9 過食

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9 過食

 僕が5歳になった時、世界の全てが煌めいて見えた。家族から贈られた誕生日ケーキもゲーム機も全てが宝物になった。 「創葉、誕生日おめでとう!」  幼稚園の皆から祝われて、有頂天だった。何をしたのかはもう忘れたけどあの時を思い出すと自然と笑みが零れる。きっと素敵な思い出だったんだ。  この幸せがずっと続くのだと信じて疑わなかった。疑うなんて思考は5歳の僕には持ち合わせがなかったんだ。  きっとその日常が跡形もなく崩れたのは、ボロボロの死神を見てしまったからさ。 「創葉。洗濯物畳んで!」 「はーい!」  お母さんの声はちょっと低いけど、温かみがあって好きだ。料理も美味しくていつも笑っているお母さんは、僕とお父さんの誇りだ。  今日の夜ご飯はシチューとパンだ。お母さんは和食の文化を毛嫌いしていて、週の5日以上は洋食を作る。メニューのレパートリーは沢山あるから別にいいんだけど。  僕は階段を上がって太陽の光を浴びたふかふかの服をカゴに入れる。日光を吸った洗濯物はいい匂いがする。畳むのは面倒臭いけれどね。  チャイムが鳴った。僕は家によく来てくれる叔父ちゃんが美味しい物を持ってきてくれたと思って、階段を二段飛ばしで降りた。お母さんが扉を開ける。 「何か、食べ物を恵んでくれませんか?」  目の前にがいた。服は日光の光なんて全く吸い込んでいなくて微かに臭う。髪もボサボサで、清潔感なんてとてもじゃないけど無かった。  その死神は虚ろな目をこっちに向ける。よく見れば目元に水滴が付いていた。 「何か、食べ物を......」 「......ごめんね、私の家も余裕が無くて」  お母さんは1分も経たないうちに扉を閉めた。扉の隙間から、死神と目が合った。  死神は泣いていた。水滴の意味を、僕は悟ったんだ。 「創葉、ご飯にしましょ」 「......どうして助けないの?」  お母さんは目元の笑みを消して僕に優しく話しかけてくる。 「世の中には助けない方がいい人がいるの」 「でも、悲しそうだったよ?」 「......創葉は知らなくていいの」  お母さんはさっきの出来事を消しゴムで消すみたいに頭を振った。  僕はそんなの、納得出来なかった。  僕は玄関前に置かれた2本の傘を持って飛び出した。お母さんの制止の声も、届かなかったんだ。  雨が強まる。手に何も持ってないあの死神は今頃、雨に打たれているはずなんだ。走る速度を少し上げた。 「大丈夫?」 「大丈夫に見えるの?」  死神はそこに居た。その時僕は初めてその死神がただの少女である事に気づいたんだ。少し年上なだけの何気ない少女だったんだ。 「良かったら、傘使って」 「食べられるの?」 「え?」 「傘って、食べられるの?」  傘を食べられるかなんて初めて聞いた。お腹の鳴る音が辺りに響く。 「濡れると風邪ひくよ!」 「風邪なんてどうでもいい。......私は頭おかしいから」  足を引き摺る彼女は、前に金曜日の特番で見た、歩く死体みたいだった。手を離せば直ぐにいなくなりそうな、淡い死体だった。 「私を助けたいんだったら、食べ物を頂戴よ。傘じゃお腹なんて膨れない」 「......分かったから、ここで待ってて。すぐに美味しいもの持ってくるから!」  僕は本当は離れたく無かったけど、家にあるシチューとパンを食べて欲しかったから泣く泣く離れた。でもそれは間違いだったと気づいた時には全てが手遅れだった。  さっきまで電柱と一緒にいた彼女は、傘を残して消えてしまったんだから。  それから彼女と会うことは出来なかった。  僕は小学生になって、彼女の家の事情を少しだけ理解出来た。彼女の家のお母さんは『悪い人』で、あまり良くないお金を手元に入れていたんだ。それが原因で周りの人からは毛嫌いされていた。そんな噂だ。  僕は小学生になって、周りの人との違いに歯噛みしていた。幼稚園の時に仲が良かった友達は皆違う小学校に行ってしまった。  麦野と呼ばれたあの死神は僕の通う小学校にはいなかった。彼女は病院で治療を受けた後に違う学校に転校したらしい。彼女の情報を得るのは、いつだって噂でだけだった。  ある日僕は学校に飾られた花瓶を割ってしまった。学校では図画工作で花瓶を作る授業があって、優秀な作品は学校で実際に花瓶として使われるのだ。  僕が割ったのはとある女の子の花瓶だった。  それがあの悪夢の始まりだったんだ。死神なんかより恐ろしい、人間の醜ささ。  その女の子は学校でもかなりの地位を得ていたんだ。たかが小学校だと思うだろうけど、僕にとっては小学校の立ち位置が大事だったんだ。  端的に言ってしまえば、僕は皆から虐められる事になる。靴箱から靴が消えるなんて当たり前で、酷い時なんて画鋲をシューズに入れられた。クスクスと嘲笑う皆の声で、何回泣いたかもう数えられないんだ。  でもその虐めは意外と直ぐに終わるんだ。僕の生々しい傷跡を見た僕の両親が、学校に問い合わせたんだ。あの時ほど両親に感謝した事は無いね。僕は1回は虐めという水から顔を出して息継ぎ出来たんだ。  そう、ほんの一瞬ね。  