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『生命の樹』が現れたのは、24年前の嵐の日だった。大人になった今でも当時のことを思い出す。雨が上がり、嬉しさにドアを開けると、向かいのアパートの屋根に寄りかかりながら太い幹が伸びているのが見えた。それは、よく夜に母が読む絵本のツリーハウスのようで、それを僕は純粋に喜んで、見上げていた。あれはなに?と、興奮気味に振り返り、玄関まで見送りにきた母に僕は無邪気に尋ねてみたものの、答えらしい答えが返ってくることはなかった。母は震え、愕然と腰を抜かしていた。そんな怯えた母を見たのは、それが初めてだった。幼い僕にはもちろん、知る由もなかったが、この『生命の木』の出現が、国の行く末だけでなく、誰もの人生や価値観さえもめまぐるしく変えてしまったのだ。
それから、24年後の先月まで、僕は『生命の木』の管理施設で職員をしていた。あの日の講和会議では君に明かさなかったが、僕はその中でも特に機密事項の多い『生命の樹』が生み出す『木偶』についての研究をしている。
まずは、この都市の真ん中に根をつけた『生命の樹』について、簡単な説明をしよう。基本的な知識程度だが、読み飛ばさず、目を通してほしい。『生命の樹』は他の植物が果実をつけるように、人にそっくりな『木偶』という生命体を生み出す。『木偶』は硬化した内果皮に包まれ、嬰児として出生する。その数は変動があっても、およそ1日に1000 人程度。我が国では『木偶』に人権は与えられておらず、例外なく奴隷階級として扱われている。また、現在の『木偶』の使用については、介護や工事などの肉体労働から、薬物実験、慰安、多岐にわたっているが、これ以上の具体的な内容は割愛させていただく。そんなものは、語るに忍びないことだ。とにかく、『木偶』が使い捨てのモノとして使役されている事実を、十分に再認識していただけただろう。
昔から、僕は誰もが『木偶』を虐げ、幸せに生きようとする社会に一種の恐ろしさを抱いていた。人間そっくりの容姿をし、言語を体得するものが、本当に人間ではないのか?人間ではないならば、なにがどう違うのか?僕はそんな疑念を払拭するために、大学に入り、ひいては『木偶』の研究を始めることとなった。実際に、僕は『木偶』が完全に人間とは別のもの、例えば、家畜に近いものであるというような結果が明かされることを心待ちにしていたのだ。そして、僕は数年後、『木偶』と人との明らかな相違点を発見した。そのひとつは、「木偶」自身には生殖能力がないこと、そして、もうひとつは『木偶』は5歳ほどで身体的成熟を終え、長くとも20歳で寿命が尽きるほど短命であるということだ。この事実は国内外を問わず、公開されている。しかし、本当の問題は人と『木偶』の差異が、たったそれだけであるということなのだ。つまり、その後、判明した事実は倫理上の問題を揺るがす、衝撃的な結論だった。
—— 『木偶』は人間と同等の知能と感情を有している。
さらに言えば、遺伝子学においても同様の結果が得られており、『木偶』と人間の遺伝子構造の酷似が指摘されている。私は今後、この論文を10年分の実験データとともに、国外へ向け、公に発表しようと考えている。その決意についても多くの葛藤があったのだが、その仔細は、後日会った時にでも話せばいい。
とにかく、今は、長官である君の力をぜひ、借りたいというのが本音だ。奴隷商やその他の『生命の木』関連の事業が産業の中枢を担う、我が国の政府は、現在、躍起になって、その事実を隠蔽しようと画策している。この基地もいつ、見つかるかわからない。
亡命は緊急を要する。隣国の大きな弱みであれば、君たちにとってもメリットは多いはずだ。我々の身の安全の担保と引き換えに、その情報の権限の全てを君たちの国へ譲渡する。情報の受け渡しについては、そちらへついてから説明等を行う。現在、亡命は2日後の23時、ハナン沿岸を予定している。君には、その際の受け入れの書類など、諸々の準備を頼みたい。急な連絡になりすまないが、どうぞ、よろしく。
