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Aー1
早く、卒業してくんねぇかな、あの人。
美術室の鍵を開けながら、その人のやたら綺麗な顔を思い出す。
卒業式まで、あと10日。
土日を省けば、あと8日。
それだけの辛抱。それまでの我慢。
そうしたらあの人は、先輩は卒業する。
俺の前から、いなくなる。
イーゼルを立てて、スケッチブックを置き、モチーフを並べる。
白い陶器の花瓶と、緑色のガラス瓶。そして紅い林檎。
「その林檎、そろそろ食わねーと傷んでくるんじゃねぇの?」
びくりとして、声のした方を見た。
美術室の出入口に先輩が立っていた。
バランスのいい細い身体。
俺は急いで目を逸らした。
「…何しに来たんすか?」
「ナニ?引退したら来ちゃダメなの?」
「つーか、来ないっしょ。フツーは」
そもそも3年はもうほとんど登校してないのに。
先輩に背を向けて、モチーフのバランスを見る。
顔を見られたくない。
顔を見られてはいけないし、見てもいけない。
先輩に気付かれないように静かに深呼吸をして、速くなっていく鼓動を鎮めようと努力する。
「そう言うお前だって、活動日じゃねぇのに来て描いてるじゃん」
それは、活動日はあんたが来るから。
あんたが来て、気が散るから。
深呼吸ぐらいでは治まらない心音。一度目を閉じて息をついた。
目を開けると、
「!」
いつの間にか、モチーフを並べた作業台の向こう側にしゃがんだ先輩が、重ねた手の上に顎をのせて俺を見上げていた。
咄嗟の事で思わず正面から見てしまった。
長いまつ毛。上目遣いの、二重の瞳。
少し薄めの、形のいい唇がくいっと口角を上げる。
「なあ、静物じゃなくてクロッキーにしろよ。モデル、やってやるから」
「いや、いいです。大丈夫です。俺、静物の気分なんで」
慌てて目を逸らしたけれど、もう遅い。
心臓が忙しなく血液を運び、息が苦しくなってくる。
「でもお前、オレを描くの好きだろう?」
断崖絶壁から突き落とされたような気分だった。
頭が真っ白になる、とはこういう事かと思った。
そうだ、俺は、俺は…
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