それでも生きて行く

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それでも生きて行く

「一体、どうしたの?何があったの?」 僕は芽衣の両腕を掴んで顔を覗き込んだ。芽衣は全身の力を抜いて、僕に倒れかかって来た。 「芽衣ちゃん、泣いているの?」 ベンチの隣で僕の肩に頭を置いて、芽衣は首をふった。しかし明らかに芽衣は泣いている。時折しゃくりあげ、幼い子供のようだった。 「バスが来るまでこうしてていい?」 「うん。でも、芽衣ちゃん、洋服が、なんか、誰かに引っ張られたみたいになって、髪の毛も誰かに掴まれたような…」 芽衣が首を振るので、僕は言葉を止めた。あの時、僕がもう少し強かったのなら、芽衣を、苦しみの渦から抜け出す手助けが出来たかも知れないのに。 「芽衣ちゃん」 名前を呼んだ時、バスのライトに照らされた。眩しくて、手で目を隠した。 「朔、またね」 芽衣は僕の肩から顔を上げ、いつものように笑って見せた。しかし唇の端が切れていて、途中で口に手を当てた。その時だった、大人の男の怒鳴り声が聞こえた。 「おー--い、芽衣、どこだ」 恐ろしい声だった。黒い塊のような男が肩を揺らしてこちらに向かって来る。 「バスが来たから、早く乗って。ねっ」 「でも、あの人、だれ、助けを呼ぼうよ」 バスが停車し、ドアが開いた。芽衣は僕を力づくで押し、バスに乗せようとしている。 「あの人は、わたしのパパなのよ。父親。だから大丈夫」 無理やりの笑顔は、かなり強張って見えた。 「乗りますか、閉めますよ」 バスの運転手の声がした。僕は芽衣を見たままで、後ろ向きにバスに乗った。胸にリュックを抱えた格好で。 「芽衣ちゃん」 バスの扉が閉まり、芽衣が、僕に手を振った。バスが走り出すと、僕はいちばん後方まで行き、バスの窓を開けて、身体を乗り出した。 「芽衣ちゃん、芽衣ちゃん」 芽衣は走って来たが、すぐに諦めたように立ち竦んだ。 「会えるから、絶対に会いに行くから」 そう聞こえた時、バスが角を曲がった。あの時の僕は、きょうの僕よりも、ずっと臆病で、情けなかった。芽衣に押されてバスに乗った風に見せて、本当は、早くその場を立ち去りたかった。黒くて大きな男の存在が怖かったからだ。 バスの中で見た夢は最悪の悪夢だった。 見慣れた自宅の棚の中に、薄いオレンジ色の、見た事もない猫がいて、だけど夢の中で、その猫は飼い猫で、出してあげようとしたら、猫はベランダへ走り、それを捕まえようとした親戚の子の手をすり抜け、8階の窓から落ちてしまった。実際には、うちの家は戸建てなのだが、夢の中では、そこが実家だと思い込んでいる。 現実に目が覚めた時、景色は朝だった。はじめて見る風景。しかし新天地への感動や興奮はなく、僕はただ、窓に頭をふっつけた状態で、ぼんやりと外を眺めていた。
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