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「ーーねえ、知ってる? この学園に潜む人喰いの化け物のことを」
名も知らない少年は呟いた。
名も与えられていない少年は嘯いた。
まるで未来を知っているように。
まるで世界が終わってしまうかのように。
物語はまだ、始まっていないーー
ーー聖ヨルエル学園
いつもの通学路を歩き、彼女は学校へ登校していた。
彼女を見つけた百合崎は足早に歩き、彼女の横に追いついた。
「神呪ちゃん、おはよう」
「ああ、おはよう」
挨拶を交わし、いつものように校舎へと向かう。
校門をくぐると、大きな花壇や自然溢れる環境が広がっていた。美しく、幻想的で、朝から生徒たちの気持ちを高揚させる。
「相変わらず凄いな」
「そりゃそうだよ。この学園の理事長は世界的な大富豪で、今も尚政治の中心にいるような人なんだから」
ただの一経営者が政治に参加できる社会、そもそもこのシステムを作ったのはこの学園の理事長だ。
理事長には世界を動かす力と才能がある。
「にしても規格外だよな。この学園は」
幾つもの棟や施設があり、学園の側には商業特区や娯楽特区など、学校帰りでも楽しめるような施設が満載である。
不満など抱くはずもなく、誰がどう見たって最高の学園と評するはずだ。
ーーあれに出会わなければ
教室へつき、席につく。
チャイムが鳴り、担任の空傘先生が入ってくる。
「ホームルームを始める」
ホームルームが終わり、授業が始まる。
月曜日の一時間目、化学の授業。神呪はいつものように欠席し、学園内を徘徊していた。
「さて、いつものように学校探索と行こうか」
意気揚々と呟き、浮き足で学園内を散歩する。
だがその日、彼女は見てはいけないものを見てしまった。
湿気の多い今日、いつもとは違う不気味さを感じていた。
それが危険を知らせる合図だったのかもしれない。
裏庭を歩いていた彼女は「えっ」と思わず声を上げ、目の前に広がっている光景に騒然とする。
聖ヨルエル学園の制服を着た女子生徒が腹から血を流して倒れている。その生徒を全身を黒い髪の毛で覆った"ナニカ"が喰らっている。
思わず目を疑う。
血を流した生徒に、それを喰らうナニカ。
通常の学校生活では味わうことのない恐怖に、神呪は脅えていた。
「何……これ……?」
全身が震え、指先がびくともしない。
校舎の角に隠れたものの、恐怖でその場から動けなかった。
「怖い……誰か……助けて」
声も出ず、心の中で泣き叫ぶ。
とその時、
「おい神呪、こんなところで何してんだ」
空傘先生が通りかかった。
いきなり声をかけられ、神呪は驚いてしりもちをついた。
「えっ、そんな驚かせたか?」
空傘先生の声に耳を傾けることなく、神呪は真っ先にある方角を見た。それは、一度見て絶句した場所。
だがそこには、先ほどまであったはずの女子生徒の亡骸とナニカの姿はなく、水溜まりだけがポツンとできていた。
「……あれ?」
「おい神呪、早く授業に戻れ」
「は、はい」
神呪は逃げるように校舎裏を後にした。
去り際、またあの現場を振り返りながら「何だったんだろう」と、確かに自分の目で見た光景を思い出す。
そんな彼女をナニカは見ていた。
ーーすぐ側で。
教室に戻った時、一時間目の授業は終わっていた。化学を授業していた先生は既に帰っていた。
「もう、神呪ちゃん、どこで何してたの」
「あはは、ちょっとね」
「ちょっとじゃないでしょ。このままじゃ化学の単位、落としちゃうよ」
「大丈夫大丈夫、百合のノートさえ見ればテストで百点取れるし」
「でも授業来ないと」
「行きたいんだけどさ、化学の先生ってあんまり好きじゃないんだよね。ちょっと怖いっていうか、なんとなく不気味なんだよ」
化学教師、彼女の見た目は明るいとは程遠いものだった。
