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最初の洗礼。元銀行員の優希
その後、僕は佐藤さんによって事務所に連れられて行った。事務所も移動式コンテナであり、サーカスの入り口を入ると右横にある。僕は、きょうの面接前に、「サーカスに入りたい」と直訴しに来たことがあるので、事務所に来たのは、きょうで2回目だ。その時も対応してくれたのが、この佐藤さんだ。佐藤さんはとても大柄で、じゃりン子チエに出て来るお父さん似ているというのが第一印象だ。とてもカタギには見えないが、先乗りを担当している人らしい。先乗りというのは、次の興行地に先に出向き、色々な段取りをする仕事だという。
「あら、この間の人?」
入ったら真ん前にあるデスクに座る女性が、僕にボールペンの先を当ててそういった。髪の色が薄茶色く、近眼丸出しの眼鏡をかけていた。名前は優希。さっき佐藤さんが、そう呼び捨てしていた。
「履歴書、そこ置いて」
このコンテナはとても広く、応接間もあった。その奥が社長室。
「はい」
横柄な態度は慣れている。僕はリュックを下ろし、履歴書を応接テーブルに置いた。
「そこ座って」
優希はズレた眼鏡を手の甲で上げると、膝を開いた格好で、革張りのソファーに座った。ひざ寸のジーンズに、ぴちぴちしたTシャツ。鼻の付け根に汗をかいている。たしかにこの部屋の暖房は暑い。
一通りの質問を受けている間、優希が僕の目を見ることはなかった。僕に何の興味も示していないことがわかる。彼女は人が好きじゃない。
圧倒的な疲労感を抱えながら、優希に連れられ、今夜から寝泊まりをすることになる、テントに案内された。
「ここが、あんたの部屋」
この人はさっきから僕の事をずっと「あんた」と呼ぶ。
「はい」
頭を下げた時、優希がテントの入り口を開けた。入口にはカーテンが引いてある。
「寝る場所は聞いて。もうすぐだれか帰ってくるでしょう」
「はい、ありがとうございます」
「全く、休日に迷惑だよ」
ぶつぶつ愚痴を言いながら、優希の去って行く後ろ姿を、僕は特に理由なく見つめていた。
「おい、どうした新入り」
この時、声を掛けてくれたのは吉沢さん。後から知ったのだが、空中ブランコで、受け手のパフォーマンスを見せてくれる花形スターだ。彼は、僕に手を差し出した。
「男組にようこそ」
「男組ですか?」
「そうだよ。この部屋の名前が男組み。それとは別に女だけの部屋がある。そこは乙女の館という」
「男組と乙女の館?」
「だけど、乙女の館にはあまり期待すんな」
吉沢さんは僕に目配せをしてから、部屋の中を案内してくれた。
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