黒と黄色の偽造-1

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黒と黄色の偽造-1

「うわなんだこの匂い……。っ!! 医者をよべ!! 早く! 緊急だ!!」  古びた木造建築の旅館に野太い声が響き渡る。ラピスラズリのような透き通る海を望み、普段はのんびりとした旅館であるが、今日は怒号と悲鳴がその雰囲気を消し去った。なぜならその旅館の一室、446号室で男が床に散乱する刺身や生肉の中で倒れていたのだから――。  446号室で倒れていた男は発見されてすぐに救急車で搬送され、あらゆる手が尽くされたものの、病院で死亡が確認された。そして救急隊より少し遅れて到着したのが、地元警察の刑事である加古庄之助と鑑識たちだった。その後三日間に渡って部屋と遺体を調べまわっている。加古は長身で筋骨隆々、おまけに強面というそこにいるだけで威圧感を放つ容姿をしており、素手で暴走族のバイクを破壊した、サメを単身で駆除しその日の夜ごはんにフカひれを食べていた、という噂がまことしやかに囁かれる刑事である。現に聞き取りをしている旅館の従業員の中には、ヤクザと話しているのではないかと錯覚するような表情をしている者が何人もいる。 「発見されたのは染谷岳(そめやがく)、40歳。死因はアナフィラキシーショックによる窒息死です」 「アナフィラキシーショック?」 「はい。恐らくハチ毒によるものなではないかと」 「ふむ」  鑑識が加古に被害者の死因を報告していると、五人の集団が加古達の傍の部屋から出てきた。この五人は染谷と同行していた会社の部下や同僚である。みな出先でこんな事件に巻き込まれて憔悴しているように見えた。染谷は東京に本社を構える家電量販店の技術者であり、支部の視察をしに沖縄まで来たらしい。 「被害者の発見時、この五人全員が海の方に行っていたらしいです。確認も取れてます。そしてクーラーボックスの中身を入れ忘れていたことに気が付いた第一発見者が宿に戻ったところ遺体を発見したと。ただ、宿に戻ってきてすぐの発見だったらしいです。部屋の窓が開いていたのでそこから蜂が侵入したのではないかと」  五人の聞き込みをしていた刑事がそう報告した。ハチ毒によるアナフィラキシーショック、そして五人全員の完全なるアリバイ。 「これは部屋に侵入してきた蜂による事故……ということか」 「恐らく。ていうか確実に」  夏場になるとどこの地域でも同じような事故が起こるものだ。これからは蜂への注意喚起を徹底的に行わなければならないと加古がため息をつく。  まあなんであれ面倒なことにはならずにすんだようだ、と加古が現場を去ろうとしたその時だった。「お待ちくださーい!」という間延びした男の声が廊下の端、非常線の外から聞こえてきた。最も事故と判断されたことでその非常線もとかれかけていたのだが。なんだなんだと加古たちが振り向くとアロハシャツにハーフパンツの男が加古たちに向かって走ってきた。 「この事件、ひょっとして事故として片付けようとしてます?」 「片付けようも何もそれしかなかろう? てか君は何かね?」  加古が片眉を吊り上げ、訝しんだような目でその男を見る。まだ年若く二十代前半のようだ。男はサングラスを拭きながら太陽のようなまぶしい笑顔を加古に向ける。 「あ、どうも。明智倫太郎と言います。職業は流浪の旅人です。趣味は昆虫採集と読書です」  加古に対してここまでハキハキ話せるのも珍しい――と一人の刑事が若者に関心を持ったようだ。「どうしてそんなことを言うんだ?」と加古に睨まれるのも構わずに明智と名乗った若者に聞いた。  明智は聞いてもらえたことが嬉しいというような表情を浮かべる。なかなか人懐こい青年のようだ。 「いやー実は僕も男の人が倒れてるの発見された時にその場に居たんですよ。でもなんかその現場見た時に変だなーて」 「……変?」 「はい。ミントの匂いがしたんですよ。ミントの」  刑事達の頭の上にはてなマークが浮かぶ。今のところ全く話が見えてこない。ゆっくりとした明智の話し方にこの中で比較的短気な加古は若干イラつき始めていた。確かにしたはしたが被害者か他の同行者の持っていたものが、被害者が暴れたことによってこぼれたものだと思っていた。 「あ、実は蜂ってミントの匂いが嫌いで、そのにおいがする場所には寄ってこないんですよ」 「……確かにあの部屋はハッカ油を容器ごとこぼしたんじゃないかていうぐらいミント臭かった。まさか誰かが蜂を追い出すためにハッカ油を使ったというのか?」  鑑識の一人が思い立ったように明智に同調した。だが加古はそうはいかない。 「被害者が撒いた可能性だってある」  ミントの匂いを蜂が嫌い、近づいてこないのは事実だが、それだと蜂に刺されて死ぬという事実と矛盾する。とすれば考えられるのは元々撒かれていたのではなく、蜂が入ってきたことに気が付いた被害者が撒いた可能性が一番妥当だろう。 「まあそれも無くはないですが、一瞬入ってみた感じ部屋が濡れていた形跡がなかったように思えるんです。それにそれだけの知識を持ってたら蜂に刺されない時のための行動だってできたはずです。ハッカ油撒く以前に髪を隠しながら後ずさるとか初歩の初歩のことです。なのにあの部屋は散らかりまくっていた。暴れることが逆効果だと分かっていてもいいはずなのに」 「……確かに」  捜査員の中には納得している者が出始めている。この明智という青年の話し方にはまるで大学教授を相手取っているかのような説得力があるのだ。加古はこの現状を理解し、またため息をついた。これから起こる面倒臭そうな事態に向けて。 「……それでお前は何がしたいんだ?」  明智はさっきよりも顔を輝かせた。この場の空気が自分の方に傾き始めていることが分かったからだ。 「第一発見者、できれば同行者の人たちの話を聞かせてください。この事件には不自然な点がまだある。なんで冷房をつけていたのに窓を開けていたのかだとかなぜ外に逃げなかったのかとか……。部屋を事件があった最新の状態で見ていた人の話を聞ければまた別の考え方だって生まれてくるはずです」 「……いいだろう。だが第一発見者含め同行者は今方々への対応で忙しい。話が聞けるのは三時間後ぐらいだそうだ。それまでは手袋と靴にビニールつけた状態でなら部屋を見ることも許可する。ただし期限は今日までだ。今日中に他殺という確たる証拠が出なければ事故として処理する。鑑識はもうあの部屋を調べつくしたらしいし入っても問題ないだろう」  どうせ不可能だと加古は明智を見下ろす。こうやって捜査を許したのも後できちんと捜査をしていないのに事故として処理したと県警に乗り込まれるのが厄介だからだ。もし捜査の正当性を主張できたとしてもその間は通常業務に支障をきたすことになる。だったら明智自らが捜査して警察の正しさを思い知れば問題ない。だがもし万が一他殺だったとしてもそれはそれで殺人犯を野に放つことを防げることにつながる。加古はどんな処分だって受ける覚悟だ。 「それじゃあ部屋から見してもらいますかね」  ――欺して、この明智という変わり者の青年により、事故と断定された事件の再調査が始まったのだった。
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