—— 私は震える手で、パソコンを閉じた。 これで、亡命の準備は完了した。あとは、手配した船で、こっそりと支援者の待つ隣国に赴けばいいのだ。私は早くなった鼓動を落ち着かせようと、側の籐椅子に腰をかけた。寝室の扉は半分開いていて、ひとつしかない小さなベットでは、ルリが寝息をたてて眠っていた。僕は今でも、英雄ではない。真実を公表する理由は『木偶』を救いだすことではなく、ただ自分の愛する人を幸せにするためだった。
僕は、切れかかった電球を見て、ふと、ルリとの出会いを思い出した。彼女の目に光る涙を見て、僕は咄嗟に後輩の佐々木の手を掴んでいたのだ。それが始まりだった。僕は、すぐに自分のしでかした失態の大きさに背筋を凍らせた。この国で「木偶」を擁護する者は政府へ密告され、危険因子として監視される。ちょうど、一昨日にもまた、背信の活動家が投獄されていた。悲しいことに、統制の過激さは年を重ねるごとに、顕著になっていた。それでなくても、『生命の樹』に携わる研究員であれば、尚更、言動には細心の注意を払っていなければいけないものだ。
僕は頭をフル回転させ、「ほら、拳に卑しい血が飛び散っている。はやく消毒してきなさい。そんな汚いものをいつまでもつけていたら、君の名落ちにも繋がりかねない。あとの躾は、僕がやっておくから」と、絞り出した嘘をはいた。幸いにも、掴んだ手にはべたりと血液が付着していた。佐々木はその言葉を聞くと、怪訝そうな顔を引っ込め、あとはよろしくお願いしますと、礼儀正しく会釈をし、足早に立ち去っていった。どうやら、うまくごまかせたようだ。僕は安堵し、目の前の少女を見つめた。少女の瞼の片方から出血し、鎖骨と腕に大きな痣があった。また、さらに痛ましく、その白い首には識別番号のID がくっきりと刻まれていた。彼女は紛れもなく、『木偶』だった。しかし、その表情には他の実験物のような、人への恐れの色など微塵も見えなかった。いや、むしろ、立ち尽くす少女には、凡人をとうに凌駕するほど、高潔な気高さえも感じられた。
「大丈夫だったかい」
僕がそう声をかけると、少女は人形のように硬まった表情をわずかに崩し、驚きの色を一瞬覗かせた。 そして、それから、「どうして私のことを心配するの?」と、少女は僕に尋ねた。彼女の声は、とても澄んだ鈴の音のような声だった。だって君、泣いているじゃないかと、僕はゆっくりと屈み、できるだけ優しく答えを返した。この少女はきっと、その時、初めて自分の目に涙があることに気づいたのだろう。ハンカチも使わずに乱雑に涙を拭うと、その濡れた腕を眺めながら、「ねぇ、やっぱり、あなたのいってることわからないわ」と、今度は不思議そうに首をかしげた。
「なぜ、そう思うんだい?」
「だって、私は死んでもかまわない存在じゃないの?」
その問いかけを聞いた途端、僕の頭の中は真っ白になった。僕にはどうしても、こんな残酷な事実が現実に生み出されていることを受け入れられなかった。目の前のまだ、幼い少女が自分の命の価値を当たり前に語り、自分の存在を不要だという。そんなことがあっていいのか。そして、その悲劇を生み出した加害者には、紛れもなく自分が属していることに激しい嫌悪感に襲われた。
彼女は紛れもなく、モノではなく、人間だった。彼女が収容される時間が来るまで、僕は立ちすみ、最後は適当な言葉でもいって別れたのだと、思う。本当のところ、その言葉の後のことは、あまり覚えていないのだ。臆病な自分の心は少女の言葉を強く否定してやれなかったあの日を悔やみ続け、結局、臆病な僕は贖罪のように彼女の元へ通い始めたのだった。
管理棟で出会った、最初の数日は僕が話しかけるだけだけだったが、そのうちに彼女は「こんにちは」と「さようなら」を必ず言ってくれるようになった。自分の行為がどんなに自己満足のものであろうとも、彼女からの挨拶を日ごとに受けることで、当初の罪悪感は薄まり、少女への気持ちは親愛へと変わっていった。
