7 弱アルカリ性の懺悔

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7 弱アルカリ性の懺悔

「1480円になります」  仕事をしている時にクスクスと笑われる事が増えた。前からその兆候はあったのだけれど、花火大会の件から露骨に態度に現れていた。午後の3時くらいになると店員も暇になるので、店内は静かだ。客の声という防壁も今は無に等しかった。  夏休みも佳境に入っていて、カフェは中高生でごった返していた。買ったコーヒーやココアを写真で撮ってインターネットに上げるのが流行りらしい。私もなにか上げてみようかなと思うけれど、きっと誰にも見られないだろう。  最近は世界が食べ物に見える頻度も減っている。もしかすると精神の負担が軽減されていて、症状が緩和されているのかもしれない。その原因はきっとおちゃらけた大学生のお陰だろう。私は頬を少し緩めた。  店長の挨拶も終わって定時になる。店員の悪口を耳に挟む前に私は店を出る。外は赤に晒されて暗転の間際だった。このまま歩を進めて━━━━━━━━━━ 「おい、元気にしてたか?」  後ろから声が聞こえた。私はこの時振り返ってしまった事をずっと後悔することになる。でもこの時の私は、浮かれてた。 「……誰ですか?」 「俺だよ俺。翔吾だよ!」  翔吾?そんな名前を聞いたことは無いし、あったとしても覚えてないと言うことは興味が出なかったと言う事だ。でも次の台詞で私の平穏は瓦解する事になる。 「小学校の時の元彼だよ!覚えてねぇのか?」  私は私にトラウマを植え付けた男との、16年ぶりの再会を果たしてしまった。  果たして、しまった。  空の暗転は終わって真っ黒になっていた。私たちは近所の公園のベンチに腰掛けてコーヒーを飲んでいる。自動販売機でいつも買っているカフェオレは、今はどんなコーヒーよりも苦く感じた。誘蛾灯の明かりだけが辺りを照らしていた。 「久しぶりだな、麦野」 「本当だね」  25歳になった彼は身長があの時より30cmは伸びていて、筋骨隆々の印象を受けた。喉の喉仏に現れているように一段と低い声になっていて、昔の声しか知らない私は違和感を感じた。格好は社会人真っ盛りのスーツで顔は何かの魚だった。 「こんなに暑いのに熱いコーヒー買うなんて変だな」 「これが1番落ち着くの」  心がザワつく。それは恋の予兆とかそんな陳腐なものじゃ無くて、偏にあの恐怖を無意識にプレイバックしているからだ。本当は良い思い出もあったはずなのに。恐怖を胃に流し込むようにコーヒーを流し込む。喉が震えた。 「まさかこんな所で再開するなんて、世の中は分からねえな」 「本当だね」  同じ台詞しか声に出ない。怖い。逃げ出してしまいたい。  私達は最近あった取り留めのない話や高校の友達の結婚や芸能人の不祥事なんかの話をした。そしてその中の9割は頭から抜け落ちてしまった。覚えているのは彼が中小企業の社長になった事だけだ。人の立場だけ覚えているなんて、現金な人間だ。  彼はコーヒーを飲み干して、私と向かい合った。 「今度、食事に行かないか?」  突然の誘いに気が動転する。私はこんなに心で拒絶しているのに、彼はそんな事お構い無しに話を進める。こんなに相性が悪かったのかと他人事のように話を流していた。 「ちょっと高い店なんだけどさ、ここの魚が絶品で……」 「...…あはは」  何故笑ったんだろう。頭に情報が入っていないのにその場の空気から微笑を選択してしまったのだろうか。雑に生きる私の美学は、消えてしまったのだろうか。 「話したい事も沢山あるんだ。ここじゃ話せない事もいっぱい話したい」  ここまでまくし立てるように話していた彼の呼吸が乱れる。彼は深呼吸をして、息を整えた。ここが分水嶺だった。私は適当な理由をつけて、ここから早急に立ち去るべきだった。神がくれた最後の猶予を、私は流してしまった。その報いが今声になる。 「例えば、コイツについてとかさ」 「......ぁ」  彼が持っていたスマホに、映し出されてはいけないものが映る。  私と美濃さんの花火大会が、また汚されようとしていた。 「......という訳で私は元カレと食事会に行くことになりました」 「なるほど分からん」  美濃さんを私の家に招き入れての報告会が始まった。平日の深夜に来てくれるとは思わなかったが私が電話をすると彼は15分後に私の家のインターホンを鳴らした。 「つまり楓さんは元カレと食事会に行くけど疚しい気持ちはなく、純粋に昔話に花を咲かせようとしてるんですよね?」 「分かってるじゃないですか美濃さん。そういう事です」  翔吾が私達の写真を持っていたことは黙っている。要らぬ心配をかけたく無かったのもあるが、あの純粋な思い出を誰かに汚されたくなかったのだ。 「でもさっきの話を聞いてると、そんなに翔吾さんにいい印象は抱いて無いじゃないですか。本当に心から行きたいんですか?」 「思い出を語り合える相手が彼しかしないんです。