ボサボサの髪が腰くらいまで伸びており、髪の隙間から垣間見える目は獣のように鋭い眼光を放っている。
「確かにそれはあるかもね。でも授業は授業として、ちゃんと受けなよ」
「はいはい。次からそうしますよ」
と話をしている間、神呪はあることはずっと気にかかっていた。
やはり先ほどのナニカが何だったのか、未だに不気味で恐ろしかったのだ。
一日の日程も終わり、放課後になる。
神呪はナニカに脅えながら、百合崎と通学路を下校していた。
だが、
「じゃあバイバイ。また明日ね」
別れ道につき、百合崎と離れ離れになってしまう。
たった一人でいることがどれ程の恐怖か、神呪は戦慄していた。根拠のない恐怖ではない。ずっと視線を感じているような、恐ろしい気配を一日中感じていたのだ。
周囲を見回しても、怪しい人影はいない。
それでも安堵することはできず、家へと駆け足で向かう。
玄関を開け、中へ入り、厳重に鍵を閉めた。
そのまま扉に背を当て、座り込んだ。
「ーーーー」
ただただ怖かった、恐ろしかった。
震えた眼光で何を見たのか、彼女はそれから部屋に引きこもった。
せけて誰かが彼女の側に寄り添っていればーーだが、それは叶わないのだから。
やがて日は明け、次の日を迎えた。
学校を休もうかと思った神呪だが、一人でいるのも心細く、助けを乞うように家の外へ飛び出した。
玄関を出てすぐのところにできていた水溜まりを飛び越え、学校へ走る。
通学路で百合崎に会うことはなく、一人で教室までたどり着いた。
しかしホームルームまで彼女が来ることはなく、ホームルームで百合崎は休みだと知らされた。
「そうか。休みか……」
それを聞いただけで神呪は虚空の中へと圧しやられた虚無感を味わっていた。
たった一人、恐怖に耐えろというのか、殺伐とした気持ちを圧し殺して。
一時間目が始まった時、教室に神呪の姿はなかった。
彼女は体調不良と偽り、保健室に逃げていた。いや、体調不良というのも間違いではない。
震えが止まらず、具合も悪かった。
保健室の先生も彼女を心配してか、快くベッドを貸してくれた。
「これでしばらくは……」
安堵し、疲労を滅するようにベッドに眠り込んだ。
だが、すぐに視線を感じた。
ナニカの視線を。
気配が感じる方へ視線を向け、神呪は安堵した。
気配の正体がナニカではなく、空傘先生であることが分かったからだ。
ベッドで寝込む神呪を心配し、先生が見舞いに来てくれたのだ。
「神呪、体調は大丈夫?」
「は、はい。なんとか……」
「そう、なら良かった」
不安が薄れ行く中、ふと、神呪は口を開いた。
「先生、この学校には怪談とかないんですか?」
「怪談、どうして急に?」
「学校と言えば怪談じゃないですか。人体模型が夜な夜な動いたり、トイレの花子さんだったり。それでこの学校にもそういうのないのかなって気になって」
神呪の質問に戸惑いながらも、空傘は腕を組んで考えていた。
そして思い出したように空傘は腕をほどいた。
「そういえば、昨年卒業したばかりの生徒の間で噂になっていた都市伝説があったね」
「教えてください」
執拗に迫る神呪の気迫に圧され、空傘は話し始める。
「昨年からよく、雨が降っていなかったにも関わらず、時々水溜まりができることがあったの。特に気にしていなかったけど、ある日、化学室に水溜まりができていた。雨漏りをしていないにも関わらず。さすがにおかしいでしょ」
神呪は思わず息をのむ。
「その日のこと。生徒が一人、校内で行方不明になったの」
「…………」
「不気味な話でしょ。その生徒は結局見つかることなく、そして卒業式を終えた。きっとその生徒は喰われたって噂になっていたかしら。この学園に潜むナニカによって」
話を聞き終え、神呪はしばらく固まっていた。
「というあくまでも噂話よ。私は今年からこの学校に来たから嘘か本当か分からないけど」
「そ、そうですか……」
神呪は酷く脅えていた。
