其の壱

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 震える声でそう答える彼を、阿龍はしばし見下ろしていたが、その口元が僅かにほころぶ。 「ならば致し方ない。吾狼と言ったか、馬を引け」 「は……え?」  なんとも間抜けな声が、吾狼の口から漏れる。慌てて城主の表情をうかがうと、整った顔には柔和な笑みが浮かんでいた。  しかし。  吾狼は疑問に思った。  阿龍の前に出たのは、城に上がったその日ただ一度きりである。にもかかわらず、何故この人は自分の顔と名前を覚えているのだろう、と。  すっかり固まっている新米小姓の様子に、阿龍はさも面白くて仕方がないとでも言うように、小さく声を立てて笑った。 「なんて顔をしている? 言ったであろう、馬を引けと」 「は、ただ今!」  我に返った吾狼はあわてて一礼すると弾かれたように立ち上がり、(うまや)に向け走り出していた。  昨日のうちに馬具を磨き上げておいて良かったと、吾狼は心底思った。  阿龍の愛馬の黒鹿毛(くろかげ)に手入れの行き届いた鞍をのせ手綱を取る。そして、厩の前で待つ阿龍の元に引き出した。 「お待たせいたしました。これに……」  言いながらひざまずく吾狼と黒鹿毛とを阿龍は交互に見比べていたが、ややあって大股に黒鹿毛に歩み寄る。 「役目大義。では、後は任せた」  言うが早いが阿龍は黒鹿毛にひらりと跨るやいなやその腹を蹴り、あっという間に城外へと姿を消した。
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