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俺は人物が苦手だった。
風景や静物は上手く描けるのに、人はどうもバランスが取れない。というか、そもそもたいていの人間は身体のバランスが良くない。
だから描きたいと思わなかった。
それが、この美術部に入って。
部員の自己紹介で立ち上がった先輩を見た時の衝撃。
小さい頭。長い首。全体にすらりと細長く、漫画のような理想的なプロポーション。
この人なら描きたいと思った。
だから、週に一度の全員でクロッキーをやる日は必ず部活に行った。誰がモデルをやるかはその時々で、特に順番が決まっている訳でもなかったから、先輩を描くチャンスを逃したくなかった。
先輩は他の部員よりモデルになる事が多かった。
やっぱり皆、綺麗なものを描きたいのだ。
先輩を描くのは楽しかった。
昔から、人物を描くたびに「見た通りに描きなさい。マンガじゃないんだ」と言われたけれど、先輩はどこも修正しなくてもバランスの取れた美しい絵になった。
描きたくて描きたくて、夢中で見た。
クロッキーの時間じゃなくても、部活に先輩が来たらこっそり盗み見て描いていた。
ある日、部長が「今日はデッサンにしよう」と言った。
その時のモデルも先輩だった。
クロッキーと違って、デッサンには充分時間がかけられる。
じっくりと先輩を見られる、見てもいい時間。
隅々まで、舐め回すように見ても、許される時間。
そうして身体のラインを撫でるように描いているうちに、このラインを鉛筆ではないものでなぞりたいと思った。
柔らかそうな髪を、捲った袖から覗く白い肌を、描くだけじゃなくて触ってみたい。
どくんと心臓が跳ねた。
いや、待て。待て待て俺。何を考えているんだ?
触って…みたい…?
じわりと手のひらに汗が滲んできた。
違う、そうじゃない。
ただ俺は、質感をきちんと描きたいだけだ。どんな手触りなのかでタッチが変わる。
だから、だから、だから……
頭が混乱して手が止まった。心臓は妙な動きを続ける。
鼓動が強すぎて、鉛筆が震えた。
そして恐る恐る、俺の正面に長い脚を組んで座っている先輩を見た。
北側からの柔らかい光の中、気怠そうに椅子の背もたれに肘をかけ、頬杖をついている先輩と目が合った。
一際大きく心臓が跳ねて、息が止まった。
呼吸も忘れて、先輩の作りものみたいな綺麗な顔を凝視した。
たぶん、ほんの数秒。
我に返って慌てて顔を伏せた。
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