今の話を聞いていたから、という理由では足りないほどに震えていた。まるで、それはまるでーー
「神呪? どうかしたの? 具合が悪そうだけど」
神呪が脅えていた理由、それは考えないようにしても抱かれた疑念が確信へと変わり、身に危険を感じたからだ。
もし今の話が本当だったのならば、神呪はこれからーー
「全ては嘘なんかじゃなかった。全部まやかしなんかじゃなかった。私は、私は……」
泣き叫びそうになりながらも、神呪は先生の方を向いた。
「先生、私を助けてください」
一通り事情を話した。
昨日、一時間目に見た光景や、なぜ脅えているかについてを。
「また被害者が出るかもしれないのね。そしてそれは、あなたになる……」
「多分、このままじゃ私は、昨年卒業した先輩と同じようにナニカに喰われる」
「でも、あなたは化け物と一緒に血を流して倒れている女子高生も見たのよね。もしかしたら他に被害者がいるのかもしれない。当然神呪の身を最優先するが、学校全体で挑まなくてはいけないかもしれないな」
ナニカ、その正体は依然としてあやふやなままだった。
「ひとまず今日は私の側に居なさい。そうすればあなたの身は安全よ」
空傘先生が側にいるなら安心だ。
そう思い込み、つかの間の恐怖からの解放に浸った。
「では、今日は学校に泊まると良い。幸い、この学校には仮眠室や風呂、他にも様々な設備が整っているからな」
と言った空傘は、神呪の背後で苦しそうに微笑んでいた。苦笑、とも言うのだろうか。
放課後、保健室で空傘先生と二人きりに。
「神呪、少し後ろを向いてくれないか?」
「わ、分かりました」
戸惑いながらも神呪は後ろを向く。
その背で、空傘が神呪に手を伸ばすーー瞬間、扉が開いた。
しかしそこには誰もいない。
だがそこにはあった。何度も何度も見た、その度に震えたーー水溜まりが。
「まさか……」
「逃げろ、神呪」
空傘先生の叫び声に反射的に動き、神呪は窓の方へと走っていた。だが、窓を開けようとした時、窓が水面へと変わった。
寸前で足を止めたが、既に足場は水溜まりに変わっていた。
死を覚悟した。
人を襲う化け物ならば、人を喰らうのが主流だろう。
少なくとも、世間一般でそう思われている以上、私はこの化け物に喰われるのがオチだから。
案の定、水溜まりの中から手が伸び、神呪の足を掴んだ。そのまま水溜まりの中へと引きずり込む。
「神呪ぉぉぉおお」
空傘先生は走って手を伸ばすが、神呪は先生へ手を伸ばすことなく、化け物がいるであろう水溜まりの中へと沈んでいった。
水溜まりの中は海のように広く、終わりの見えない碧色が広がっている。
そしてその湖には、昨日の朝も見たように、真っ黒い化け物がいた。
「ああ、死にたくない」
どれだけ願っても、結果は変わらない。
ナニカは神呪へ近寄り、そして口を大きく広げた。
化け物のような口だ。人一人を軽々と飲み込めるほどの巨大な口が開き、神呪の胴体を口内までいれた。
口を閉じれば胴体は真っ二つ。
「いやだいやだ。死にたくない。こんなところで死にたくない」
泣き叫ぶ神呪、しかし水の中では身動きも取れず、次第に力が弱まっていく。
呼吸も続かなくなり、意識が遠退いていく。
「ーー百合……」
意識が遠く前に脳裏に浮かんだのは百合崎。
彼女との思い出が走馬灯のように蘇るーーそんな彼女の思い出を喰らうようにして、ナニカは口を閉じた。
錯乱する血は水面に滲む。
血の中には、肉片が数ヵ所混ざっている。
「これで君も、卒業することができるよ。ま、三年後だけど」
ーー次の日
いつもの通学路を神呪が歩いていた。その横を百合崎が歩く。
「神呪ちゃん、卒業式まであと三年だね」
「気が早いよ、百合崎」
そんな彼女らの足下には、水溜まりが。
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