3人が本棚に入れています
本棚に追加
初枝ばあばの登場!
車窓を眺めていたら、再び寝入ってしまった。停留所で、運転手に揺り起こされ、目を覚ますと、窓外に、あのテントが広がっていた。
「あっ、すみません」
そういって、何度か頭を下げ、僕はバスを飛び降りた。
「とうとう来た」
ここではじめて胸がときめいた。芽衣との一件と、猫の夢のせいで、すっかり落ち込んでいたが、テントを見た瞬間に、何かが弾け飛んだようだ。僕は過去を清算し、新しい世界で生きて行く。
「あのう」
サーカスはきょう定休日、音が全くしないのも幻想的だった。しかし僕はというと、大きな木戸の前で戸惑って、だれもいやしないのに、外から声を掛けた。
「あのう、誰かいませんか?田中朔といいます。きょう面接の予定でして」
そこで僕は我に返った。今回はあくまでも面接で、採用が決定していた訳ではない。コートのポケットに手を突っ込み、折りたたみジッパーの財布を取り出した。
「所持金、12万円。だからか……」
母親や祖父母が機嫌良く家を出してくれた訳がわかった。お小遣いとお年玉を貯めていた僕の全財産は12万円。しかもサーカスの採用は決まっていない。どうせ不採用となり泣き帰ってくるだろうと思っているんだ。浅はかだった。
「おい」
「へっ?」
声を掛けられた。見ると、小さなお婆さんが、僕を見上げていた。
「あっ、僕は田中朔と申します。面接を受けに参りました」
緊張して立つ僕の周りを、お婆さんは一周した。
「お前、サーカスに入りたいのか?」
「はい」
僕は前を真っすぐ見ていた。お婆さんは僕を見上げている。
「ふーん、お前なんぼ?」
「なっなんぼ?」
お婆さんを見ると、彼女はニコニコ微笑んでいた。気持ちが落ち着いて行く。
「お金ですか」
僕は財布を差し出した。
「お金じゃない。年はなんぼって聞いとる」
「あ、あああ。はい5月で16歳になります」
「中学は出たのか?」
「はい。今年の春に卒業しました」
「高校は行かんのか?」
「通信制の高校を受けました。仕事をしながら勉強もするつもりです」
「腹は?」
「え?」
背の小さなお婆さんに合わせて、僕は腰を曲げた。
「腹は減ってないか?」
「あっ、いえ」
とはいったものの、昨日の昼ごはん以降、何も食べていない。興奮して食事が喉を通らなかったからだ。そういえば、玄関先で、母がおむすびを持たせてくれた。
「リュックの中におむすびが」
「親が持たせてくれたのか。それでは足りんじゃろう。ワッチについて来い。飯を食わせてやる」
年は取っているが、身のこなしが早い。僕は静まり返ったサーカスのテント中を、少々、怯えながら入った。
「はあ、すごい」
「ん?」
お婆さんが振り返る。観客のいないテントの中は、大きな植物の様だった。パフォーマーと観客の息継ぎと、命がけの緊張感はそのままなのに。
最初のコメントを投稿しよう!