8 ミキサーと美濃創葉

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8 ミキサーと美濃創葉

 ふと気づくと私は雨に打たれていた。でも冷たさや湿気の気配は感じなくて、それが夢の世界だということがすぐに分かった。物悲しい寂れた田舎の風景は、私の故郷だった。 「ちょっと待って!」  私の体を通過して少年が通り過ぎた。目の前には汚らしい格好の少女がいて、目には隈があって服もボロ雑巾みたいだった。 「大丈夫?」 「大丈夫に見えるの?」  雨が強まる。少年の手には黄色と緑の傘があって、手を差し出していた。 「良かったら、傘使って」 「食べられるの?」 「え?」 「傘って、食べられるの?」  少女はよろめく足で歩き出す。足を引き摺るような格好で、何かに突き動かされていた。目線は少年には向かず、ただ目の前だけを見ていた。 「濡れると風邪ひくよ!」 「風邪なんてどうでもいい。......私は頭おかしいから」  私はこの会話を知っている。空腹で飛んでいた記憶が何故か夢の中でプレイバックしていた。だからこの続きも、きっと知っている。 「私を助けたいんだったら、食べ物を頂戴よ。傘じゃお腹なんて膨れない」 「......分かったから、ここで待ってて。すぐに美味しいもの持ってくるから!」  少年は傘を少女に渡して駆け出した。少女は歩き出す。傘を地面に投げつけて。 「何も知らないくせに」  少女の涙は、雨と混ざってすぐに消えた。 「おはようございます」 「......」  目を覚ますとそこには美濃さんがいた。時計は朝の9時を指していて、美濃さんに介抱された記憶を思い出して恥ずか死んだ。 「昨日はすいません」 「大丈夫ですよ。楓さんも深刻そうな様子でしたし」  壁も床も元の見た目に戻っていた。体調も二日酔いの頭痛を除けば快調だった。 「朝ごはん作ったんで食べましょう」 「......はい」  日曜日の朝は大体栄養補助食品で済ませていたから正統派な匂いが机の上から漂って来るのに慣れなかった。そもそも机を食事に使うなんて何時ぶりだろうか。思い出せないという事はそういう事だ。 「丹精込めました」 「......なるほど」  机の上に置かれた料理たちはどれも美味しそうで、だからこそ違和感に気づけた。 「これ、どこで買ってきたんですか?」 「......作りましたよ、僕が」 「どこで買ったんですか?」 「......コンビニで」  美濃さんにこんな手の込んだ料理は作れない。あのお粥の壊滅っぷりを見れば誰でも分かる事だ。 「いいんですよ。こんなに豪華な料理は久しぶりです」 「なら良かったです」  椅子に腰掛けて箸をとった。美濃さんは奥の椅子に座ってコーヒーを楽しんでいた。 「創葉さんは食べないんですか?」 「......お腹空いてないんで」  私は豚の角煮を食べながら、お米をかき込んだ。肉の甘みと米の甘みがいい塩梅だった。 「昨日はどうして私を見つけられたんですか?」 「かわいい顔が見えたので」 「冗談を聞きたいんじゃ無いんです。......創葉さんは、秘密が多すぎます」  本当は沢山聞きたい事があった。その一端が顔を出して、思考を埋めつくしていた。 「落葉遊びを楽しいって言ってくれて私は嬉しかったです。だから創葉さんの秘密も共有させて下さい。そんなに私が頼りないですか?」 「僕に秘密なんて......」  そこで美濃さんはコーヒーを飲む手を止めた。何かを思い出すような、追憶に頭を打ち付けられたような感じだった。 「楓さんは、優しすぎます」 「人の名前が分からないのに?」 「分からなくてもです」  美濃さんははにかんだ。 「を知ったら元の関係に戻れないとしても、知りたいんですか?」 「......はい」  美濃さんははにかむ口元を押し殺して、真顔になった。思えば初めて見た、美濃さんの無感情。いつも喜怒哀楽のどれかに満ちていた美濃さんの、初めての無。やっぱり美しかった。 「......ご飯を食べたら、僕の家に行きましょう。そこで、答え合わせしましょうか」  答え合わせと称された美濃さんの秘密。私は食事のスピードを早めた。 「いい天気ですね」  空には雲1つない。朝だから気温は気にならなかったけど、日焼けが少し気になった。 「そうですね」 「こうやって歩くのも最後になるかも知れないし、楽しんでおきます」 「最後になんてならないですよ」  美濃さんらしくない悲観的な言葉が耳元に入ってくる。それほど秘密が重たいのだろうか。 「メロンパン食べますか?」 「......お腹空いてないんで」  さっき買ったメロンパンを差し出すが、拒否されてしまった。形も整って一端のパンとなった店主のパンの匂いも、美濃さんの食欲を掻き立てはしなかった様だった。  かなり歩いた様な気がしたが、美濃さんの顔は一向に晴れない。下を向き続けてムスッとしている。体も少し震えていた。 「あれ、麦野じゃん!」 「......こんにちは」  最悪だ。目の前に私服姿の元彼がいた。こんなに早くに会ってしまうなんて、ツいてない。 「隣に居るのは......美濃か?」 「......