楽しみに行くんじゃなくて、昔に浸りたいだけですよ」  1番大事な事を伝えてないから必然的に嘘をついてしまう。でも私は、行くしかないのだ。 「本当に行きたいんです」 「......じゃあ1つ交換条件があります」  美濃さんは真剣な目で私を見つめて、そして逸らした。 「創葉って呼んでください」 「え?」 「美濃さんじゃ無くて名前呼びしてくださいよ。僕だって名前で呼ばれたいです」 「......創葉」 「......感動しました」  そんな変な交換条件で私は行くことを許可された。別に付き合ってる訳でも無いのに彼に行っていいのか聞いたのは、私が罪の意識を感じていたからだ。 「よう!」 「こんにちは」  土曜日の2時に私達は指定された場所に足を運んだ。どうやら店とは、目の前にあるこのホテルの中にあるようだ。 「私服で良かったんですか?」 「全然大丈夫だ。私服の客も全然いるしな」  彼はそう言ってはにかむ。そうして食事会が、いや決闘が始まった。  店内はいかにも高級店であることをありありと知らしめていた。名も知らない高そうな壺やテーブルクロス。1番驚いたのはここで食事を楽しんでいる人達の顔が全く分からない食材で覆われていた事だ。きっと高価で美味しいものなんだろう。興味は湧かなかった。 「何でも好きな物頼んでいいぞ」  私は海鮮のパスタと彼がおすすめしていた聞いたことも無い魚の刺身を注文した。彼はサーロインステーキと私と同じ刺身を注文した。赤ワインも白ワインも飲んだことの無い私は、取り敢えず度数の低いワインを注文した。 「この店の雰囲気、いいだろ」 「そうですね。静かで落ち着きます」  落ち着き過ぎて心臓の音が聞こえないか真剣に心配した。この空気に慣れない。紳士な会話を強制されているようなこの空気が、肌を刺して痛みを生み出していた。 「......どうして写真を持っているんですか」 「え?」 「昨日見せてくれたあれです。どうして?」  最後の一言に力を込める。あのバナナ姿の店員と持っていたものと全く同じ写真を、2人が持っている。 「どうしてって、そりゃ俺が撮ったからな」 「......え」 「たまたま見かけて撮っちまったんだ。他意はないんだ」  彼の目が一瞬泳いだのを私は見逃さなかった。彼は何を思ってこの写真を撮ったのだろうか。 「まあ今は楽しもうや」  その笑いが何故か、何かを糾弾する物のように感じられた。  料理が届く。匂いが鼻腔に届くが、何故か食欲を揺さぶられない。緊張しているからだろうか。彼はサーロインステーキを口に運んでいる。私も、熱々のパスタをフォークに巻き付けて食べる。歯がそれを咀嚼した。 「美味しいだろ?」 「......そうですね」  味がしない。海鮮の芳醇さやパスタの旨味を感じられると思ったのに、真空を食しているように味が抜け落ちていた。これも緊張のせいだろうか。それとも━━━━━━━━━  私達の食事会は表面上は滞りなく進んだ。気の利いた会話は彼が作って、私はそれに答えながら食事を楽しむフリをしていた。全て食べ終わると、半分くらいに残ったワインを堪能するフリをした。やっぱり味がしなかった。 「......ふう。腹一杯だ」 「そうですね」  ここからの話が、私達の全てを決めてしまった。麦野さんの聖域を彼は踏み越えてしまった。 「麦野。美濃ってやつとはつるまねえ方がいい」 「どういう意味ですか?」 「あいつはな、小学校の時に人を殴って同級生に重症を負わせたんだ」 「......え?」 「俺はな、真剣に心配してんだ。お前があんな暴力男に殴られてねえかよ」  美濃さんが人を殴った?そしてそれを彼が知っている。それがどんな事を意味してるかは、想像に難くなかった。 「写真を撮ったのだってあいつが暴力を振るってるとこを撮るためなんだよ。運悪くその時は殴ってなかったがな」 「ちょっと待って下さい。美濃さんはそんな悪い人じゃ......」 「分かってる。お前は悪くない。悪いのは全部美濃なんだよ。麦野を恐怖で縛ってるだろう?」  彼は話を聞かずに自分の世界に耽溺していた。きっと純粋に私を心配しているなのだろう。 「それは小学校の時の話でしょう?今は違います」 「人の本性なんて薄皮1枚じゃ隠せねえものなんだよ。今は姿を表してねえがいつか馬脚を露わすさ。そうに決まってる」  彼は私を憐れむように、慈しむように見ている。腹が煮えくり返りそうだった。恐怖よりも怒りが私の脳内を侵食していた。 「だからさ美濃。俺と付き合おう」 「はあ?」 「お前を守ってやる。美濃だって俺が追い払ってやるよ」  彼は私に告白を持ちかけてきた。私は呆れを通り越して一周して怒りに戻ってきた感覚を得た。話が通じない人と、これ以上会話したくなかった。もう十分だった。 「翔吾さん」 「なんだ?」 「落ち葉を投げるのが趣味なんです。どう思いますか?本当に楽しいんですよ」 「......いい趣味だな!」 目の背け方が下手くそだった。  私はその答えを保留にした。本当は今すぐ断りたかったが、恨みを買う恐れがあった。