたくなかった」 「勝手に止まってください。もう知りません」  売り言葉に買い言葉だ。些細なすれ違いはいつの間にか互いへの文句になってしまっていた。 「美濃さんは私に何を求めてるですか!私から得られるものなんて何も無いんですよ!」 「一緒にいて楽しいからですよ!」 「何が楽しいんですか!私は根暗でどうしようもない人間でしょう!」  私の醜さを美濃さんは知らない。自分の母が死んだ時に内心喜んでいたような、浅く脆い精神性しか無いことを美濃さんは知らない。知らない。知らないのだ。 「……もう構わないで下さい。美濃さんはまだ大学生で青春切符を持っているんです。もっと有用な時間を過ごして下さいよ」  美濃さんは今が大切な時期である事を知らない。社会人になれば日々の忙しさに忙殺されてやりたかった事が出来なくなる。そんな後悔はして欲しくなかった。 「いつか灰になるんだから、後悔なんてしませんよ」 「……意味が分かりません」 「いつかの楓さんが言っていた、呪いの言葉です」  そう言って美濃さんはコーヒーに口をつける。私も紅茶を飲む。甘くて美味しい。 「僕にとっての幸せは楓さんなんです。今更離れたくなんてないです」 「そんなの、美濃さんの勝手でしょう」  紅茶に映る私の顔はべちゃべちゃのお粥で、何故か泣きたくなる。この顔を見る度に私は美濃さんの色に染色された様な気分になってしまう。醜くて汚いその色の名前は今はない。知ろうとも思わない。 「まだ一緒にしたい事があるんです。ゾンビの続編の話だって紅葉狩りだって雪合戦だってまだしてないんです。やりたい事だらけなんです」  美濃さんの口から溢れ出る希望は私には眩しすぎる。目が焼けて現実を見えなくさせる。それが怖い。私は恐怖に任せてパンケーキを食べ切った。 「……したい事があるんです。付き合ってくれますか?これに耐えられたら隣にいることを認めてあげます」  あれだけ降っていた雨は止んでいた。太陽が差し込んで物質的な意味で目が眩しい。今日は忙しない天気だった。 「……ここは?」 「私の好きな場所です」  私の家から2分程度の子供用の公園に足を運んでいた。私は欲望に任せて落葉を掴む。そして空中に投げた。 「……これは」 「私の趣味です。これをすると気分が落ち着くんです。落葉と一体になって漂っている感じなんです」  美濃さんの目が驚きに満ちている。 「昔の彼氏にこれをしたらやめろって言われてもうやっていないんですけど、やっぱり楽しいですね」  小学校の彼氏が言った本当の意味の呪詛。あの言葉が私の脳内を貫いている。16年前のことなのに昨日の事のように思えるのは、苦しいからだ。 「あたしの事気持ち悪いって思いますよね。いつまで子供じみたことしてるんだって、思いますよね」  私は下を向いて話す。もし美濃さんが侮蔑的な目をしていたら耐えられない。 「……ふふ」 「え?」  上を向くと美濃さんは笑っている。微笑みは笑顔になって、私を見ている。そして美濃さんは落葉を掴んで投げた。 「楓さんがたまにあたしって一人称が変わるのが好きなんです」 「美濃さん……」 「落葉遊びって初めてしたんですけど、意外と面白いですね」  無邪気な笑顔。そこに(よこしま)な感情は1ミリも入っていない。  私たちは子供たちが遊びに来ても、落葉を投げ続けた。本当に、本当に楽しかった。 「ぜえぜえ……」 「美濃さん、動きすぎです」  ベンチに腰掛けて会話する。美濃さんは腰をさすって顔が引き攣っていた。 「しばらく運動は勘弁です」 「おじいちゃん……」 「何か言いました?」  互いに笑い合う。喫茶店での喧嘩が嘘みたいだ。 「隣に居ていいんですよね?」 「考えておきます」 「なんか話違くないですか?」  私と美濃さんが隣に居ていいのか分からない。でも居たいとは思う。困った感情だ。 「創葉です」 「え?」 「僕の名前です。今更ですけど。創作の創に葉っぱで、創葉です」  美濃さんの名前。葉を創る。なんていい名前なんだろう。 「創葉……創葉創葉創葉」 「何回も呼ばないで下さい」 「創葉さんらしくていい名前です」  この名前ならすぐ覚えられそうだ。分かりやすいし。 「どうして名前を教えてくれたんですか?」 「……呪いをかけたかったんです」 「え?」 「僕の事、忘れて欲しくないから」  名前で呪いをかける。美濃さんの思考はよく分からない。 「呪いなんて、とっくにかかってますよ」  私を染色した色が、朱色に染まったように感じられた。
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