その女の子の怒りはまだ収まって無くて、あろう事か彼女の兄が虐めを代行する事になってしまったんだ。  彼女の兄の名前は、翔吾って名前だった。  彼は頭が良くて、虐めの内容も前よりゴージャスだった。殴るなんて事はしなくて、心にダメージを与えて来るんだ。体には傷が無いから、両親も気付かない。脅しもあったから言えるわけも無いんだ。 「創葉!今日は楽しい事をしよう!」  放課後に翔吾の友達数人と河川敷に連れてこられた。この頃には僕の心は擦り切っていて、何をされてもいいやなんて後ろ向きなポジティブささえ生まれてしまっていたんだ。  彼らの手には、数え切れない程の食べ物が握られていたんだ。僕は体を地面に叩きつけられて、その食べ物を口に突っ込まれたんだ。全く、子供ってのは恐ろしいよ。僕は1週間に渡って食べ物を無理やり食べさせられたんだ。胃袋が限界になっても、何度吐瀉物を撒き散らしても、暴れるカブトムシを見て楽しむみたいに笑っていたんだ。笑えるだろ?  1番辛いのはそんな苦行を受けた後に家族と夜ご飯を食べなくちゃいけない事さ。あれだけ楽しみだったシチューとパンが、爆弾に見えたんだ。全部を食べ切って家族に笑みを見せてトイレに吐くのを何回繰り返したか数えるのも億劫だったね。  異変に気付いたのは彼らがこの苦行に飽きて別の虐めが始まった時さ。僕は初めて人を殴って逃げたんだけど、叱られたのは僕だった。あんなに優等生な子がそんな事する訳ないって先生は怒ってたよ。悲しみはもう無かったよ。悲しみに100%浸った人間は、色々な感情が悲しみに侵食されるんだ。  それも勿論1つの異変だったけど、そんな事よりも重大な事が起きたんだ。  僕は、物を食べる事が出来なくなってしまったんだ。固形物を口に持っていこうとすると、あの時の光景がフラッシュバックして喉が固まるんだ。色々な病院にも行ったけど、具体的な処置は液体にして飲む事だけだったんだ。過食が食の楽しみを奪うなんて、滑稽だろう?給食を食べる事も出来ずに、虐めは続いた。  悲しみは無かった。悲しいほどにね。  僕は中学生になっても高校生になっても友達が出来なかった。「友達」って単語すら僕にとってはトラウマを引き起こすのに十分だった。  ミキサーを買い始めたのはこの頃からさ。家族と食事はもう出来ないから、ミキサーに栄養満点の物を入れて混ぜるんだ。あの歯気味いい音と潤沢な匂いがあのトラウマを収めてくれるように感じたんだ。お年玉やお小遣いは殆どミキサーを購入する事に使った。家族に病んでるって思われたくないから自室の棚に全部隠したけどね。  勉強しか取り柄の無い僕だから大学進学は楽に決まった。両親のあの笑顔は忘れられないね。今となっては思い出せないけどね。  僕は大学でも殆ど友達を作らなかった。作れなかったと言った方が正しいけど、そんな事は別にどうでも良かった。ミキサーの趣味なんて誰にも分からないし分かられたくなかったからね。  僕はコーヒーが大好きでよくカフェに行った。真っ当な趣味だったけど、別に味が好きなんじゃ無くて、コーヒーに付随する景色が好きだったんだ。喫茶店はいい景色を見れる事が多いからね。  その時も都会のいい景色が見れると思って入ったんだ。噎せ返るようなパンの匂いはあまり快く思わなかったけど。  僕はコーヒーを頼もうとして彼女の目を見た。馬鹿みたいな話だけど、僕はこう思ったんだ。笑わないで聞いてくれよ。  ......美味しそう、なんて思ってしまったんだ。相手は人間なのにね。  出会った彼女は紛れもなくあの時の死神だった。あの虚ろな目や暴力的なほど美しい顔を覚えていたし、名札も麦野って書かれていたしね。  僕はもうこの店には来ないようにしようと思った。これ以上この美しい顔を見つめてしまったら、僕の理性が消えそうだったからね。  でも運命って奴は僕達を離さなかった。彼女は何故か僕の後ろをストーカーしてしまったんだ。僕の顔はそれほど良くないからきっと何かの間違いだと思ったけどね。  僕はパン屋に行くフリをして彼女と会話をした。声は透き通っていて美しい。理知的な瞳が少し緩むと無性に嬉しくなってしまう。紛れもない恋の兆しだった。  僕はこのチャンスを使って彼女を脅すことにした。本当はこんな事したくなかったけど、こうでもしないと彼女と繋がれないと思ったんだ。翔吾がした事を僕もするなんて皮肉にも程があったね。  ......本当に楽しかった。ミキサーを買いに行ったことも。カラオケで酒に酔う死神を見た時も。家に上がり込んで彼氏っぽい事をした事も。花火大会でいっぱい食べる死神を見た事も。落葉を2人で投げあった事も。全てが誕生日ケーキを貰った時よりも煌めいていたんだ。  1番驚いた事は、ほんの少しだけどメロンパンを食べられた事さ。涙が止まらなかったのは少し恥ずかしかったけどね。  でも僕が最低で汚い人間である事には変わりないんだ。僕は麦野楓って人間とは釣り合わないのさ。どれだけ気丈に振る舞っても心の底で醜い感情が湧き上がってくるんだ。  ......だから僕らは食卓なんて囲めないのさ。
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