1ヶ月がたって、僕は少女の元に小さなキャンディーをひとつ、持っていった。それは少女に向けての、初めてのプレゼントだった。そんなちんけな贈り物にも「ありがとう」と、彼女は目を見開いて、喜んでくれた。「入室のチェックが厳しくて、それくらいしか渡せなかった。本当は、もっといいものをあげられたらよかったんだけど……。ごめん」続け様に、僕は言って、自分の不甲斐なさを謝ると、彼女は僕の前で初めて笑ったのだ。生々しい傷だらけの顔の中で、彼女の青い瞳が海のように揺れていた。まるで、その瞬間の微笑みはスローモーションのようだった。彼女はとてつもなく、美しかった。それはこの世のどんなものより、どんな思いより、どんな人よりも、比べるまでもなく美しかった。
「3日後に一緒に逃げよう」
僕は言った。言葉は考えるよりも前に飛び出していた。君は、こんな場所で一生「木偶」として暮らしていてはいけないひとだ。ここから逃げようと、 僕がもう一度告げると、彼女は暗い顔になり、下をむいて首をふり、「そんなこと、できないわ。生まれた時に遠くにそびえた、この施設の壁がとても高いのを見たもの」と、言った、 僕は自分の中にあった、最後の不安を取り去るように、大丈夫だよと、少女の頭をそっと撫でた。どのみちここにいれば、彼女はあっという間に死んでしまう。決断のタイミングは今、この時しかなかった。
「君との約束を、僕は破らない。今までも、そしてこれからもそれは変わらないよ。さぁ、僕を信じて。3日後の夜、絶対、君を迎えにいく。それまで、起きていられるね」
じっと、目を見つめると、彼女はその言葉に重く頷いた。
「そうだ、その時のために名前をつけよう」と、僕は提案をした。収容番号を呼ぶのも、さすがに味気ない。彼女を見つめ、僕はパッと閃いた。「ルリ、なんてどうかな?」遠慮がちに尋ねると、少女は顔を明るくさせて、何度も頷いた。
「気に入ってくれてよかった。君の瞳の色と同じなんだ」と、僕は照れ隠しに頭をかくと、うれしいと、彼女が呟き、続け様に終わりのベルが鳴った。実験の始まりを告げる音は、耳障りに僕らの間を切り離した。そろそろ、僕もこの部屋を出なくてはいけなかった。
「楽しみにしていて。きっと、外へ出たら、瑠璃色の場所へ連れていってあげるよ」
僕は一心に彼女が生き延びてくれることを願い、強く手を振った。
——それから、3日後の夜は、思った以上に速いスピードでやってきた。
ソワソワと独り、研究室のパソコンで残業をするフリをして、管理棟の消灯から1時間ほど経った頃を見計らい、僕は彼女を迎えにいった。もちろん、研究論文や逃亡のための資金はすでにしかるべき場所へ送っていた。研究員は、施設内でもかなり自由がきく。警備員が回ってくるまでは、あと2時間はある。それなりに、年密に練った計画だ。なにも焦る必要などないのに、僕の足は次第に小走りになっていた。
前もって持ち出していた鍵を使い、閉ざされた重い二重のドアを開けると、昼に見た収容室の姿はなかった。壁にはひとつの窓もなく、一面には闇が広がっていた。ドアの周囲以外は見えなかったが、大勢の寝息が聞こえた。ルリ、ルリ、僕が小さな声で呼ぶと、おそらく床で雑魚寝していた大量の『木偶』の山の中で、彼女はむくりと起き上がり、僕の元へそっと歩いてくるのがわかった。ワンピースとも呼べない白の貫頭衣を着た彼女の姿は、暗がりでもよく目立ったのだ。
僕らは3日ぶりの再会に抱き合うと、僕はそのまま彼女をおぶって、部屋のドアを慎重に閉めた。彼女の足では遠くまで歩けない。自分の車は、すでに裏口につけてあった。ルリを後部座席に座らせ、エンジンをかけると、予定通り僕は脇の高速へと入った。額の汗を拭う。最悪の想定をしていたからか、完璧な逃亡劇は思ったよりもあっさりと成し遂げられた。
僕はルリに苺のキャンディを渡すと、黒い毛布をかぶっているように指示をした。おそらくこの件が発覚するのが明日の正午頃だとしても、一応、移動中にルリの姿を目撃されるのは避けたかった。なにごとも最後まで、気を抜かないのが大切だ。
「眠っていればいいよ。どうせ、ここから3時間はかかる」
その言葉の後、ルリはいくらか僕に質問をしたが、それもすぐに返答は寝息へと変わった。高速の旅は長かった。