こんにちは翔吾さん」  美濃さんが名前を知ってるのも驚いたし、何よりも私を驚かせたのは、その表情だった。表情だけで分かるくらいに、美濃さんは感情を怒りに振り切っていた。 「そんな怖い顔すんなって。可愛がってやってただろ?ん?」 「あの暴力を可愛がりって言うんなら、滑稽さに頭が回りますよ」  美濃さんを初めて怖く感じた。一切の温かみも優しさも感じられないその表情が、怖い。 「それで俺と付き合う気になったか?麦野」 「......え?」  美濃さんは私に懐疑の目を向けた。初めて聞いたその事に驚きを隠しきれない様子だった。 「......美濃は知らねえって顔だな。そりゃそうか。正直に喋ったら殴られちまうもんな」 「......殴った理由はあなたのお友達にあったんですけどね」  美濃さんの過去を私は知らないけれど、きっと壮絶なのだろう。美濃さんの怒りの中に微かな恐怖があるのに気づいてしまった。 「私は美濃さんと付き合っています。だからあなたのお誘いには答えられません。すみません」 「......麦野。お前、頭おかしいんじゃねえのか?」  そこから元彼の叱責と糾弾が始まった。私と美濃さんはそれを黙って聞いていた。言葉が言葉の意味を成さないほどまくし立てられた。私も怒りが湧いてきた。 「なあ、考え直せよ」 「写真」 「あぁ?」 「写真を私の店の店員に渡したのは、あなたですよね?」  バナナ姿の店員が写真を持っていた事。それがどういう事を表しているのかは、想像に難くない。 「あなた、店員と付き合ってますよね?それもつい最近から」 「......なんでそう思うんだよ?」 「最近その写真を店員に見せられました。最初は驚きで物を考えられませんでした」  私が初めて人を殴った日。あの時は恐怖と驚きと怒りで物を考えられなかったが、そういえばあの時、私は彼女のスマホを強奪していた。あの忌まわしい画像を消そうとした時に、私はその証拠を見た。  プリクラで丁寧に日付まで書かれたツーショット写真を。 「最近のプリクラは便利ですね。色々な言葉がスタンプになっていて。『大好き』とか『ForeverLove』とかもありましたけど、どう説明するんですか?」 「それは......その」  元彼の言葉が澱んだ。目線が定まらず虚空を見ている。私は言葉を畳み掛ける。 「あなたのですけど美濃さんに色目を使ってましたよ。それも露骨に」 「あ!?」 「あなたは私と二股しようとするし、もう愛なんて冷めきってるんじゃないですか?」  元彼は唇を引き結んで怒りの形相だった。そもそも私と二股しようとしたツケみたいなものだから、同情心なんて全くないのだが。 「二股しようとした事をバラされたく無いんだったら、私から手を引いてください。そして2度と顔を見せないで」 「......楓さん」  私はもう迷わない。雑に生きようとした昔の私と決別するのだ。私は醜くて愚かだ。でもそれでいい。雑に生きれなくたって、私は私なのだから。 「......呪われちまえ!てめぇなんて最初から好きじゃねえよ!」  そんな捨て台詞を吐いて背を向ける。 「最後に1ついいですか?」 「あぁ!?何だよ!?」  私はその言葉に明確な呪いと侮蔑を込めた。 「名前、何って言うんでしたっけ?」  それが私達の最後だった。 「......僕達って付き合ってましたっけ?」 「いいえ」  歩きながらそう答える。 「私達は付き合ってる事にしないと元彼がうるさくなりそうだったので」 「......ふーん」 「何ですか?」 「別に何でも無いですよ。でもありがとうございます」  美濃さんの家に着いた時、私は大して驚かなかった。どこにでもある普通のアパートで、驚く要素なんてどこにもなかった。 「鍵開けますね」 「はい」  美濃さんはポケットから鍵を取り出して鍵穴に差し込む。ガチャっと音を立てて扉が開いた。 「楓さん」 「何ですか」 「どうか、笑ってね」  玄関に靴を預けて中に入る。短めの廊下を通ってリビングに入った時に、私は固まった。固まらない方がおかしいくらい、おかしな光景だった。  ミキサー。ミキサー。ミキサー。ミキサー。ミキサーミキサーミキサーミキサーミキサーミキサーミキサーミキサーミキサーミキサーミキサーミキサーミキサーミキサーミキサーミキサーミキサーミキサーミキサーミキサーミキサーミキサーミキサーミキサーミキサー  ミキサー。  言葉にするとゲシュタルト崩壊しそうな光景だった。夥しい量のミキサーがそこには並べらていた。床も棚も台所も全てが赤色のミキサーに覆い尽くされていた。 「そ、創葉さん」  私の目線に取り合わずに美濃さんは無表情で歩き出した。 「楓さん。バックの内側のポケットを見て下さい」  私は言われた通りに内側のポケットをまさぐる。硬い感触に従うままにを引き抜いた。それはチップのような何かだった。 「これは......?」 「GPSです。ずっとつけてました」  美濃さんは床に体育座りになって微笑む。 その顔は、恐ろしい程に綺麗だった。 「何から話しましょうか、麦野楓さん?」
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