この期に及んで私は誰かに嫌われたくなかった。我ながら最低な思考だったが、本音だった。  話が続いてしまったせいで外は暗くなっていた。雨もぽつりぽつりと降ってきていた。早く家に帰ってお風呂に入ろうと考えていると私の目に違和感が起こった。 世界が、食べ物に見え始めたのだ。  電柱の根元からマグロになっていく。道路はチョコレートに、点字ブロックがメロンパンに変わっていく。外でこの現象に陥るのは初めてだった。大抵は朝起きた時に起こっていて、日常で変化するなんて初めての出来事だった。雨が激しくなって私の私服を浸していく。今日はろくなことが無い。目からも雨が流れ始めるくらいに、私は憔悴してしまった。  スマホがクッキーになる前に電話をかける。 『もしもし?』 「たすけて、そうはさん」  私の中の蜘蛛は止めろと言っていたけど、常識なんてどうでもよかった。私は美濃さんの声を聞いて安心したかっただけだ。  誰にも、文句なんて言わせるもんか。 「......びしょびしょですね」 「あはは」  酒を飲んでしまったのが祟ったのか、目の前に美濃さんの幻影が見える。場所も教えずに一方的に切ったから来るわけないのに。 「どうして場所が分かったんですか?」 「美しい顔が見えたので」 「うそつき」  幻影の彼の肩を借りて歩く。美濃さんは傘らしき物を持っていたけれど、私を支えるためにそれを放棄した。私達はびしょびしょになっていた。それが何故か嬉しかった。 「お風呂借りていいですか?勿論楓さんが先で」 「一緒に入りますか?あたし今気分がいいのでいいですよ!」 「こりゃ本格的に酒に飲まれてますね......」  私達は風呂を交代で入った。洗剤がどこにあるかは気合いで乗り切った。夏なのにやけに涼しくてベランダがひんやりとしていた。 「食事会は楽しめましたか?」 「ぜんぜん」 「......そうですか」  美濃さんは私の部屋にあったパジャマを着ていた。かわいい。ふと口がしょっぱい物を食べたくなった 「創葉さん。お粥食べたい」 「......ご飯ありますか?」 「冷蔵庫にあるよ」  電子レンジで解凍して美濃さんはお粥を作ってくれている。やっぱりGoogleを頼っていた。 「創葉さんって人を殴った事があるんですか?」 「......無いですよ」  私は調理している美濃さんの目を見た。目を逸らした。うそつきだ。でも私はその事に触れない。その傷に触れるのはもっと親密になってからでも遅くない。 「出来ましたよ」 「いただきます!」  私はお粥をかき込む。ベチャベチャのお米と味が分からない何かの汁が口の中で踊っている。 「うん、まずい!」 「レシピ通りなんですけどね......」 「でも味がします」  食事会では感じなかった味がはっきりと分かる。それが何よりも嬉しい。 「味がするのはいい事です」 「......そうですね」  美濃さんは曖昧な笑顔を浮かべていた。その意味に気づくことは今は出来なかった。 「懺悔タイムしていいですか!」 「何ですかそのコーナー」 「今なら何でも話せる気がするんです!」  酒のせいでいつもは言わない事まで出てくる。酒の魔力は恐ろしい。 「今日あった元カレは大成功して社長になってました」 「良い事じゃないですか」 「きっと努力して掴んだものなのに、私は嫉妬しました。最低です!」 「楓さんは優しすぎます」  酒呑みの戯言を美濃さんは呆れずに聞いてくれる。私の愚痴がどんどん溢れ出てくる。私は美濃さんに膝枕をしてもらった。気持ちいい。 「大体母が自殺したのが悪いんですよ。そのせいで父は逃げて......!」 「......うんうん」 「私は母なんて、お母さんなんて」 「うんうん」 「嫌い、でもほんの少し好きだったの」  本当は母の事が好きだったかもしれないと気づいたのは、つい最近だ。母は確かに口が悪かったし味噌汁は不味かったけど。最低の母だったのに。良い思い出が思い出せないのに、好きなのだ。 「私は両親に捨てられてどうしようもなくなって。お腹と背中がくっつきそうだったから近所の皆に助けて貰いに行ったの。馬鹿だよね。友達の家とか祖父の家とかに行けば良かったのに、よりによって見知らぬ他人の家に助けを求めたの。笑えるでしょ?」 「......」  美濃さんの顔が見えない。私は目から弱アルカリ性の液体を流してしまっていた。 「辛かったんですね。楓さん」  私の頬に液体が落ちてきた。それは私と同じ弱アルカリ性だった。 「......私は眠たいので寝ます!帰るなり一緒に寝るなり好きにして下さい!」  私は膝枕から脱出して普通の枕に顔を埋めた。全然柔らかくない。そして意識が遠のいていく。私はどうやら自分が思っていた以上に眠気があったようだった。意識を夢に預ける直前、 「あの時助けられなくてごめんなさい」  美濃さんの懺悔が聞こえたような気がした。
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