車をつけ、僕が別荘へついたのは、ちょうど朝の5時ごろだった。バックミラーを確認すると、ルリは僕のいった通りにまだぐっすりと眠っているようだった。起こすのも可哀想で、僕はそっとベッドまで彼女を運んだ。ルリは全く起きる気配がない。よほど、疲れていたのだろう。彼女の体は、いつでもひどい栄養失調で衰弱していた。
僕は荷を解くよりも先に、朝ごはんをつくることを決めた。不慣れな手つきで卵を割り、ボールで混ぜる合間に、フライパンにハムを置く。残念ながら食パンはなかったので、代わりに戸棚にあった防災用のパンをトースタで焼いた。どうしたら、ルリは喜んでくれるだろう?また、笑ってくれるだろう?そんなことばかりを思っていた。逃亡を決めた日から、気づけば、僕の行動の理由、全てに彼女の存在が紛れていたのだ。
「おいしそう」と、不意に声がした。振り向くと、さっきまで眠っていたはずのルリが満面の笑みで立っていたのだった。僕は動揺を隠しながら、「もうすぐできるから座っていて」と、言った。僕がフライパンに向き直ると、ルリはリビングの方へ歩いていった。
食卓でも、ルリは何度も僕に笑ってみせた。想像もできないような辛い経験を何度もしているはずの彼女は、そのことを僕の前ではおくびにもださず、ニコニコと微笑んでいるのだった。僕はその光景をずっと、望んでいたはずだった。けれど、いざ、彼女の笑みをみても、全く嬉しくはなかった。どうしても、彼女に無理をしいているように感じられてならなかった。でも、僕には、まだルリを喜ばせる最後の秘策があった。食器をシンクに入れ、僕はルリを誘って、外に出た。鍵をかけている間も、ルリは初めての世界に、そわそわと待ちきれない様子だった。先に行っていいよと、僕が言えば、ルリは目をキラキラと輝かせ、初めは遠慮がちに振り返りながら、しだいにスピードは早くして、最後は崖の方へと全速力で走っていった。抑圧されていた、彼女の幼さがやっと戻ってきたようだった。転ばないように気をつけて、そう声をかけながら、彼女の後を追って歩いている時は、僕自身もまだ、この逃亡に現実味を感じていなかった。どこか、夢のような気分だったのだ。
別荘の横には、切り立った崖があった。そして、その先には一面の海が見えた。父から引き継いだこの別荘の景色が昔から、僕は好きだった。ちょうど、時間はぴったりだった。登る太陽の光が混ざり、そこには瑠璃色になった海が現れる。
先に行った、ルリは崖の突端に立っていた。長い髪が風になびく姿に見惚れながら、僕はルリの名前を呼んだ。
次の瞬間、振り向いたルリの頬には大粒の涙が光っていた。僕は驚いたが、次の言葉でその涙のわけを知った。
「私に自由をくれて、ありがとう。今日まで、生きてこれてよかった」彼女は僕の胸の中へ、勢いよく崩れ落ちた。ルリの笑顔の裏にしまいこまれた膨大な悲しみが小さな体から止めどなく嗚咽とともに外へと流れ出していく。
ほんの少し前まで、生きる価値はないと語っていた儚げな少女が、生の歓びに咽び泣く日を、誰が予想できただろうか。僕自身でさえ、そんな光景を目の当たりにするとは思ってもみなかった。
「お願いだから、今だけは離れないで。あなたがきてから、この世界が輝き始めた」
ルリの言葉に頷いて、小刻みに震える小さな手がシャツから離れるまで、僕はずっと彼女の側にいた。この先、なにがあっても彼女を守りぬくと、僕はその日、決意した。
続いていた日常は、突如終わりを告げたが、今日まで一度の後悔もない。ルリと僕の前に立ちはだかる壁が、自分の命をかけなければ乗り越えられないものだとしても、大切な誰かを見つけたなら、人はどこまでも強くなれる。あの瑠璃色の海のように、この勇気に際限はなかった。
隣国へと向かう準備は、すでに万全だ。僕はそっと、リビングの電気を消した。寝室からは、相変わらず彼女の寝息が静かに聞こえた。そんな、ただひとつの些細な幸せを守るために、僕はこの夜、戦いの火蓋をきる。
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